ヘボンの足跡を訪ねて

1.「ヘボンの足跡を訪ねて」
私は2017年7月、「ヘボンの足跡(そくせき)」をたどるため、川崎市と横浜市を訪れた。 はじめにJR京浜東北線東神奈川駅で下車し、成仏寺(じょうぶつじ)と宗興寺(そうこうじ)へ。成仏寺はヘボン夫妻が日本で最初に住んだ場所。宗興寺は、ヘボンが一時期、施療所を開いた場所。JR東神奈川駅に戻り、JR根岸線関内駅へ。下車すると、横浜指路(しろ)教会へ。この教会は1892年(明治25年)、ヘボンの尽力によって建てられた。関東大震災で倒壊、その後再建。1945年(昭和20年)5月の横浜大空襲で内部を全焼、戦後修復された。ここからみなとみらい線馬車道駅へ歩く。元町・中華街駅で下車し、「横浜居留地39番」へ。1862年、ヘボン夫妻は成仏寺からここに移転。現在は横浜地方合同庁舎前の緑地になっていて、ヘボンの顕彰碑と解説板が建てられている。次に、この顕彰碑から「山手245番」へ。現在この土地は、売却か景観保存かをめぐり問題となっている(注1)。ヘボン夫妻は1882年(明治15年)からここに住んだ。1892年(明治25年)、横浜港を出帆し、翌93年米国へ帰国。なお、この項は明治学院「ヘボンの足跡を訪ねて」(注2)などを参照した。

(注1)「山手町245、日銀社宅の売却問題」。今でも「ヘボン山手家族寮」(日銀の社宅)の建物だけが残されている。
(注2)「ヘボンの足跡を訪ねて

2.伝道師ヘボンの誕生
ヘボンの「生涯」については、次の著書を読んでもらいたい。高谷道男著『ヘボン』(吉川弘文館人物叢書)、望月洋子著『ヘボンの生涯と日本語』(新潮社)。ここでは高谷道男著より、ヘボンによる「東洋伝道」(中国伝道時代を除く)に至る経緯を要約してみる。

ヘボンは1815年3月、米国ペンシルヴァニア州ミルトンに生まれ、少年時代をここで過ごす。家庭は敬虔なカルヴィン主義の信仰を奉じ、祖先のスコットランド長老主義(注3)の伝統はヘボン一家を貫いて流れる精神的遺産であった。ヘボンは幼少の頃から家庭と教会において、キリスト教的訓練をうけている。後年、宣教師となり海外へ赴いた学友がヘボンの少年時代に多く、これらの感化や交友関係がヘボンを外国伝道に導いた。1834年の冬、フィラデルフィアで大学の医学部の講義を聴いて、ペンシルヴァニア州ミルトンの長老教会に加わり、宣教医として外国へ行くという使命感を抱くようになる。1859年4月、ヘボン夫妻は日本へのキリスト教伝道を志し、ニューヨークの港を出帆。同年10月、神奈川(宿場町・港町、現在の川崎市)に着いた。こうして1859年(安政6年)の来日から1892年(明治25年)の帰国まで、ヘボンは幕末・維新という激動の時代を33年間も日本で暮らした。

(注3)長老主義とは「司教を認めず長老が教会を指導するカルヴァン派の考え」。「宗教改革において、カルヴァンは教会組織の上ではカトリック教会の教皇を頂点とした聖職者制度と、ルター派の司教制度を共に認めず、教会員の中から信仰のあつい人物を長老に選んで、牧師を補佐させる長老主義を採用した。」(「世界史の窓~長老主義/長老制度」より。Webサイト)。
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ローマ字 ヘボン式と訓令式

私たちは日ごろ、何気なくローマ字を見たり、読んだり、書いたり、パソコンでローマ字入力などをしている。パスポートには自分の名前をローマ字で表記しなければならない。パソコンでは「かな入力」より「ローマ字入力」が多数派。駅名や道路などの標識、クレジットカードの個人名などもローマ字で表記されている。

