横浜 山手西洋館

1.横浜山手西洋館
幕末、日本の開国にともない横浜村(東海道から外れた、わずか80数戸の寒村)に外国人が暮らすための居留地が設けられた。JR根岸線関内駅より海側(現在の山下町など)に相当する。その後、この地が手狭になったので山手地区(現在の山手町など)にも外国人居留地が造られた。この地区の、山手本通りという一本の通りに多くの西洋館が建てられる。現在まで残る建物は関東大震災後のもので、第二次世界大戦中に空襲を受けなかったため、横浜山手地区に歴史的な建造物が多数残された。なお、全国各地の居留地は、通商条約改正(1894年)の実施(1899年)にともない、いっせいに返還された。これ以降、外国人は「内地雑居」が認められ、旅行の制限も解除された。

2.横浜山手地区散策
JR根岸線石川町駅で下車。山手イタリア山庭園へ向かう。明治時代、この地にイタリア領事館が置かれたため、イタリア山と呼ばれている。この庭園に、1993年にブラフ18番館(カトリック山手教会の司祭館、写真①)、1997年に「外交官の家」(写真②)が移築された。この庭園を出て、山手本通りを北へ向かう。カトリック山手教会、ベーリック・ホール(旧ベーリック邸、写真③)、エリスマン邸(写真④)、山手234番館(外国人用の集合住宅)などを経て外国人墓地へ至る。外国人墓地資料館は埋葬者の業績を紹介する資料を展示。墓地内は非公開(公開される日もあるが、確認が必要)。さらに北へ向かうと港の見える丘公園へ。ここには横浜市イギリス館(旧イギリス総領事公邸)と山手111番館(アメリカ人実業家邸宅)などがある。展望台からは横浜港、ベイブリッジ(写真⑤)などを見下ろすことができる。ここからみなとみらい線元町・中華街駅へ。元町通りを経てJR石川町駅へ戻る。元町通りにある商店街は150年以上の歴史をもつ。横浜開港にともない横浜村に住んでいた住民が現在の元町(山手の麓)に移住。明治にはいると、山手と山下の両居留地に住む外国人向けの商店街として栄えるようになった。

<参考>
横浜山手西洋館マップ」(公益財団法人横浜市緑の協会の公式サイト)はダウンロード可能。
『神奈川県の歴史散歩(上)』(山川出版社、歴史散歩14)

<写真>
①ブラフ18番館(カトリック山手教会の司祭館)
ブラフ18番館
②山手イタリア山庭園にある「外交官の家」(もと明治政府外交官の家)
外交官の家2
③ベーリック・ホール(旧ベーリック邸)
ベーリック・ホールa
④エリスマン邸(エリスマンは、スイス生まれの、生糸貿易商社の横浜支配人)
エリスマン邸B
⑤港の見える丘公園から見たベイブリッジ
港の見える丘公園 ベイブリッジ
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横浜開港 横浜三塔

1.横浜開港の歴史
①欧米の日本進出
欧米では市民革命を経て、18世紀後半から19世紀にかけて産業革命が進展した。大量生産による安価な商品市場と原料資源の獲得を国外に求めてアジアに進出。こうして欧米列強による植民地獲得競争が始まった。1853年(嘉永6年)6月、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀沖(神奈川県)に来航し、日本に開国を迫った。幕府は久里浜(同県)でアメリカ合衆国大統領フィルモアの国書を受け取り、幕府老中阿部正弘は来春の回答を約束。ところで、ペリーの来航により突然日本が開国を迫られたのではない。それ以前の18世紀後半から外国船が相次いで日本に来航し、開国や通商を求めていた。たとえば1792年(寛政4年)にロシアのラックスマンが、1804年(文化元年)に同じくロシアのレザノフが、漂流民を護送し、通商を求めた。1846年(弘化3年)、アメリカの東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に入港し、開国などを求めた。7年後、ペリーはビッドルの失敗をじゅうぶん研究し、日本に開国をせまった。
②横浜開港
1854年(安政元年)1月、ペリーは7隻の軍艦を率いて再び来航。神奈川(東海道の宿場町・港町)沖に投錨し、開国をせまった。幕府は西神奈川の横浜村(当時は半農半漁の寒村)で交渉し、ついに同年3月、日米和親条約(神奈川条約)を調印。下田(伊豆半島南端)、箱館(のちの函館)の2港を開港し、領事館を下田に設置することなどを取り決めた。同様な条約をロシア、イギリス、オランダとも結んだ。1856年(安政3年)、アメリカ総領事ハリスが下田に領事館を開き、通商条約の締結を求めた。1858年(安政5年)6月、大老井伊直弼は勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を得られないまま日米修好通商条約を締結。このとき、下田・箱館のほか、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港(翌年、神奈川ではなく東海道から離れた横浜を開港、下田は閉港)。さらにオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも修好通商条約を結んだので、安政の五か国条約と総称している。

