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マレーシア イポー

 私は2008年4月、かつて錫(すず)鉱業で発展したマレーシアのイポーを訪れた。イポーはペラ州の州都で、首都クアラルンプールから南北高速道路で約200km北にある。イギリスの植民地時代の鉄道駅などが残されており、住民の約7割が中国系の人たちである。

<写真>
①キンタ川
キンタ渓谷はかつて錫(すず)の大産出地であった
キンタ川
②イポー鉄道駅
1917年建設。駅舎の2階と3階がホテル
イポー鉄道駅
③マジェスティック・ホテル・イポー
イポー鉄道駅の2階、3階で営業している
マジェスティック・ステーション・ホテル・イポー
④ペラ・ダルル・リズアン博物館
イポーの歴史や錫(すず)の産出などについて展示
ペラ・ダルル・リズアン博物館
⑤イポー市内
中国系の人たちが多く住む
イポー市内
<地図>マレーシア イポー
イポー市地図
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マレーシア クアラルンプール  

<写真>2007年または2008年に撮影
写真①マラッカの旧バスターミナル
マラッカ 旧バスターミナル
写真②YMCAホステル(以下クアラルンプール)
KL YMCAホステル
写真③バトゥー洞窟
バトゥ洞窟
写真④国家記念碑
マレーシア独立戦争(1948年から12年続いた)で亡くなった兵士たちの功績を称える記念碑
KL国家記念碑
写真⑤国立博物館
マレーシアの伝統を取り入れた宮殿風の建物
国立博物館
写真⑥マレー鉄道事務局ビル(ザ・ヘリテージ・ステーション・ホテル・KLより撮影)
マレー鉄道事務局ビル
写真⑦旧連邦事務局ビル(国立歴史博物館より撮影)
旧連邦事務局ビル
写真⑧マスジッド・ジャメ
クアラルンプールにある最古のモスク。マスジッド・ジャメ駅のホームより撮影
マスジッド・ジャメ
写真⑨クアラルンプール鉄道駅
1910年イギリスがつくった歴史的建造物。シンガポール~クアラルンプール~バンコクを結ぶ
KL鉄道駅
 1974年8月、マラッカのバスターミナル(写真①)からクアラルンプールのプドゥラヤ・バスステーションへ移動。YMCAホステル(写真②)で泊まる。翌日、前日にマラッカからのバスで隣り合わせた女子学生と、その友人の女子学生の、ふたりの案内で、クアラルンプール市内を巡る。正確には思い出せないが、バトゥー洞窟(写真③)、国家記念碑(写真④)、国立博物館(写真⑤)などへ行く。翌日以降ひとりで、マレー鉄道事務局ビル(写真⑥)、国立モスク、旧連邦事務局ビル(写真⑦)、マスジッド・ジャメ(モスク、写真⑧)などを訪れる。数日間滞在したのち、クアラルンプール鉄道駅(写真⑨)からタイのバンコクへ寝台列車で向かう。マレーシアではひとりの日本人にも出会わなかった(少なくとも気がつかなかった)。はじめてイスラム文化や植民地文化などの異文化に触れたが、その体験は鮮烈であった。

 1974年当時、私は東南アジアの経済について勉強をしていた。とくに、シンガポール・マレーシア・タイ・ベトナム。2007年と2008年にも、合計5週間ほどシンガポールとマレーシアに滞在した。

シンガポール マラッカ

 1974年夏、シンガポールからマレーシアのマラッカへ「移動」する。写真はすべて1974年8月に撮影。

<写真>
写真①シンガポール第9回独立記念日(1974年)
シンガポール建国9周年1974
写真②ゴム・プランテーションの中の休憩所・売店
ゴムプランテーションバス休憩所1974
写真③セントポールの丘まで案内してくれた若者
この丘にセントポール教会がある。若者の背後にマラッカ海峡が見える(残念ながらこの写真ではよく見えない)。
マラッカ海峡と学生1974
写真④セントポール教会跡
セントポール教会1974
写真⑤マラッカ市街
この道を真っすぐ行くとセントポールの丘。
マラッカ市街1974
<地図>シンガポール~マラッカ
シンガポールマラッカ地図