日本語をローマ字で表記する方式としてよく用いられるのが、ヘボン式と訓令式。パスポートにはふつうヘボン式を用いる。外務省のウェブサイトには次のように書かれている。パスポートの氏名は、「従来よりヘボン式を採用している。……旅券申請において表記の例外を希望する申請者が増えていることから、その氏名での生活実態がある場合には非ヘボン式ローマ字表記であっても、その使用を認めている。」ところが文部科学省は「国語を書き表す場合に用いるローマ字のつづり方」として非ヘボン式(第1表。訓令式と呼ばれている)を用いるように定めている。ただし、「国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合に限り、第2表に掲げたつづり方」(ヘボン式と第1表にもれた日本式)も認めている(注1)。この訓令式ローマ字は小学校の「国語」で習う。ところが中学校の「英語」ではヘボン式が日本語表記の基本になっている(注2)。パソコン入力は訓令式でもヘボン式でも打てる(ワープロ式ローマ字)。道路や駅名の標識などはヘボン式の変形で表記されている。このように今日まで統一されたローマ字表記は存在しない。

私たちが日ごろ用いているのは、どちらかと言えばヘボン式。いずれか一方に決める必要はないのかもしれない。あえて言うなら、英語圏の外国人には日本語の音に近い形で表記できるヘボン式、日本語文法の説明には訓令式が役立つかもしれない。これは「ヘボン式が英語の発音からローマ字を創ったのに対し、訓令式はどこまでも日本流にローマ字を五十音にそって作ら」れていることによる(注3)。

<参考>①「ヘボン式を推奨」しているのは「日本語のローマ字表記の推奨形式」(東京大学教養学部英語部会/教養教育開発機構)。②「ヘボン式を用いるべきではない」としているのは「ローマ字あいうえお~ヘボン式」(管理人は Hypnosさんの個人サイト)。
①「日本語のローマ字表記の推奨形式
②「ローマ字あいうえお

(注1)文科省「ローマ字のつづり方
(注2)「英語式ローマ字」(Webサイト)
(注3)高谷道雄『ヘボン』(吉川弘文館)

ヘボン ヘボン式ローマ字

1.ヘボン式ローマ字
「ヘボン式」ローマ字の「ヘボン」とはもちろん人名。「ヘボンの名は正式にはジェームス=カーチス=ヘップバーン James Curtis Hepburnであるが、わが国では、一般にヘボンと呼ばれ、ヘボン自らもその著『和英語林集成』に『平文』と書いている。」(注1)「ヘボンの名は、今日では、ヘボン式ローマ字だけで記憶せられているが、幕末から明治中期にかけて、施療事業・和英辞書の編纂・英学塾の開設・聖書の翻訳・教会の建設・明治学院の創立など、数々の輝かしい功業をたて、近代日本文化に不朽の足跡を残した。」(注1)宣教師(宣教医)ヘボンにとって、無償の医療行為、和英辞書の編纂、聖書の翻訳などはすべて、「東洋伝道」の使命を果たすためであった。日本語の習得、辞書の編纂などには、どうしても日本語のローマ字表記が必要であった。長くなるが、前掲書(注1)から再び引用してみる。「『和英語林集成』編集のおり、外国人に日本語をたやすく発音せしめ、理解せしめたいところからローマ字を採用した。……ヘボンの辞書は維新当時から明治時代にかけて非常によく売れ、……和英・英和辞書としては代表的なものとなった。このヘボンの辞書に書かれていたローマ字が、そのころから時代の脚光を浴びて普及するようになった。それでローマ字をヘボン式ローマ字というようになった。……明治18年に日本人の識者の間で『羅馬(ローマ)字会』ができ、ヘボン式ローマ字を修正して標準式ローマ字を発表し、ヘボン博士もその顧問となり……標準式ローマ字すなわち世にいうヘボン式ローマ字がさらに一般に用いられるようになった。」

2.ヘボン式と訓令式の対立
ところが1885年(明治18年)、カナの「五十音図に規則的に対応した」日本式ローマ字が発表される。「ヘボン式と日本式が対立して混乱していたのでローマ字を統一しようということになり」、1937年(昭和12年)、内閣訓令により「日本式を基礎にヘボン式を多少取り入れた」訓令式ローマ字が定められた。戦後、GHQが町名や都市名の標識を、Chiba Cityなどのようにヘボン式ローマ字と英語で表記するように指令したため、ヘボン式ローマ字が「復権」(注2)。こうしてヘボン式と訓令式の、いずれのローマ字表記を用いるかをめぐってふたたび混乱。1954年(昭和29年)にあらためて文部省訓令により新たな訓令式を公式のローマ字とすることが定められた(注3)。今日まで、日本語のローマ字表記は、ヘボン式と訓令式、およびそれぞれの変種が併存し、統一された表記はない。それどころか、ヘボン式と訓令式のいずれを用いるべきであるかをめぐって、激しい対立が続いてきた。 