2.横浜三塔 横浜開港資料館 
横浜市の関内(注)地区には歴史的建造物がたくさんある。とくに横浜三塔(写真上①②③)は有名。横浜市開港記念会館(同「ジャックの塔」、1917年竣工)、神奈川県庁(愛称「キングの塔」、1928年竣工)、横浜税関(同「クイーンの塔」、1934年竣工)の建造物をいう。みなとみらい線日本大通り駅を下車するとすぐ横浜市開港記念会館(現在も公会堂として利用されている)。ついで神奈川県庁、横浜税関へ。横浜三塔の見学を終えると、開港広場(写真中)へ。ここでペリーと幕府との間で日米和親条約が締結された。この広場の隣に、横浜開港資料館(写真下)がある。新館の「展示室1」では、「ペリー来航とその前後の世界情勢や日本、そして横浜のようすを紹介」。同じく「展示室2」では、『横濱毎日新聞』(日本最初の日刊紙)など、「横浜~もののはじめ」などが紹介されている。さらに「企画展示室」では「江戸時代から大正・昭和初期までの横浜の歴史に関わる人物や出来事などに焦点をあて、年4回の企画展示を開催して」いる(資料館のパンフレットより)。なお、旧館は旧イギリス総領事館。有名な「ペリー提督の横浜上陸」図(ハイネ画)に描かれているタブノキ、通称「玉楠の木」(たまくすのき)は、現在でもこの資料館の中庭に存在する(関東大震災で焼失、その後根元より再生)。日米和親条約が結ばれたこの地で当時のことに思いをはせるのもよい。
(注)関内(かんない)…安政6年(1859年)、開港にともない横浜村に外国人居留地が造られる。この「居留地へ通じる橋のたもとに人々の出入りを監視するための関所が設けられた。この関所の内側という意味で『関内』と呼ぶようになった」(横浜開港資料館編『横浜・歴史の街角』)。「関内」という住所表示はなく、行政上の町名では横浜市中区の、港町・尾上町・本町・山下町など、JR根岸線関内駅から海側の地域。伊勢佐木町側は「関外」という。

<写真上>横浜三塔①横浜市開港記念会館、愛称「ジャック」
「ジャック」横浜市開港記念会館
<写真上>横浜三塔②神奈川県庁、愛称「キング」
「キング」神奈川県庁
<写真上>横浜三塔③横浜税関、愛称「クィーン」
「クィーン」横浜税関
<写真中>開港広場
球体には「日米和親条約調印の地」と書かれている。この広場の右側に横浜開港資料館がある。
日米開港の地
<写真下>横浜開港資料館(正面玄関)
中庭に「玉楠の木」(たまくすのき)が見えている。この近くで日米和親条約が結ばれた。
横浜開港資料館正面玄関
<地図>横浜三塔、開港広場
横浜三塔、開港広場

