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奥多摩 鳩ノ巣渓谷

 11月初旬、東京都奥多摩町にある鳩ノ巣渓谷を散策した。
 JR青梅線鳩ノ巣駅で下車し、隣り(立川方面)の古里(こり)駅まで、およそ2キロのコースを歩く。ただ、直線距離を歩いたわけではないので、実際にはもっと歩いている。写真では、全面が紅葉・黄葉しているように見える写真もあるが、決して全山がそうであるわけではない。もともと奥多摩地方ではスギ・ヒノキなどの針葉樹が多く、紅葉・黄葉する広葉樹は少ない。このへんの事情を、「東京の木『多摩産材』②」(東京・多摩地域の林業と、木材の地産地消を考える)から、自由に引用させていただいた。

<写真>
①鳩ノ巣渓谷吊り橋(鳩ノ巣小橋)付近から
鳩ノ巣渓谷2018111401
鳩ノ巣渓谷2018111402
鳩ノ巣渓谷2018111403
②寸庭橋(すんにわばし)から
鳩ノ巣渓谷2018111404
鳩ノ巣渓谷2018111405
③万世橋から
鳩ノ巣渓谷2018111406
鳩ノ巣渓谷2018111407 
 多摩地域西部(あきる野市、青梅市、八王子市、奥多摩町、日の出町、檜原村の6市町村)でとれる木材はほとんどがスギとヒノキで、その約7割がスギの木である。はるか昔は、ナラやカシなどの広葉樹とアカマツやモミなどの針葉樹で構成された自然林が広がっていた。ところが江戸時代になると木材の需要が急激に増え、拡大する江戸の市街地づくりと、幾度も起きた大火による再建築で、木材需要は途絶えることはなかった。こうして多摩地域の自然林の木が大量に伐採され、使い尽くされたのち、建築材としてのスギの植林が始まった。
 第二次世界大戦後、戦後復興で大量の木材が必要になり、日本全国で拡大造林政策がとられ、1960年代から1970年代にかけて、スギ・ヒノキがどんどん植林された。ところがその後、安い外国産の木材が大量に輸入されるようになると、国内の林業は衰退の一途をたどった。

 多摩地域の約7割がスギであることから、スギ花粉飛散量が増大し、スギ花粉症に悩む人が増え、社会問題になった。そこで東京都は、2005年(平成17年)に花粉症対策本部を設置し、翌2006年から10年計画でスギ花粉発生源対策事業を実施した。多摩地域の森から、スギ花粉の飛散を削減するため、スギの伐採と、花粉の少ないスギ(従来の100分の1のスギ)などの植え替えを行った。
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豊洲市場 築地市場

 1923年(大正12年)、江戸時代から続く日本橋の「魚河岸」(魚市場)が関東大震災で焼失。1935年(昭和10年)、京橋(中央区)の青物市場とともに築地に移転し、築地市場が開場した。そして東京都は2001年、手狭なことや、施設の老朽化などを理由として築地市場の豊洲移転を正式に決定した。
 もともとこの移転場所は東京ガスの所有地で、「長い間、石炭から都市ガスを製造し、その過程でベンゼンやシアン化合物」を排出、土壌汚染が懸念されていた。2016年5月、土壌汚染対策を実施したうえで、豊洲市場の全施設が完成。東京都は、同年11月に豊洲市場の開場を予定していた。ところが同年8月、都知事選に勝利した小池都知事が移転延期を決定。その後、「盛り土」がないことなどが発覚すると、東京都は地下の床にコンクリートを敷き詰めるなど、さらなる追加安全対策工事を実施。そのうえで2018年7月、小池都知事は「安全・安心」を宣言。同年10月6日に築地市場は83年の歴史に幕を閉じ、営業を終えた。ついで同月11日、新たに豊洲市場が開場した(注①)。

