マレーシア イポー

私は2008年4月、かつて錫(すず)鉱業で発展したマレーシアのイポーを訪れた。イポーはペラ州の州都で、首都クアラルンプールから南北高速道路で約200km北にある。イギリスの植民地時代の鉄道駅などが残されており、住民の約7割が中国系の人たちである。

<写真>
①キンタ川
キンタ渓谷はかつて錫(すず)の大産出地であった
キンタ川
②イポー鉄道駅
1917年建設。駅舎の2階と3階がホテル
イポー鉄道駅
③マジェスティック・ホテル・イポー
イポー鉄道駅の2階、3階で営業している
マジェスティック・ステーション・ホテル・イポー
④ペラ・ダルル・リズアン博物館
イポーの歴史や錫(すず)の産出などについて展示
ペラ・ダルル・リズアン博物館
⑤イポー市内
中国系の人たちが多く住む
イポー市内
<地図>マレーシア イポー
イポー市地図
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マレーシア イポーと中国人の「移動」

イポーは19世紀のはじめ、キンタ川の流域にある村として誕生。同世紀の中ごろからキンタ渓谷で「本格的な」錫(すず)鉱の採掘がはじまった。20世紀はじめにイギリスの錫鉱業会社が相次いで設立されると、町は急速に発展をとげ、「数万人規模で中国人労働者が相次いで入植」。こうしてイポーは「英国の植民地時代にマレーシア第二の都市となった」(注1)。現在、イポーの住民の約7割(2010年統計)が中国系であるのは、このためである(注2)。

中国系の人たちは、なぜこのように「大量に」海外へ「移動」したのであろうか。

現在、(中国本土を除いて)「全世界に住む中国人はおよそ2500万人で、その85%が東南アジアに住むという」(参考①)。すでに12世紀から16世紀にかけて、中国人たちは小規模な海外移住をしていた。ところが19世紀半ばから20世紀はじめにかけて、汽船の定期就航もあって、大規模な「移動」を開始する。19世紀に黒人奴隷制度が廃止され、1842年の南京条約により清朝の「海禁」(鎖国政策)が終わると(注3)、黒人奴隷に代わる労働力として海を渡ることになった。マレー半島のイギリス領海峡植民地(注4)の錫鉱山、カリブ海のサトウキビ・プランテーション、アメリカの大陸横断鉄道建設など、多くの中国人が安価な出稼ぎ労働力として使役された(注5)。

次に長くなるが、川崎有三著『東南アジアの中国人社会』より以下に引用してみる。
「大量移住によってもたらされた中国人移民はおもに肉体労働にたずさわる人びとであった。マラヤ地域における錫鉱山労働者、タイにおける鉄道建設のための労働者などがその例である。中国本土においてほとんど社会の底辺にあったような貧しい農民、労働者たちが、契約労働者として送り込まれ、激しい労働に従事させられ、阿片に一時の安らぎをうるような過酷な生活をしいられたのであった。移民のなかなには現地に送り込まれる船のなかで死亡したり、あるいは現地の激しい労働にたえきれず、また熱帯の伝染病でその命を落とす者も多かった。彼らは『瀦子』(ちょし)と呼ばれ、家畜同様の扱いを受け、また『苦力』(クーリー)と呼ばれることも多かった。もちろん東南アジア以外にも世界のさまざまな地域に中国人労働者たちは進出した。ちょうど、奴隷貿易が禁止され、適当な労働力の調達先を求めていたイギリスなどのヨーロッパ諸国は、中国人やインド人たちをその代替にして積極的な移住政策をとっていた。彼らは単身の男子であり、本土を離れてしばらく出稼ぎに行くという感覚で渡航していった。こうした移民たちのなかには、数年ののちに本土へと帰国する者も多かったが、なかには長く住みつく者たちもいた。」(参考②)ところが、現地に定住した中国系の人たちは再び、「差別に抗して、または子弟の教育を考えて、第二、第三の安住地へと移る」(参考①)。こうして、人はまた「移動する」。

「1820年代から1920年代の100年、中国から東南アジアへむかった移民の総数は約1000万人、うち現地に定住化した数は300万人くらい。」同時期、「西欧や東欧からアメリカ大陸への白人移住」は、「延べ5000万人」にものぼる(参考①)。中国人だけが「大量に」移動したのではない。日本人も明治以降、多くの人たちが海外へ移住した(注6)。