横浜大さん橋 赤レンガパーク 赤レンガ倉庫

1.横浜大さん橋 赤レンガパーク
若いころ、横浜市に4年間住んでいた。勝手知ったるところなので、ときどき写真を撮りに行く。みなとみらい線元町・中華街駅で下車。中華街、次に山下公園へ。この公園に繋留・保存されている日本郵船氷川丸(博物館船)を見学する(ここから徒歩15分のところに日本郵船歴史博物館もある)。氷川丸は日本郵船が1930年(昭和5年)に建造したシアトル航路用の、1万2千トン級の貨客船。山下公園から横浜港大さん橋国際ターミナルへ。ターミナルの建物の2階や屋上の床は、ウッドデッキ(写真上)になっている。現在の大さん橋は2002年(平成14年)に完成(平仮名混じりの「大さん橋」が正式名称)。大さん橋埠頭には国内および外国航路の客船が発着する。クィーン・エリザベス号級の客船が2隻同時に接岸できるという。大さん橋から「象の鼻のテラス」(レストハウス)を経由して赤レンガパークへ。ここに歴史的建造物である、二棟の赤レンガ倉庫がある。帰りは最寄駅であるみなとみらい線日本大通り(にほんおおどおり)駅へ。

2.赤レンガ倉庫
横浜港は明治20年代初頭以降、生糸を中心とする輸出貿易が急増し、輸出品を運んでくる鉄道と船とを直結する船舶の繋留設備が求められるようになった。このため、造られたのが現在の新港埠頭(地図)。その際、二棟の新港埠頭保税倉庫(通称、赤レンガ倉庫)が造られた。鉄道線を引き込み、エレベーターを備え、倉庫前面に貨物の積み下ろしをしやすくするためのプラットホームを設けた。背面にエレベーター塔を備えているため、前面(写真下①)と背面(写真下②)とでは異なった印象になっている。現在、赤レンガ倉庫周辺は赤レンガパークとして整備されている。二棟の赤レンガ倉庫は、ホールを備え、雑貨店や飲食店などが出店して、若者で賑わう横浜の名所のひとつとなっている。なお、南側の第一号倉庫は大正12年(1923年)の関東大震災で中央部が倒壊し、現在は約半分の大きさになっている。

<資料>上記の2は、横浜開港資料館編『横浜・歴史の街角』より自由に引用。
<地図>新港埠頭~山下公園
(地図)横浜新港埠頭
<写真上>横浜港大さん橋国際ターミナル
横浜大桟橋
<写真中>象の鼻のテラス付近からみた「横浜みなとみらい21」
象の鼻のテラス付近①
<写真下>赤レンガ倉庫①前面
赤レンガ倉庫(前面)
<写真下>赤レンガ倉庫②背面
赤レンガ倉庫②
<写真下>赤レンガ倉庫③遠景
赤レンガ倉庫①

礼文島 桃岩展望台ハイキング

礼文島は、日本最北の有人島で、「冷涼な気候により海抜0メートル地帯から200種類以上の高山植物が咲き乱れているため、別名花の浮島」と呼ばれている(Wikipediaより)。1974年夏、稚内港からフェリーに乗り、礼文島へ(写真①は2014年7月に撮影)。当時の写真もメモもなく、今となっては記憶も薄れがち。宿泊した場所もあいまい。泊まったのはユースホステルだったかもしれない。ただ宿泊先から歩いて山を登り、利尻島を見に行ったことはよく覚えている。今回(2014年7月)はフェリーターミナルのある香深(かふか)からバスで桃岩登山口まで行き、ここから桃岩展望台へ歩く。桃岩や猫岩がよく見える。少し歩くと利尻島が見える場所へ着く。今回は残念ながら、利尻山(利尻富士)の頂上に少し雲がかかっていた(写真②)。前回は、雲のかからない利尻山がまるで海に浮かぶかのように見えた。北海道でもっとも感動したのが、ここ礼文島桃岩展望台近くから見た利尻山。展望台から元地(もとち)灯台を経て下山(写真③)。さらに歩いて「北のカナリアパーク」へ(写真④)。ここからバスに乗り、香深へ戻る。桃岩展望台ハイキングコースは全長約6キロ、3時間を要する。起点の桃岩登山口までと、終点の知床にバス停があるのでとても便利(ただ運行時間は事前に確認が必要)。ハイキングコースは大部分がなだらかな草原(お花畑)。バス停のある桃岩登山口から桃岩展望台まで約1.3キロメートル歩くだけで、雄大な景色と高山植物を見ることができる(知床へは行かず、桃岩登山口に戻ってもよい)。定期観光バスを利用すれば半日で礼文島のおもな観光地をめぐることもできる。とくに澄海岬(すかいみさき)の海食崖はみごと(写真⑤)。