<写真>
写真はすべて10月13日に撮影
①豊洲市場
⇓モノレール「市場前駅」から歩行者デッキを歩いて、3つの主要な施設をめぐる
 正面の建物は水産卸売場棟
豊洲2018110701
豊洲2018110702
⇓青果棟。見学者通路から水産や青果の売り場を見学
豊洲20181103
⇓環状第2号線(豊洲~築地の2.8km)が暫定的に開通(写真は築地方面)
豊洲2018110704
⇓モノレール「新豊洲駅」から歩いて築地へ向かう。右下にスカイツリーが見える
豊洲2018110705
②築地市場
⇓築地場外市場
築地2018110706
築地2018110707
築地2018110708
⇓閉鎖された築地市場
築地2018110709
築地2018110710
 私は移転前の築地市場を何度か訪れたことがあるが、場外市場はともかく、市場内はとても「清潔」とは言い難いと感じていた。さまざまな思いや事情で移転に反対することは理解できる。しかし私は、「清潔でない」のなら、豊洲への移転はやむを得ないと考えていた。ところが「清潔でない」ことのほかに、「安全であるか」にはまだ疑問が残る。豊洲市場から、一部の商品は全国にも流通していく。追加工事は実施されたが、本当に安全になったのか。さらに、地盤沈下や地下水の適切な管理など、さまざまな問題もある。今後も、油断なく目を配ることが必要だ(注②)。

 豊洲市場へはゆりかもめ臨海線「市場前駅」で下車。駅から歩行者デッキを歩いて、3つの主要な施設をめぐる。それぞれの建物にある見学者通路から水産や青果の売り場を見学することになる(注③)。なお、マグロ卸売場のセリの見学(一般客向け)は2019年1月15日から始まる(注④)。

<注>
①朝日新聞(2018年10月10日から14日)、Wikipedia「築地市場」「築地市場移転問題」を参照。
②HuffPost of Japan「築地市場の豊洲移転問題は解決したか」(2018年10月4日)
③水産卸売場棟、水産仲卸売場棟、青果棟のほか、管理施設棟などがある。産地→卸売場→仲卸売場→小売店・飲食店等へと流通してい行く。東京都中央卸売市場(「豊洲市場について」)HPを参照。
④日本経済新聞、2018年10月4日

国立新美術館 六本木ヒルズ

<写真>
①国立新美術館
国立新美術館20181101
国立新美術館20181102
国立新美術館20181103
国立新美術館20181104
国立新美術館20181105
国立新美術館20181106
国立新美術館20181107
国立新美術館20181108
②六本木ヒルズ
⇓森タワー
六本木ヒルズ20181109
⇓六本木ヒルズアリーナ(円形の屋根の下)
六本木ヒルズ20181110
③テレビ朝日本社
朝日テレビ20181111①国立新美術館
 国立新美術館は六本木にあり、2007年に開館した。延べ床面積では日本最大の美術館。「独立行政法人国立美術館に所属している中で唯一コレクションを持た」ず、「ミュージアム」ではなく、「アートセンター」と名乗っている。建築は、黒川紀章氏が設計し、全面ガラス張りの外観をもつ。この美術館へ電車(地下鉄)で行く場合、東京メトロ千代田線乃木坂駅、東京メトロ日比谷線六本木駅、都営地下鉄大江戸線六本木駅の、いずれかの駅で下車する。千代田線乃木坂駅の6番出入口は、美術館に直結している。(Wikipedia「国立新美術館」などより)

②六本木ヒルズ
 2003年に開業した六本木ヒルズは、森タワーを中心に、いくつかのビルで構成されている複合商業施設。約17年の歳月をかけて六本木6丁目地区を再開発した。
 高層オフィスビル(六本木ヒルズ森タワー、高さ238m)、集合住宅(六本木ヒルズプレジデンス)、テレビ朝日本社社屋、ホテル、文化施設、その他の商業施設などで構成されている。最も高層の六本木ヒルズ森タワーには、森美術館(53階)、屋内展望台(東京シティービュー、52階)、屋上スカイデッキなどがある。六本木ヒルズ(フロアマップ)HP、Wikipedia「六本木ヒルズ」などを参照。