(注1)高谷道男『ヘボン』(吉川弘文館人物叢書)
(注2)「GHQによる日本語のローマ字化」(Webサイト)
(注3)「ローマ字あいうえお~訓令式」から要約(Webサイト)

漢字廃止とローマ字

1.国語表記と漢字
日本語の表記には、漢字・仮名文字・算用数字(アラビア数字)のほか、補助的にローマ字を用いている。漢字を「文字」として認識したのは紀元3世紀ごろ(邪馬台国の時代)のこと(注1)。仮名文字を使用するようになったのは平安時代。算用数字は、「江戸末期に一部で使われ始め、明治初期に学校教育とともに普及した」(注2)。ローマ字の使用は「16世紀後半、室町時代末」のこと。来日したイタリア・ポルトガルの宣教師たちが日本語の表記に用いている(注3)。他方、漢字を廃止し、仮名またはローマ字を国字とする考え方は幕末・維新の頃からあり、また明治時代から「漢字節減運動」や「漢字制限運動」も展開されてきた(注4)。第二次世界大戦後も、GHQ([連合国軍最高司令官]総司令部)による「日本語ローマ字表記計画」があり、日本人の著名な学者・小説家や、日本の新聞社が漢字廃止に賛成している。

2.漢字廃止とローマ字
こんにち「漢民族を主な住民としていない国で漢字を使っているのは日本だけであり、朝鮮半島およびベトナムではすでに漢字の使用は事実上消滅している」(注4)。長くなるがWikipediaの「漢字廃止論」(注4)より、GHQによる「日本語ローマ字表記計画」を引用してみる。

「太平洋戦争終結後、1948年(昭和23年)に『日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている』という偏見から、GHQのジョン・ペルゼルによる発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。そして正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)。1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした日本初の全国調査『日本人の読み書き能力調査』が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、『識字率が低い結果でないと困る』と遠回しに言われたが、柴田は『結果は曲げられない』と突っぱね、日本語のローマ字化は撤回された。」

日本語のローマ字表記には次のような欠点がある。ローマ字は「漢字に比べ、読むのにはるかに時間がかかる」(注4)。また日本語をローマ字で表現すると、どうしても「長くなる」。「同音異語の言葉をどうしたら区別できるか」などという問題もある(注5)。江戸時代の人々は、昌平坂学問所(官立)や藩校、私塾、寺子屋(庶民)などで教育を受けていた。幕末の日本人の識字率はとても高く、日本語のローマ字化はそう簡単なことではなかった。上記の「識字率調査」(1948年)でも、「全国平均が78パーセント」という高得点であった(注5)。こうした日本人の「識字率の高さ」が、幕末・維新以降に、英・仏による植民地支配を防ぎ(注6)、日本語のローマ字化を阻止した、と言っていいかもしれない。

ひるがえって、今日の、日本の教育の現状をどう考えるか?「子供の6人に1人が貧困状態にある」(日本経済新聞、2016年1月8日)。「経済協力開発機構(OECD)は15日、2013年の加盟各国の国内総生産(GDP)に占める学校など教育機関への公的支出の割合を公表……。日本は3.2%で、比較可能な33カ国中、最下位のハンガリー(3.1%)に次ぐ32位」(日本経済新聞、2016年9月15日)。「海外留学者数、加盟国中ワースト2位 『内向き』志向が原因?(OECD報告書『図表でみる教育2013年版』)」(The Huffington Post、2013年7月15日)。「日本の科学研究はこの10年間で失速している――。英科学誌「ネイチャー」が23日付の最新号で日本の科学力の低下を指摘する特集を掲載した。」(日本経済新聞、2017年3月26日)。……