<参考1>礼文島郷土資料館
礼文島郷土資料館(冬期休館)…香深港の近くにある礼文町町民活動総合センター内にある。フェリーの待ち時間などに是非立ち寄りたい。とくに「ニシン漁に関した展示、礼文島の風景写真など」が見もの(「たびらい北海道」より)。
<参考2>桃岩展望台ハイキングコース
礼文島トレイルオフィシャルウェブ
礼文島を歩こう
礼文島自然ガイド

<写真①>「海に浮かぶ」利尻山(稚内港~香深港)写真は2014年
海に浮かぶ利尻山(稚内港~香深港)
<写真②>桃岩展望台近くから見た利尻山
桃岩展望台近くからみた利尻山
<写真③>桃岩~知床ハイキングコース
桃岩展望台ハイキングコース
<写真④>「北のカナリアパーク」から見た利尻山
北のカナリアパークから見た利尻山
<写真⑤>澄海岬(すかいみさき)の海食崖
澄海岬の海食崖

稚内市 ノシャップ岬

稚内は2度訪れたことがある。最初は1973年夏、国鉄宗谷本線で稚内駅へ。2度目は2014年7月、稚内空港から市内へ。2014年、JR稚内駅前バスターミナルから路線バスに乗って宗谷岬へ行く。次にノシャップ岬(写真①)にある恵山泊(えざんどまり)漁港公園へ。「ここから見る夕日はすばらしい」とガイドブック(実業之日本社『てくてく歩き北海道』)に書いてあったが、見られず。代わりに夕日を見ようと集まった人々を撮る(写真②③)。翌日、稚内公園へ。公園内にある開基百年記念塔からはサロベツ原野や、利尻島・礼文島などを望むことができる(写真④)。次に、ガイドブックには記されていないが、旧瀬戸邸(稚内市中央4丁目)を訪れる。Webサイトには次のように説明されていた。「昭和20年~40年代。稚内のまちは、底曳網漁の前線基地として、国内各地から人が集まり、活気に満ちあふれていました。そのさなかの昭和27年、『旧瀬戸邸』は、瀬戸常蔵という底曳きの親方の住宅として建てられました。建物の外観は、明治期から大正期に見られる旅館建築を彷彿とさせます。……戦後まもない昭和の建築物を保存するとともに、稚内の漁業の歴史を伝えていきます。」

稚内市は、市としては日本最北にあり、旭川市以北では最大の都市。「日本最北端の駅」であるJR稚内駅があり、駅前には宗谷岬・ノシャップ岬へ行くバスターミナルもある。また近くの稚内港フェリーターミナルから利尻島や礼文島へ行くこともできる。駅前バスターミナルから「日本最北端の村」である猿払村(さるふつむら)へ行く。オホーツク海に面した道の駅「猿払公園」内にある「いさりの碑」には、次のような文言が刻まれている。
「……猿払の海を拓いた多くの先人の苦労と偉業を偲び其の意志を我々も子孫もうけつぎそして実践することを肝に銘じ、今此の碑を建てる。
人間は神々と力を競うべきでない。
人間は自然の摂理に従うべきだ。
昭和56年11月22日
猿払村漁業協同組合」
……改めて北海道の、開拓の歴史を思う。
<注>ノシャップ岬(野寒布岬)は稚内市に、ノサップ岬(納沙布岬)は根室市にある。なお、ノサップ岬は離島・北方領土を含まない本土の最東端。