 1974年8月はじめ、私はシンガポールにいた。8月9日は第9回独立記念日であった(写真①)。その後、シンガポールからマレーシアのマラッカへ行くため、バスに乗った。マレーシアに入ると、広大な天然ゴムのプランテーションの中をえんえんとバスが走る。対向車とはめったにすれ違わない。ごくまれに遠くに人家が見えるだけだった。バスが途中で故障すればどうなるのだろうか、と思う。プランテーションが途切れたところにある商店でバスが停まり、休憩をする(写真②)。夕方にはマラッカのバスターミナルへ着き、すぐそばの安宿に泊まる。部屋の壁にはヤモリが数匹いたが気にならない。翌朝さっそく、マラッカ海峡を見に行く。ガイドブックの地図では道順がよく分からない。そこで若者にセントポール教会へ行く道を尋ねる。彼はいっしょにセントポールの丘まで案内してくれた(写真③)。この丘からマラッカ海峡がよく見える。またこの丘には廃墟となったセントポール教会(注)がある(写真④)。ここで彼とは別れたが、このあとどこをどう巡ったのかまったく覚えていない。翌早朝、朝市が開かれていた。その後、宿の近くを散歩する。そこはマレー系の人たちの住む地域であった(カンポン・モルテン近くの集落)。午後(たぶん)、宿の前のバスターミナルから再びバスに乗り、クアラルンプールへ向かう。もちろん当時は、高速道路はなかった。

(注)ポルトガルのマラッカ進出とセントポール教会
 1498年、ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマはインドのカリカットに到達。ポルトガルは、1510年にインド西岸のゴアに拠点を置くと、翌年には武力でマラッカを占領。1543年、日本の種子島に来航、1584年には平戸に商館を設けた。マラッカは、インド(ゴア)と中国(マカオ)の中間にある重要な中継地・貿易港であった。ところが1641年、オランダがマラッカに進出してポルトガルを追い出し、オランダ東インド会社がマラッカを統治する。ポルトガルはセントポールの丘に小さな礼拝堂を建てたが、「オランダ人がポルトガルからマラッカを奪い取ると、オランダ人はその名前をSt.Paul's Churchと改名し」た。やがて「カトリックに反発するオランダ、イギリスの軍・民の度重なる攻撃で破壊され、教会は廃墟と化した」(「マラッカ/セント・ポール教会の墓石に刻まれた帆船」より)。

東南アジアと「ローマ字」

<写真>
①A マーライオン公園 1974年(シンガポール)…「危險! 請勿進入」
Merlion1974b
①B マーライオン公園 2008年(シンガポール)
Merlion20017b
⇑写真①Aは、「危險! 請勿進入」(DANGER! KEEP OUT)の「掲示版」(1974年8月、シンガポールで撮影)。シンガポールの公用語は、英語、中国語、マレー語、タミル語(インド南部の言語)の4つ。シンガポールの人たちは、学校や職場、公共の場ではおもに英語を話し、家庭ではそれぞれの「母語」(出身地の言語)を話す(注1)。「掲示板」(写真①A)の上から4番目がマレー語で、「ローマ字」(the Roman alphabet)で表記されている。東南アジア11か国のなかで、自国語の標準表記に「ローマ字」を用いている国は7か国(注2)。これら諸国の「ローマ字表記」は、19世紀からの欧米列強による植民地支配と密接に関係している。というのは宗主国(統治国)のいずれの言語も、「ローマ字」(ラテン文字)を用いているから。なお、「請勿」は「 ~しないでください」という意味。写真①Bは2008年3月撮影。

②マレーシア国立博物館(マレーシア)…マレーシアの「ローマ字」
National Museum1
National Museum2
⇑写真②上はマレーシア国立博物館。下の掲示板の最上部に書かれている「MUZIUM NEGARA」(マレー語)は、国立博物館の意味。その下からはマレー語と英語で表記されている。2008年3月撮影。

③A ベトナム-ドイツ友好病院(ベトナム)…ベトナムの「ローマ字」
越独友好病院
③B ハノイ市劇場(ベトナム)…ベトナムの「ローマ字」
ハノイ市劇場b
⇑写真③Aは、左はベトナム語、中央はフランス語、右は英語でそれぞれ書かれている。英語をみると、「ベトナム-ドイツ友好病院」であることが分かる。写真③Bはハノイ市劇場。右上と左上に見える Nhà hát Lớn Hà Nội は「オペラハウス ハノイ」の意味。ベトナム語には母音が多いため、「ローマ字」(ラテン文字)に補助記号をつけて書く。それぞれ2009年5月撮影。