 サントリー美術館や国立新美術館、森美術館などを訪れたり、写真撮影をするために散策するほか、めったに六本木に来ることはない。ところで私は、超高層ビルの作り出す空間、光(太陽光など)の採り入れ、緑(公園など)の配置には関心がある。しかし、住むのは緑の多い郊外を好む。
 若いころ、私と同様に地方から来ていた友人が、都内の「高層」ビルを見てきたその夜、「わぁ~、でっかいなぁ~」と夢でうなされていた。いま、東京ミッドタウンや六本木ヒルズなどの「超高層」ビルを眼前にすると、友人を笑ってはいられなくなる。私にとってここは、「たまに来ればよいところ」だ。……。

東京ミッドタウン

 先日、東京ミッドタウン日比谷へ行ってきたので、今度は久しぶりに六本木の東京ミッドタウンを訪れた。都営地下鉄大江戸線の六本木駅で下車。東京ミッドタウン、国立新美術館、六本木ヒルズと、いつものコースを順番に散策した。夕方近くになり、大江戸線六本木駅から帰途につく。
 2007年、六本木で開業した東京ミッドタウンは、ホテル、文化施設、商業店舗、オフィス、住居、病院、公園などが集約された複合施設。東京ミッドタウンにはいくつかの高層ビルがあるが、最も高いのはミッドタウン・タワーで、地下5階、地上54階、高さ248m。ショッピングや食事などでよく利用するのが「プラザ」と「ガレリア」で、全部で130ほどの店舗がある。サントリー美術館も、ここガレリアにある。(東京ミッドタウンHPなどより)

<写真>
①東京ミッドタウン
⇓外苑東通りから見た東京ミッドタウン
ミッドタウン2018102401
⇓キャノビー・スクェア
ミッドタウン2018102402
ミッドタウン2018102403
⇓ガレリア
ミッドタウン2018102404
ミッドタウン2018102405
ミッドタウン2018102406
⇓サントリー美術館(ガレリア内)
ミッドタウン2018102407
⇓ガレリアから見たコートヤード
ミッドタウン2018102408
⇓コートヤード
ミッドタウン2018102409
⇓プラザ(地下1階)
ミッドタウン2018102410

「原始林の中の日本人」

<写真>
①海外移住資料館(JICA横浜)
海外移住資料館2018101801
⇓数か所のみ写真撮影が許可されている。遠景写真は自由
海外移住資料館2018101803
海外移住資料館2018101804
②JICA横浜交差点のサークルウォーク 
海外移住資料館2018101802
③「ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル」
⇓「ヨットの帆を思わせる」ホテル。手前の橋は国際橋、その向こうに横浜港。
海外移住資料館2018101805
 私は1970年代の後半に、若槻泰雄著『原始林の中の日本人 南米移住地のその後』(1973年)を読んだことがある。この著書に衝撃を受けた私は、自分のまわりの人たちに、「こと」の深刻さを伝えていた記憶がある。そして今も、この「こと」をできるだけ多くの人に知ってもらいたい。

 筆者の若槻泰雄氏は、1954年(昭和29年)に設立されたばかりの海外協会連合会(現、国際協力機構=JICA)に勤め、移民の送り出しや、現地における移民援護などの仕事に携わっていた。その年の12月末に神戸を出港した「ぶらじる丸」に乗船し、翌1955年1月にアマゾンに入植する400人の人たちとともにブラジルのベレン港に入港した。さらにパラグアイの移住地にも移民の人たちを引率。それから数年後、ボリビアのサンファンで3年間、入植者たちと生活を共にする(注①)。1963年に退職(注②)。その10年後の1973年に、本書『原始林の中の日本人 南米移住地のその後』を著した。

 この本の帯には次のように記されている。
 「新天地に人生の夢を託し南米へ渡った移民は戦後約6万人。だがその現実はどうだったか。荒れ果てた土地、みつからない適作物、あまりにも遠い市場。現在、約1万人の人が原始林の中にとり残されている。自殺した人、土人化した人(注③)――それは海の向こうに棄てられた民である。著者はアマゾン奥地からパラグアイ、ボリビアにまで分け入り、これらの人々のなまな声を克明に収録した。本書は戦後移民二十年目の一つの決算書である。」