<写真①>稚内半島。右端がノシャップ岬。手前は宗谷湾。
ノシャップ岬
<写真②③>恵山泊(えざんどまり)漁港公園にて
恵山泊漁港公園にて
恵山泊漁港公園にて②
<写真④>開基百年記念塔から見た利尻島
稚内公園から見た利尻山

The Seasons

フォトムービー「The Seasons」は、2013年11月から2014年10月までの1年間に撮影した写真をもとに作成(2014年)。2017年7月に再編集。いわゆる絶景スポットでの写真は1枚もなく、できるだけ身近な自然や風景を撮影(写真①②)。おもな撮影地(順不同)は、国立昭和記念公園(立川市)、都立小金井公園(小金井市)、都立武蔵国分寺公園(国分寺市)、都立神代植物公園(調布市)、郷土の森博物館(府中市)、北山公園(東村山市)、深大寺(調布市)などで、鎌倉市を除けばすべて東京都多摩地区。なお、フォトムービー「The Seasons」の次に作成したのが「The Seasons2」で、2017年2月9日にアップ済み。

写真①都立武蔵国分寺公園
武蔵国分寺公園
写真②国立昭和記念公園(水鳥の池)
昭和記念公園(水鳥の池)

松山市 松山城 現存12天守

1.松山城
松山市は伊予松山藩15万石の旧城下町。JR予讃線松山駅から東にむかって歩くと、城山公園(堀之内地区西堀端)に着く。この堀之内に愛媛県美術館、松山市民会館、県立図書館、NHK松山放送局があるが、大部分は市民が憩う広場。ここからさらに東へ向かい、愛媛県庁を過ぎると、やがて伊予鉄道(路面電車)大街道駅へ。この駅の周辺にはカフェが多く、ここで一休み。駅から北へしばらく歩くと、松山城ロープウェイ・リフト駅。松山城の天守がある本丸広場へは、このロープウェイかリフトを利用する。歩いて登ることもできる。標高132mの城山(勝山)山頂に天守がある(現存12天守のひとつ)。この天守の最上階からは、松山市内や瀬戸内海が一望できる。なお、道後温泉へ行くには、大街道駅に戻り路面電車を利用する。

2.現存12天守
城はおもに戦いのための防御を目的にした砦だが、天守はその城の建造物のひとつ。城には天守が無いこともある。たとえば江戸城の天守は明暦の大火(明暦3年=1657年)で焼失し、その後再建されなかった。「天守」を「天守閣」と言うこともあるが、「天守」は日本の建築学の学術用語。「天守閣」という言い方は、「幕末以降に使われ始めた俗称」(「日本のお城 基礎知識」より)。江戸時代末期に日本全国の名所を描いた浮世絵「『名所図会』の影響によって庶民の間で『天守閣』という名称が流行し、明治以降に一般化した」という(My知恵袋、asphalt-felt)。「明治以降まで残った天守は全国で19あったが、戦災で6、戦後の火災で1(北海道福山城)が失われ、現存する天守は……12城である」(山川出版社『図説歴史散歩事典』)なお、現存12天守が存在する城は以下の通り(地方別)。
東北地方(1)…弘前城(青森県)★
中部地方(2)…松本城(長野県)●★、犬山城(愛知県)●
近畿地方(3)…丸岡城(福井県)、彦根城(滋賀県)●★、姫路城(兵庫県)●★
中国地方(2)…松江城(島根県)●★、備中松山城(岡山県、別名高梁城たかはしじょう)
四国地方(4)…丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)★、宇和島城(愛媛県)★、高知城(高知県)★
<注記>●印は国宝に、無印は重要文化財にそれぞれ指定されている。★印は私がこれまでに訪れたことのある城。なお、「行ってよかった!日本の城ランキング2016」(トリップアドバイザー)による順位は以下の通り。1位姫路城、2位松本城、3位熊本城、4位犬山城、5位二条城、6位松山城、7位備中松山城(高梁城)、8位松江城、9位彦根城、10位中城城(なかぐすくじょう)跡(沖縄県)。