(注1)「ほとんどの中国系住民の本来の母語が広東語などの地方語である」ため、「彼らにとり二言語政策は現実には三言語政策に等し」い(池端雪浦編『東南アジア史Ⅱ島嶼部』山川出版社)。というのは、中国系住民にとって第一言語は英語、第二言語は「中国語」だが、各家庭では出身地の言語(広東語などの「母語」)を話しているためである。なお、シンガポールでは「中国語」を「華語」(Mandarin)と表記し、「北京語音を標準とした標準中国語」のことを指す。
(注2)東南アジアでローマ字を用いていない国は4か国(タイ・カンボジア・ラオス・ミャンマー)。東南アジアの植民地支配国は以下の通り(すべて現在の国名で記す)。ミャンマー(独立当時はビルマ)・マレーシア・シンガポール・ブルネイはイギリス、ベトナム・カンボジア・ラオスはフランス、インドネシアはオランダ、東チモールはポルトガル(のちインドネシアが占領)、フィリピンはスペイン(米西戦争後、アメリカ)であった。なお、タイは英仏の「緩衝国」として唯一独立を保った。

「ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトの思い出」

 人は移動する。
 人類は、東アフリカに誕生し、やがてユーラシア大陸からアリューシャン列島を経て、南米大陸の最南端に達した。人類拡散のこの旅を「グレートジャーニー」と呼ぶ(注1)。

 ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトはイギリスからマラッカへ行き、そこで亡くなった。彼女の墓石(写真①)は、そのマラッカのセントポール教会(現在、廃墟)にある(写真②)。彼女は1806年9月20日に生まれ、1841年1月19日に人生を終えた。34歳と3か月29日であった。墓石には次のように記さている。
 "Sacred, To the memory of Mrs. Jane Charlotte Westerhout, born on the 20th Sep. 1806, and departed this life on the 19th January 1841, Aged 34 years 3 months and 29 days."
 彼女はなぜイギリスから遠く離れたこの地で亡くなったのか。

<写真①>ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトの墓石
ウェスターホウトの墓石
<写真②>セントポール教会(マラッカ)
セントポール教会
<写真③>セントポールの丘
セントポールの丘1
セントポールの丘2
セントポールの丘3
<写真④>マラッカ海峡
マラッカ海峡夕日

 マラッカは1511年から1641年までポルトガルの支配下に、ついで1641年からオランダの支配下にあった。1795年、イギリスはマラッカをはじめとするオランダ領東インドを占領。1824年、イギリス=オランダ協約により、正式にオランダからマラッカを獲得。以降、マラッカはイギリスの植民地下にあった(注2)。1957年、マラッカを含む、旧イギリス領マラヤ11州はマラヤ連邦を結成し、イギリスから独立。1963年、シンガポール・サラワク・サバ(当時は英領北ボルネオ)を含めてマレーシア連邦を結成。2年後の1965年にシンガポールが分離独立し、現在に至る。なお、イギリスの保護国であったブルネイは1984年、イギリスから完全に独立した。

 イギリスがマラッカを占領したのは1795年、イギリス人のシャーロットがマラッカで亡くなったのは1841年のこと。

 ブログ「備忘録として」には、シャーロットのことが次のように書かれている。
「……おそらく軍人か東インド会社の商人の夫とともに遼遠の地マラッカに赴任してきて、熱病かなにかの病を患って亡くなったのであろう。」(「備忘録として」)

 2008年5月、セントポール教会の廃墟の中を歩いていたとき、たくさんある墓石のなかで、英文で書かれた墓石に目がとまった(注3)。ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトの墓であった。ほとんどの墓石はオランダ語で書かれているため読めない(注4)。セントポールの丘(写真③)から、マラッカ海峡に沈む夕日を見ていると(写真④)、「移動する」人の歴史を思わないわけにはいかない。私は1974年の夏にも、マラッカ海峡を見に行った。

(注1)関野吉春著『グレートジャーニー~地球を這う①』より。「イギリス生まれの考古学者ブライアン・M・フェイガンは人類拡散のこの旅を『グレートジャーニー』と呼んだ。」
(注2)1941年12月から1945年8月までの、日本の占領期を除く。1941年12月、日本軍はコタバル近郊(西マレーシア北東部)に上陸、翌1942年にはマレー半島全域(タイ領を除く)を占領した。
(注3)私と同様、ぐうぜん英語で書かれたシャーロットの墓石に出会った人がいた。My Foreverfreebird Life~St. Paul's Hillを見よ。
(注4)Malaysia, MELAKA / MALACCA, Old Dutch Cemetery(eGGSA library)
(注5)2017年7月21日と同じ記事、写真である