交通や通信が飛躍的に進歩した今日、人は今まで以上に「移動」する。こうして、次の世紀には、民族や人種を問題とすることのない世紀になる。歴史や文化、言語などは大切にしつつ……。そう、願わないわけにはいかない。

(注1)Wikipedia「イポー」より
(注2)1970年代に錫鉱山が閉鎖されるまで、イポーはマレーシアの主要な錫産出地であった。なお2010年現在、イポーの人口はマレーシア第6位(約70万人)である。「マレーシアの歴史~スズ鉱産業」(Malaysia Life)および「マレーシア都市リスト」より。
(注3)南京条約……1842年にアヘン戦争を終結させるため、清とイギリスが結んだ講和条約。海外渡航が解禁され、海外移住が自由になった。「海禁」の正式な解除は1893年。
(注4)海峡植民地……イギリス本国の直轄地。ペナン、マラッカ、シンガポールなど。
(注5)「海禁/海禁政策」「南洋華僑/華僑」(Webサイト「世界史の窓」より)
(注6)日本人の海外移住(「JICA横浜海外移住資料館」のWebサイトより)
「日本人の海外移住は、1866年に海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれてから、すでに100年以上の歴史があります。ハワイ王国における砂糖きびプランテーションへの就労に始まって、アメリカ、カナダといった北米への移住、そしてその後1899年にはペルー、1908年にはブラジルへと日本人が渡ります。そして、1924年にアメリカで日本人の入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移っていきます。その結果、第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人が移住しています。」日本政府の移住政策に多くの「不備」があり、「国策による日本人の海外移住は国家から邪魔者扱いされ見捨てられた『棄民』である」とする著書もある(参考③)。

<参考>
①斯波義信『華僑』
②川崎有三『東南アジアの中国人社会』
③アルベルト・松本「日本人の海外移住、100年以上の足跡とは」(Webサイト)、遠藤十亜希著『南米「棄民」政策の実像』

マレーシア クアラルンプール  

<写真>2007年または2008年に撮影
写真①マラッカの旧バスターミナル
マラッカ 旧バスターミナル
写真②YMCAホステル(以下クアラルンプール)
KL YMCAホステル
写真③バトゥー洞窟
バトゥ洞窟
写真④国家記念碑
マレーシア独立戦争(1948年から12年続いた)で亡くなった兵士たちの功績を称える記念碑
KL国家記念碑
写真⑤国立博物館
マレーシアの伝統を取り入れた宮殿風の建物
国立博物館
写真⑥マレー鉄道事務局ビル(ザ・ヘリテージ・ステーション・ホテル・KLより撮影)
マレー鉄道事務局ビル
写真⑦旧連邦事務局ビル(国立歴史博物館より撮影)
旧連邦事務局ビル
写真⑧マスジッド・ジャメ
クアラルンプールにある最古のモスク。マスジッド・ジャメ駅のホームより撮影
マスジッド・ジャメ
写真⑨クアラルンプール鉄道駅
1910年イギリスがつくった歴史的建造物。シンガポール~クアラルンプール~バンコクを結ぶ
KL鉄道駅
1974年8月、マラッカのバスターミナル(写真①)からクアラルンプールのプドゥラヤ・バスステーションへ移動。YMCAホステル(写真②)で泊まる。翌日、前日にマラッカからのバスで隣り合わせた女子学生と、その友人の女子学生の、ふたりの案内で、クアラルンプール市内を巡る。正確には思い出せないが、バトゥー洞窟(写真③)、国家記念碑(写真④)、国立博物館(写真⑤)などへ行く。翌日以降ひとりで、マレー鉄道事務局ビル(写真⑥)、国立モスク、旧連邦事務局ビル(写真⑦)、マスジッド・ジャメ(モスク、写真⑧)などを訪れる。数日間滞在したのち、クアラルンプール鉄道駅(写真⑨)からタイのバンコクへ寝台列車で向かう。マレーシアではひとりの日本人にも出会わなかった(少なくとも気がつかなかった)。はじめてイスラム文化や植民地文化などの異文化に触れたが、その体験は鮮烈であった。

1974年当時、私は東南アジアの経済について勉強をしていた。とくに、シンガポール・マレーシア・タイ・ベトナム。2007年と2008年にも、合計5週間ほどシンガポールとマレーシアに滞在した。