<参考>
日本のお城 基礎知識
My知恵袋(天守と天守閣って同じ意味…)asphalt-feltさん」

<写真>
本丸広場から見た松山城天守(2017年4月撮影)
松山城天守と本丸広場

宇和島市 宇和島城 朝日運河

1.宇和島城
宇和島市は、愛媛県の南西部に位置する都市で、宇和島城を中心に発展した旧城下町。市の西に臨む宇和海は典型的なリアス式海岸で、宇和島港は天然の良港。宇和島駅は予讃(よさん)本線の終点。宇和島城は慶長6(1601)年、藤堂高虎(とうどうたかとら)によって創建された。寛文11(1671)年に大修理が完了し、天守が今の姿になった(現存12天守のひとつ)。なお、万延元(1860)年に大修理を行い、昭和37(1962)年に天守の解体修理を終えた。私は昭和54(1979)年にも宇和島市を訪れたことがある。宇和島城はよく覚えていたが、天守の中を見学したのは今回(平成29年=2017年)がはじめて。宇和島藩の7代藩主伊達宗紀(だてむねただ)が築いた池泉(ちせん)回遊式庭園である天赦園(てんしゃえん)や宇和島市立伊達博物館を訪れるのもよい。
2.朝日運河
宇和島市は背後に山が迫り、平地が少ないため、干拓や埋め立てにより市街地を拡大してきた。前回(昭和54年に)訪れたときは港(朝日運河)から比較的近くの宿で泊まったこともあり、当時の港の風景をよく覚えている。ところが、昭和60(1985)年から昭和63(1988)年にかけて、「宇和島港の再開発が行われ、『朝日運河』と呼ばれた細長い船溜まり(ふなだまり)や樺崎(かばさき)沖が埋め立てられた」(愛媛県生涯学習センター)。このため、朝日運河はなくなり、あたりの風景は一変していた。前回は宇和島港から船に乗り、日振島も訪れた。高速艇で1時間、普通船で2時間ほどで行ける。この島は、平安時代の藤原純友(ふじわらのすみとも)の、ゆかりの地として知られている。
<参考>「地図から読み解く地域のすがた⑤」(愛媛県生涯学習センター)
宇和島城下埋立ての記録、宇和島港
<写真上>宇和島城の天守(2017年)
宇和島城2017年
<写真下>宇和島城の本丸から撮った宇和島港と宇和海(1979年)。
宇和海1979年

高松市 屋島

1.屋島とメサ
香川県高松市の北東に位置する「屋島」の名称は、屋根のような形状をした島に由来する。屋島は文字通り島で(現在は川を挟んで陸続き)、テーブル状の火山地形。これを地理用語で「メサ」という。また同県の「飯野山(いいのやま)」(讃岐富士)なども「ビュート」と呼ばれる火山地形。メサもビュートもスペイン語で、ともに火山活動とその後の浸食によってできた地形。これらの典型的な地形は、アメリカ合衆国アリゾナ州のモニュメント・バレーで見られる。テーブル状の地形がメサ、円柱状の地形がビュート。ただ飯盛山(標高約421m)のビュートは円錐形をしている。写真は、高松駅近くの中央埠頭から撮ったもの。テーブル状の火山地形(メサ)をした屋島を確認できる。
<参考>屋島~天然記念物(高松市)、香川県のメサとビュート(ブログ「真っすぐ走ろう!」)
2.屋島と展望台
屋島へはJR高松駅で高徳線に乗り、屋島駅で下車。琴電志度線に乗って行く場合は、琴電屋島駅で下車。いずれの駅でも、屋島山上シャトルバスに乗って屋島山上駅へ行く。平日は1時間に1本、土日は30分に1本運行。山上駅近くには四国八十八箇所霊場第84番札所の屋島寺がある。山上からの展望はとてもよい。山上駅のある南嶺の標高は約292m。「獅子の霊巌」(ししのれいがん)と呼ばれる展望台からは高松市街や瀬戸大橋方面が一望できる。また「談古嶺」(だんこれい)と呼ばれる展望台からは源平合戦の屋島古戦場(屋島の戦い)や小豆島(しょうどしま)方面が見える。
※屋島の戦い…1185年、讃岐屋島での源平合戦。源義経が、屋島に逃れた平氏軍を背後から急襲。平氏はこの敗戦で瀬戸内の制海権を失い、その後壇ノ浦の戦い(山口県下関市)で滅亡した。
<写真>中央埠頭から見た屋島
屋島