(注1)「漢字文化資料館」(大修館書店Webサイト)
(注2)蘭学入門書の、大槻玄沢著『蘭学階梯』(らんがくかいてい)第2巻(1783年)において、アラビア数字が紹介されている(ブリタニカ国際大百科事典)。次のWebサイト1Webサイト2も参照のこと。
(注3)「日本語におけるローマ字の歴史」(Webサイト)
(注4)「漢字廃止論」(Wikipediaより)
(注5)「『疾病』誤読、日本語ローマ字化阻止」(Webサイトより)
(注6)フランスは幕府を、イギリスは薩長を支援
幕末、幕府はフランスの協力を得て幕政の立て直しを図ろうとしていた。一方、薩摩藩は薩英戦争で攘夷が不可能なことを知ると、イギリスに接近し、武器の輸入や洋式工場の建設などの改革を進めた。こうして「イギリスとフランス両国は対日政策で対立することになり、朝廷・雄藩と幕府の対立と絡みあって外国勢力の介入の危険が高まった」(『詳説日本史研究』山川出版社)。

<参考>文化庁「国語施策百年史」(Webサイト)
斎藤康雄「識字能力・識字率の歴史的推移―日本の経験」(PDF)
角知行「『日本人の読み書き能力調査』(1948)の再調査」(PDF)

五番街のマリーへ 高橋真梨子

「あの年この歌」という番組(テレビ東京)がある。「番組概要」には、次のように書かれている。「毎回、20世紀のある1年を主題として、名曲と時代を振り返る新しいタイプの“音楽報道番組”。 番組を見れば当時にタイムスリップし、音楽に勇気づけられた思いとパワーが蘇り、現代で忘れ去られたモノや、今後の生きる道しるべが見えてくる大人のための新しい音楽プログラム」 私には、テレビで歌番組を見るという習慣はまったくない。ふだんはYoutubeでおもにクラシック音楽などを探し、聞いている。しかし、この番組だけは不思議と毎回見る。「あの年この歌」が歌われていた「ある1年」が分かり、さらに懐かしさも手伝い、ビデオに録画して見ている。5月23日の「あの年この歌」は、高橋真梨子の「桃色吐息」(昭和59年=1984年)であった。わたしはこの歌ではなく、同じ番組で聞いた「五番街のマリーへ」に注目。この歌を意識して聴いたのははじめて。つまり初めて聴いたも同然。この歌はペドロ&カプリシャスの代表曲のひとつ。作詞阿久悠、作曲都倉俊一、ボーカル高橋まり(現在の高橋真梨子)。私は歌詞にも注目してみた。すると次のような「解釈」をしているブログを見つけた。以下に一部を引用してみる。このブログ(「いろいろブログ」)は女性によって書かれている。全文はブログを見て欲しい。

「五番街へ行ったならば マリーの家へ行き
どんなくらし しているのか
見て来てほしい

これを頼んでいるのは、男性である。彼の心の中に、刺さっているマリーという女性がいる。マリーとは、長い間、音信普通である。マリーは、不幸な人生を歩んできたことが、この短いフレーズで、私たちは、理解できるのだ。どんな暮らしをしているか、わからない。幸せそうな女性であれば、こんな台詞は出てこない。

五番街は古い町で 昔からの人が
きっと住んで いると思う
(省略)
たずねてほしい
マリーという娘と 遠い昔にくらし
悲しい思いをさせた それだけが気がかり
五番街でうわさをきいて もしも嫁に行って
今がとてもしあわせなら 寄らずにほしい
(省略)
……非常に物語的な作品である。マリーは、不幸せが似合う。そういう幸薄い影がある女性である。長い髪をして、可愛い女性である。男の人に対して、尽くして、恋する男性だけが彼女の全人生になってしまう。そんな女性である。そんな彼女が、彼をいらだたせることが、あった。彼女を必要以上に傷つけ、別れてしまった。ひどいことばかりをしてきた。何年たっても、彼女のことが、気がかりで、ある。彼女が住む五番街は、彼にとって、ある意味、聖地である。だからこそ、近づけない。マリーが、不幸せだとわかれば、飛んで生きたい。けれど、この男性は、踏みとどまるだろう。」

この歌の「五番街」とは、ニューヨークの、高級商店街のある地区のことであろうか。「五番街」には「若い男女が、気軽に同棲できるような」安アパートがある地区もあるらしい。いずれにしても、そんなことを気にせず、この曲を聞くのがよい。

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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