シンガポール マラッカ

1974年夏、シンガポールからマラッカへ「移動」する。写真はすべて1974年8月に撮影。

<写真>
写真①シンガポール第9回独立記念日(1974年)
シンガポール建国9周年1974
写真②ゴム・プランテーションの中の休憩所・売店
ゴムプランテーションバス休憩所1974
写真③セントポールの丘まで案内してくれた若者
この丘にセントポール教会がある。若者の背後にマラッカ海峡が見える(残念ながらこの写真ではよく見えない)。
マラッカ海峡と学生1974
写真④セントポール教会跡
セントポール教会1974
写真⑤マラッカ市街
この道を真っすぐ行くとセントポールの丘。
マラッカ市街1974
<地図>シンガポール~マラッカ
シンガポールマラッカ地図

1974年8月はじめ、私はシンガポールにいた。8月9日は第9回独立記念日であった(写真①)。その後、シンガポールからマレーシアのマラッカへ行くため、バスに乗った。マレーシアに入ると、広大な天然ゴムのプランテーションの中をえんえんとバスが走る。対向車とはめったにすれ違わない。ごくまれに遠くに人家が見えるだけだった。バスが途中で故障すればどうなるのだろうか、と思う。プランテーションが途切れたところにある商店でバスが停まり、休憩をする(写真②)。夕方にはマラッカのバスターミナルへ着き、すぐそばの安宿に泊まる。部屋の壁にはヤモリが数匹いたが気にならない。翌朝さっそく、マラッカ海峡を見に行く。ガイドブックの地図では道順がよく分からない。そこで若者にセントポール教会へ行く道を尋ねる。彼はいっしょにセントポールの丘まで案内してくれた(写真③)。この丘からマラッカ海峡がよく見える。またこの丘には廃墟となったセントポール教会(注)がある(写真④)。ここで彼とは別れたが、このあとどこをどう巡ったのかまったく覚えていない。翌早朝、朝市が開かれていた。その後、宿の近くを散歩する。そこはマレー系の人たちの住む地域であった(カンポン・モルテン近くの集落)。午後(たぶん)、宿の前のバスターミナルから再びバスに乗り、クアラルンプールへ向かう。もちろん当時は、高速道路はなかった。

(注)ポルトガルのマラッカ進出とセントポール教会
1498年、ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマはインドのカリカットに到達。ポルトガルは、1510年にインド西岸のゴアに拠点を置くと、翌年には武力でマラッカを占領。1543年、日本の種子島に来航、1584年には平戸に商館を設けた。マラッカは、インド(ゴア)と中国(マカオ)の中間にある重要な中継地・貿易港であった。ところが1641年、オランダがマラッカに進出してポルトガルを追い出し、オランダ東インド会社がマラッカを統治する。ポルトガルはセントポールの丘に小さな礼拝堂を建てたが、「オランダ人がポルトガルからマラッカを奪い取ると、オランダ人はその名前をSt.Paul's Churchと改名し」た。やがて「カトリックに反発するオランダ、イギリスの軍・民の度重なる攻撃で破壊され、教会は廃墟と化した」(「マラッカ/セント・ポール教会の墓石に刻まれた帆船」より)。

「ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトの思い出」

人は移動する。
人類は、東アフリカに誕生し、やがてユーラシア大陸からアリューシャン列島を経て、南米大陸の最南端に達した。人類拡散のこの旅を「グレートジャーニー」と呼ぶ(注1)。

ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトはイギリスからマラッカへ行き、そこで亡くなった。彼女の墓石(写真①)は、そのマラッカのセントポール教会(現在、廃墟)にある(写真②)。彼女は1806年9月20日に生まれ、1841年1月19日に人生を終えた。34歳と3か月29日であった。墓石には次のように記さている。
"Sacred, To the memory of Mrs. Jane Charlotte Westerhout, born on the 20th Sep. 1806, and departed this life on the 19th January 1841, Aged 34 years 3 months and 29 days."
彼女はなぜイギリスから遠く離れたこの地で亡くなったのか。

<写真①>ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトの墓石
ウェスターホウトの墓石
<写真②>セントポール教会(マラッカ)
セントポール教会
<写真③>セントポールの丘
セントポールの丘1
セントポールの丘2
セントポールの丘3
<写真④>マラッカ海峡
マラッカ海峡夕日