 さらに本文から引用しよう。
 移民たちは、「自国の政府が調査も研究もほとんど行うことなく、……自分たちを外国の辺境に送りこもうなどとは夢にも考えなかったであろう。原始林のなかに一本の道路もつけないで、または何を植えていいかも分からないのに、移住を奨励するなどとは考え及ばなかったに違いない。」入植地には、学校も病院もないところがある。「アマゾンでは医者一人当りの人口は、56661人(1960年)で、……これを面積でいうと、日本全体の広さに医者が36人しかいないことになる。」入植地での開拓を断念して都会へ移るにしても、手持ちの資金を使い果たしてしまった人たちはどうすればよいのか。道路も通じていない入植地が多く、広大なアマゾンの原始林では船や飛行機に乗らないと移動できない。教育を受けられず、ポルトガル語(またはスペイン語)も日本語も満足でない子どもたちは、両親が亡くなれば「原始林」に消えていくしかなかった。「原始林の中で同化するということは土人化するということと同じ」である(注③)。
 「若干の例外があるにしても(注④)、……大部分の人びとが、貧窮にあえぎ困苦に悩むとき、そこに入植させた者の責任が問われるのは当然のことであろう。」もし政府が彼らにじゅうぶんな対応をしていないとすれば、「原始時代さながらの生活を送っている日本移民」たちが、自らの国に「棄てられた」と考えても仕方ないであろう(注⑤)。以上、資料①より。
 
 南米移民は、「日本政府が奨励・支援した『国策移民』」であった(資料③)。ところで若槻氏は、移民を南米に「送り出す側」の人間であった。だからこそ、若槻氏はこの本を著して政府を告発したかったのであろう。しかし、政府はどうして「原始林」に移民を送り込んだのか。また移民たちはなぜ「原始林」に入植してしまったのか。
 受け入れ国政府は、戦前から続く日本人排斥や、連合国として日本と戦ったという事情から、自国民と接触のない「原始林」が国内開発のためにも好都合だったのだろう。日本国内では「人口過剰、農村救済」というが、南米移民が本格化する1955年頃には高度経済成長が始まっていた。それなのになぜ、世界の最貧国(注⑥)の、さらに現地人も行かない「原始林」に送り込む必要があったのか。そして、なぜ送り続けたのか。これには、当時の日本の政治状況も関係があるようだ(注⑦)。

 政府は戦後、北海道にも開拓民を送り出していた。そして南米の入植地と同じような「こと」がおきていることを、私は北海道の開拓に関する本を読んで知った。日本国内でも、同様の悲劇がほぼ同時期に繰り広げられていたことになる。政府の責任は重大である。人の人生、ときには命にも関わることなのだから(注⑧)。「自国民をこのような条件の下に移住させた国の政府というものは、世界の如何なる国の政府よりも無知にして非情な政府である」と、若槻氏は綴っている(資料②)。少なくとも、もっと正確な「現地の情報」が得られていれば、南米へ渡る日本移民はずっと少なかったに違いない(注⑨)。

<おもな資料(1)>
①若槻泰雄『原始林の中の日本人 南米移住地のその後』1973年
②若槻泰雄『外務省が消した日本人 南米移民の半世紀』2001年
③遠藤十亜希(とあけ)『南米「棄民」政策の実像』2016年
 著者は、新聞のインタビューで、「日系人の功績」を知って欲しいと述べると同時に、「日本政府の移民政策は『棄民』のそしりを免れないと語る。『地上の楽園』と勧めて送り出した国民の多くに『生き地獄』を体験させたからだ」という(注⑩)。(朝日新聞、2016年7月24日、「著者に会いたい」より)。著者は、「戦前・戦後の日本の移民政策は『単なる』棄民政策ではなかったと考えている」。どういう意味かは、本書の第9章、第10章を読んで欲しい。ただ、日本国内の事情がどうであれ、「原始林」の中をさまよったあげく、日本への帰国がかなわなかった日本人たちは、故国に「棄てられた」と思っていたに違いない。

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プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。なお、当ブログはリンクフリーです。

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