五番街のマリーへ 高橋真梨子

「あの年この歌」という番組(テレビ東京)がある。「番組概要」には、次のように書かれている。「毎回、20世紀のある1年を主題として、名曲と時代を振り返る新しいタイプの“音楽報道番組”。 番組を見れば当時にタイムスリップし、音楽に勇気づけられた思いとパワーが蘇り、現代で忘れ去られたモノや、今後の生きる道しるべが見えてくる大人のための新しい音楽プログラム」 私には、テレビで歌番組を見るという習慣はまったくない。ふだんはYoutubeでおもにクラシック音楽などを探し、聞いている。しかし、この番組だけは不思議と毎回見る。「あの年この歌」が歌われていた「ある1年」が分かり、さらに懐かしさも手伝い、ビデオに録画して見ている。5月23日の「あの年この歌」は、高橋真梨子の「桃色吐息」(昭和59年=1984年)であった。わたしはこの歌ではなく、同じ番組で聞いた「五番街のマリーへ」に注目。この歌を意識して聴いたのははじめて。つまり初めて聴いたも同然。この歌はペドロ&カプリシャスの代表曲のひとつ。作詞阿久悠、作曲都倉俊一、ボーカル高橋まり(現在の高橋真梨子)。私は歌詞にも注目してみた。すると次のような「解釈」をしているブログを見つけた。以下に一部を引用してみる。このブログ(「いろいろブログ」)は女性によって書かれている。全文はブログを見て欲しい。

「五番街へ行ったならば マリーの家へ行き
どんなくらし しているのか
見て来てほしい

これを頼んでいるのは、男性である。彼の心の中に、刺さっているマリーという女性がいる。マリーとは、長い間、音信普通である。マリーは、不幸な人生を歩んできたことが、この短いフレーズで、私たちは、理解できるのだ。どんな暮らしをしているか、わからない。幸せそうな女性であれば、こんな台詞は出てこない。

五番街は古い町で 昔からの人が
きっと住んで いると思う
(省略)
たずねてほしい
マリーという娘と 遠い昔にくらし
悲しい思いをさせた それだけが気がかり
五番街でうわさをきいて もしも嫁に行って
今がとてもしあわせなら 寄らずにほしい
(省略)
……非常に物語的な作品である。マリーは、不幸せが似合う。そういう幸薄い影がある女性である。長い髪をして、可愛い女性である。男の人に対して、尽くして、恋する男性だけが彼女の全人生になってしまう。そんな女性である。そんな彼女が、彼をいらだたせることが、あった。彼女を必要以上に傷つけ、別れてしまった。ひどいことばかりをしてきた。何年たっても、彼女のことが、気がかりで、ある。彼女が住む五番街は、彼にとって、ある意味、聖地である。だからこそ、近づけない。マリーが、不幸せだとわかれば、飛んで生きたい。けれど、この男性は、踏みとどまるだろう。」

この歌の「五番街」とは、ニューヨークの、高級商店街のある地区のことであろうか。「五番街」には「若い男女が、気軽に同棲できるような」安アパートがある地区もあるらしい。いずれにしても、そんなことを気にせず、この曲を聞くのがよい。

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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