マラッカは1511年から1641年までポルトガルの支配下に、ついで1641年からオランダの支配下にあった。1795年、イギリスはマラッカをはじめとするオランダ領東インドを占領。1824年、イギリス=オランダ協約により、正式にオランダからマラッカを獲得。以降、マラッカはイギリスの植民地下にあった(注2)。1957年、マラッカを含む、旧イギリス領マラヤ11州はマラヤ連邦を結成し、イギリスから独立。1963年、シンガポール・サラワク・サバ(当時は英領北ボルネオ)を含めてマレーシア連邦を結成。2年後の1965年にシンガポールが分離独立し、現在に至る。なお、イギリスの保護国であったブルネイは1984年、イギリスから完全に独立した。

イギリスがマラッカを占領したのは1795年、イギリス人のシャーロットがマラッカで亡くなったのは1841年のこと。

ブログ「備忘録として」には、シャーロットのことが次のように書かれている。
「……おそらく軍人か東インド会社の商人の夫とともに遼遠の地マラッカに赴任してきて、熱病かなにかの病を患って亡くなったのであろう。」(「備忘録として」)

2008年5月、セントポール教会の廃墟の中を歩いていたとき、たくさんある墓石のなかで、英文で書かれた墓石に目がとまった(注3)。ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトの墓であった。ほとんどの墓石はオランダ語で書かれているため読めない(注4)。セントポールの丘(写真③)から、マラッカ海峡に沈む夕日を見ていると(写真④)、「移動する」人の歴史を思わないわけにはいかない。私は1974年の夏にも、マラッカ海峡を見に行った。

(注1)関野吉春著『グレートジャーニー~地球を這う①』より。「イギリス生まれの考古学者ブライアン・M・フェイガンは人類拡散のこの旅を『グレートジャーニー』と呼んだ。」
(注2)1941年12月から1945年8月までの、日本の占領期を除く。1941年12月、日本軍はコタバル近郊(西マレーシア北東部)に上陸、翌1942年にはマレー半島全域(タイ領を除く)を占領した。
(注3)私と同様、ぐうぜん英語で書かれたシャーロットの墓石に出会った人がいた。My Foreverfreebird Life~St. Paul's Hillを見よ。
(注4)Malaysia, MELAKA / MALACCA, Old Dutch Cemetery(eGGSA library)

ヘボンの足跡

写真①は、ヘボンが横浜山手時代に住んでいた「山手245番」の跡地。ヘボンはここでも聖書の共同翻訳事業に取り組み、完成までに「個人訳時代から数えれば20数年の歳月」を要した(注1)。また一時期、明治学院の職務についたり、指路(しろ)教会(写真②)の建設のため奔走したりした。1892年(明治25年)に指路教会が完成すると、ヘボン夫妻はアメリカ帰国を決意。翌1893年(明治26年)に帰国。ニュージャージー州イースト=オレンジで晩年を過ごした。ヘボン夫人は1906年(明治39年)に永眠、ヘボンは1911年(明治44年)に96歳で永眠した(注2)。

<写真①>ヘボンが横浜山手時代に住んでいた「山手245番」の跡地
ヘボン山手居住地跡1
ヘボン山手居住地跡2
<写真②>指路教会
⇓ 指路教会は横浜市中区尾上町6-85にある。最寄駅はJR関内駅など。
指路教会1
指路教会2
<写真③>横浜山手111番館
⇓ 1926年(大正15)年、アメリカ人ラフィン氏の住宅として建設された。木造2階建(地下1階)だが、1階に吹き抜けのホールがあり、海への見晴らしも良い。私のお気に入りの西洋館。
山手111番館1
横浜山手居留地2
<写真④>横浜外国人墓地正門
横浜外国人墓地
<地図>横浜山手地区
横浜山手居留地

(注1)「日本語訳聖書」(Wikipedia)。望月洋子著『ヘボンの生涯と日本語』に詳しい。
(注2)高谷道雄著『ヘボン』より

ヘボンの足跡を訪ねて

1.「ヘボンの足跡を訪ねて」
私は2017年7月、「ヘボンの足跡(そくせき)」をたどるため、川崎市と横浜市を訪れた。 はじめにJR京浜東北線東神奈川駅で下車し、成仏寺(じょうぶつじ)と宗興寺(そうこうじ)へ。成仏寺はヘボン夫妻が日本で最初に住んだ場所。宗興寺は、ヘボンが一時期、施療所を開いた場所。JR東神奈川駅に戻り、JR根岸線関内駅へ。下車すると、横浜指路(しろ)教会へ。この教会は1892年(明治25年)、ヘボンの尽力によって建てられた。関東大震災で倒壊、その後再建。1945年(昭和20年)5月の横浜大空襲で内部を全焼、戦後修復された。ここからみなとみらい線馬車道駅へ歩く。元町・中華街駅で下車し、「横浜居留地39番」へ。1862年、ヘボン夫妻は成仏寺からここに移転。現在は横浜地方合同庁舎前の緑地になっていて、ヘボンの顕彰碑と解説板が建てられている。次に、この顕彰碑から「山手245番」へ。現在この土地は、売却か景観保存かをめぐり問題となっている(注1)。ヘボン夫妻は1882年(明治15年)からここに住んだ。1892年(明治25年)、横浜港を出帆し、翌93年米国へ帰国。なお、この項は明治学院「ヘボンの足跡を訪ねて」(注2)などを参照した。

(注1)「山手町245、日銀社宅の売却問題」。今でも「ヘボン山手家族寮」(日銀の社宅)の建物だけが残されている。
(注2)「ヘボンの足跡を訪ねて

2.伝道師ヘボンの誕生
ヘボンの「生涯」については、次の著書を読んでもらいたい。高谷道男著『ヘボン』(吉川弘文館人物叢書)、望月洋子著『ヘボンの生涯と日本語』(新潮社)。ここでは高谷道男著より、ヘボンによる「東洋伝道」(中国伝道時代を除く)に至る経緯を要約してみる。

ヘボンは1815年3月、米国ペンシルヴァニア州ミルトンに生まれ、少年時代をここで過ごす。家庭は敬虔なカルヴィン主義の信仰を奉じ、祖先のスコットランド長老主義(注3)の伝統はヘボン一家を貫いて流れる精神的遺産であった。ヘボンは幼少の頃から家庭と教会において、キリスト教的訓練をうけている。後年、宣教師となり海外へ赴いた学友がヘボンの少年時代に多く、これらの感化や交友関係がヘボンを外国伝道に導いた。1834年の冬、フィラデルフィアで大学の医学部の講義を聴いて、ペンシルヴァニア州ミルトンの長老教会に加わり、宣教医として外国へ行くという使命感を抱くようになる。1859年4月、ヘボン夫妻は日本へのキリスト教伝道を志し、ニューヨークの港を出帆。同年10月、神奈川(宿場町・港町、現在の川崎市)に着いた。こうして1859年(安政6年)の来日から1892年(明治25年)の帰国まで、ヘボンは幕末・維新という激動の時代を33年間も日本で暮らした。

(注3)長老主義とは「司教を認めず長老が教会を指導するカルヴァン派の考え」。「宗教改革において、カルヴァンは教会組織の上ではカトリック教会の教皇を頂点とした聖職者制度と、ルター派の司教制度を共に認めず、教会員の中から信仰のあつい人物を長老に選んで、牧師を補佐させる長老主義を採用した。」(「世界史の窓~長老主義/長老制度」より。Webサイト)。

ヘボンの顕彰碑 山下公園など

写真①は、ヘボン邸跡に設置されたヘボンの顕彰碑と解説板。ヘボンは、横浜居留地時代「居留地39番」に住んでいた。1862年(文久2年)、この39番の土地を買い入れ、移転。住居、施療所、礼拝堂兼教室などを設ける。ヘボンはこの施療所で「貧富・上下、武士・町人の差別なく、無料で診療・手術・施薬」を行う。またここで『和英語林集成』の編纂を行い、出版した(初版は1866年=慶応2年)。ヘボン夫人が中心となり、多くの日本人に英語などを教える(ヘボン塾)。高橋是清など多くの日本人が学び、この塾はやがて明治学院やフェリス女学院の「源流」となった。

<写真①>ヘボンの顕彰碑と解説板(横浜地方合同庁舎前の緑地)
ヘボンの顕彰碑と解説板
<写真②>ヘボン邸(居留地39番地)
居留地39番
⇑上の写真はみなとみらい線元町・中華街駅の構内で(タイルを)撮影。山下公園の完成は昭和5年(1930年)なので、グランドホテル前は海岸であった。これとほぼ同じ位置で撮られた写真はここ「横浜グランドホテル全景

<写真③>横浜中華街(東門)
横浜中華街
<写真④>山下公園
山下公園1
山下公園2
<写真⑤>日本郵船氷川丸(博物館船)
氷川丸
<地図>居留地39番(横浜居留地)にあったヘボン邸
ヘボン邸 横浜居住地39番地

ローマ字 ヘボン式と訓令式

私たちは日ごろ、何気なくローマ字を見たり、読んだり、書いたり、パソコンでローマ字入力などをしている。パスポートには自分の名前をローマ字で表記しなければならない。パソコンでは「かな入力」より「ローマ字入力」が多数派。駅名や道路などの標識、クレジットカードの個人名などもローマ字で表記されている。

日本語をローマ字で表記する方式としてよく用いられるのが、ヘボン式と訓令式。パスポートにはふつうヘボン式を用いる。外務省のウェブサイトには次のように書かれている。パスポートの氏名は、「従来よりヘボン式を採用している。……旅券申請において表記の例外を希望する申請者が増えていることから、その氏名での生活実態がある場合には非ヘボン式ローマ字表記であっても、その使用を認めている。」ところが文部科学省は「国語を書き表す場合に用いるローマ字のつづり方」として非ヘボン式(第1表。訓令式と呼ばれている)を用いるように定めている。ただし、「国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合に限り、第2表に掲げたつづり方」(ヘボン式と第1表にもれた日本式)も認めている(注1)。この訓令式ローマ字は小学校の「国語」で習う。ところが中学校の「英語」ではヘボン式が日本語表記の基本になっている(注2)。パソコン入力は訓令式でもヘボン式でも打てる(ワープロ式ローマ字)。道路や駅名の標識などはヘボン式の変形で表記されている。このように今日まで統一されたローマ字表記は存在しない。

私たちが日ごろ用いているのは、どちらかと言えばヘボン式。いずれか一方に決める必要はないのかもしれない。あえて言うなら、英語圏の外国人には日本語の音に近い形で表記できるヘボン式、日本語文法の説明には訓令式が役立つかもしれない。これは「ヘボン式が英語の発音からローマ字を創ったのに対し、訓令式はどこまでも日本流にローマ字を五十音にそって作ら」れていることによる(注3)。

<参考>①「ヘボン式を推奨」しているのは「日本語のローマ字表記の推奨形式」(東京大学教養学部英語部会/教養教育開発機構)。②「ヘボン式を用いるべきではない」としているのは「ローマ字あいうえお~ヘボン式」(管理人は Hypnosさんの個人サイト)。
①「日本語のローマ字表記の推奨形式
②「ローマ字あいうえお

(注1)文科省「ローマ字のつづり方
(注2)「英語式ローマ字」(Webサイト)
(注3)高谷道雄『ヘボン』(吉川弘文館)

ヘボン 成仏寺 宗興寺

写真①は、ヘボン夫妻が日本で最初に住んだ成仏寺(じょうぶつじ)。
(ヘボン式ローマ字で知られる)ヘボン夫妻は1859年(安政6年)、横浜に上陸、成仏寺の本堂を借りて住んでいた。ヘボン45歳のときで、その半年後に井伊直弼(いいなおすけ)が江戸城桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。1862年(文久2年)の生麦事件のさい、ヘボンは負傷したイギリス人を治療したという。この頃、横浜には外人住宅が少なく、東海道神奈川宿(現横浜市神奈川区)の、この寺に住むことになる。ヘボンはここで日本語の研究、和英辞書の編纂にとりかかった。また、医師でもあるヘボンは一時期、近くの宗興寺(そうこうじ、写真②)を施療所として使用していた。

神奈川宿の名称は、「神奈川」県や「神奈川」区の名称の由来となる。成仏寺あたりが神奈川宿の中心地であった。また神奈川沖の海は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)にも描かれている。

<写真>① 成仏寺
⇓右の石碑に「浄土宗成佛寺」、左の石碑に「外国宣教師宿舎跡」と書かれている
成仏寺遠景3
成仏寺近景2
<写真>② 宗興寺(そうこうじ)
宗興寺
⇓石碑の中央に「ヘボン博士施療所」と書かれている
宗興寺ヘボン
<写真>③ 東海道かわさき宿交流館
⇓「『東海道かわさき宿交流館』は、東海道川崎宿の歴史や文化を学び、それを後世に伝えていくための施設」(交流館のパンフレットより)。JR川崎駅より徒歩10分。東海道を日本橋から京に上ると、品川宿・川崎宿・神奈川宿・保土谷宿と旅することになる。
東海道かわさき宿交流館
<写真>④ 旧東海道
⇓江戸時代に川崎宿を通っていた旧東海道。「かわさき宿交流館」近く。
旧東海道
<地図>
成仏寺(横浜市神奈川区神奈川本町)、宗興寺(横浜市神奈川区幸ヶ谷)
横浜市神奈川区神奈川本町