「ジェーン・シャーロット・ウェスターホートの思い出」

人は移動する。
人類は、東アフリカに誕生し、やがてユーラシア大陸からアリューシャン列島を経て、南米大陸の最南端に達した。人類拡散のこの旅を「グレートジャーニー」と呼ぶ(注1)。

ジェーン・シャーロット・ウェスターホートはイギリスからマラッカへ行き、そこで亡くなった。彼女の墓石(写真①)は、そのマラッカのセントポール教会(現在、廃墟)にある(写真②)。彼女は1806年9月20日に生まれ、1841年1月19日に人生を終えた。34歳と3か月29日であった。墓石には次のように記さている。
"Sacred, To the memory of Mrs. Jane Charlotte Westerhout, born on the 20th Sep. 1806, and departed this life on the 19th January 1841, Aged 34 years 3 months and 29 days."
彼女はなぜイギリスから遠く離れたこの地で亡くなったのか。

<写真①>ジェーン・シャーロット・ウェスターホートの墓石
ウェスターホートの墓石
<写真②>セントポール教会(マラッカ)
セントポール教会
<写真③>セントポールの丘
セントポールの丘1
セントポールの丘2
セントポールの丘3
<写真④>マラッカ海峡
マラッカ海峡夕日

マラッカは1511年から1641年までポルトガルの支配下に、ついで1641年からオランダの支配下にあった。1795年、イギリスはマラッカをはじめとするオランダ領東インドを占領。1824年、イギリス=オランダ協約により、正式にオランダからマラッカを獲得。以降、マラッカはイギリスの植民地下にあった(注2)。1957年、マラッカを含む、旧イギリス領マラヤ11州はマラヤ連邦を結成し、イギリスから独立。1963年、シンガポール・サラワク・サバ(当時は英領北ボルネオ)を含めてマレーシア連邦を結成。2年後の1965年にシンガポールが分離独立し、現在に至る。なお、イギリスの保護国であったブルネイは1984年、イギリスから完全に独立した。

イギリスがマラッカを占領したのは1795年、イギリス人のシャーロットがマラッカで亡くなったのは1841年のこと。

ブログ「備忘録として」には、シャーロットのことが次のように書かれている。
「……おそらく軍人か東インド会社の商人の夫とともに遼遠の地マラッカに赴任してきて、熱病かなにかの病を患って亡くなったのであろう。」(「備忘録として」)

2008年5月、セントポール教会の廃墟の中を歩いていたとき、たくさんある墓石のなかで、英文で書かれた墓石に目がとまった(注3)。ジェーン・シャーロット・ウェスターホートの墓であった。ほとんどの墓石はオランダ語で書かれているため読めない(注4)。セントポールの丘(写真③)から、マラッカ海峡に沈む夕日を見ていると(写真④)、「移動する」人の歴史を思わないわけにはいかない。私は1974年の夏にも、マラッカ海峡を見に行った。

(注1)関野吉春著『グレートジャーニー~地球を這う①』より。「イギリス生まれの考古学者ブライアン・M・フェイガンは人類拡散のこの旅を『グレートジャーニー』と呼んだ。」
(注2)1941年12月から1945年8月までの、日本の占領期を除く。1941年12月、日本軍はコタバル近郊(西マレーシア北東部)に上陸、翌1942年にはマレー半島全域(タイ領を除く)を占領した。
(注3)私と同様、ぐうぜん英語で書かれたシャーロットの墓石に出会った人がいた。My Foreverfreebird Life~St. Paul's Hillを見よ。
(注4)Malaysia, MELAKA / MALACCA, Old Dutch Cemetery(eGGSA library)
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東南アジアと「ローマ字」

<写真>
①A マーライオン公園 1974年(シンガポール)…「危險! 請勿進入」
Merlion1974b
①B マーライオン公園 2008年(シンガポール)
Merlion20017b
⇑写真①Aは、「危險! 請勿進入」(DANGER! KEEP OUT)の「掲示版」(1974年8月、シンガポールで撮影)。シンガポールの公用語は、英語、中国語、マレー語、タミル語(インド南部の言語)の4つ。シンガポールの人たちは、学校や職場、公共の場ではおもに英語を話し、家庭ではそれぞれの「母語」(出身地の言語)を話す(注1)。「掲示板」(写真①A)の上から4番目がマレー語で、「ローマ字」(the Roman alphabet)で表記されている。東南アジア11か国のなかで、自国語の標準表記に「ローマ字」を用いている国は7か国(注2)。これら諸国の「ローマ字表記」は、19世紀からの欧米列強による植民地支配と密接に関係している。というのは宗主国(統治国)のいずれの言語も、「ローマ字」(ラテン文字)を用いているから。なお、「請勿」は「 ~しないでください」という意味。写真①Bは2008年3月撮影。

②マレーシア国立博物館(マレーシア)…マレーシアの「ローマ字」
National Museum1
National Museum2
⇑写真②上はマレーシア国立博物館。下の掲示板の最上部に書かれている「MUZIUM NEGARA」(マレー語)は、国立博物館の意味。その下からはマレー語と英語で表記されている。2008年3月撮影。

③A ベトナム-ドイツ友好病院(ベトナム)…ベトナムの「ローマ字」
越独友好病院
③B ハノイ市劇場(ベトナム)…ベトナムの「ローマ字」
ハノイ市劇場b
⇑写真③Aは、左はベトナム語、中央はフランス語、右は英語でそれぞれ書かれている。英語をみると、「ベトナム-ドイツ友好病院」であることが分かる。写真③Bはハノイ市劇場。右上と左上に見える Nhà hát Lớn Hà Nội は「オペラハウス ハノイ」の意味。ベトナム語には母音が多いため、「ローマ字」(ラテン文字)に補助記号をつけて書く。それぞれ2009年5月撮影。

(注1)「ほとんどの中国系住民の本来の母語が広東語などの地方語である」ため、「彼らにとり二言語政策は現実には三言語政策に等し」い(池端雪浦編『東南アジア史Ⅱ島嶼部』山川出版社)。というのは、中国系住民にとって第一言語は英語、第二言語は「中国語」だが、各家庭では出身地の言語(広東語などの「母語」)を話しているためである。なお、シンガポールでは「中国語」を「華語」(Mandarin)と表記し、「北京語音を標準とした標準中国語」のことを指す。
(注2)東南アジアでローマ字を用いていない国は4か国(タイ・カンボジア・ラオス・ミャンマー)。東南アジアの植民地支配国は以下の通り(すべて現在の国名で記す)。ミャンマー(独立当時はビルマ)・マレーシア・シンガポール・ブルネイはイギリス、ベトナム・カンボジア・ラオスはフランス、インドネシアはオランダ、東チモールはポルトガル(のちインドネシアが占領)、フィリピンはスペイン(米西戦争後、アメリカ)であった。なお、タイは英仏の「緩衝国」として唯一独立を保った。

ベトナム サイゴン ホーチミン市

1.南ベトナム サイゴン
1974年8月、ホンコン・シンガポール・マレーシア・タイを経由して南ベトナムのサイゴンへ(南ベトナム、サイゴンとも当時の名称。サイゴンは現在のホーチミン市)。9月初め、伊丹空港(大阪府)・京都市を経て帰京。南ベトナムは当時、いまだ戦闘状態にあった。私の人生で最も影響を受けたのがベトナム戦争。1969年(たぶん)、新宿駅東口にあるルミネで開催されたベトナム展(「ベトナムの心」)で多くの写真を見た。大きな衝撃と感動を受けた。「小国」のベトナムが、あの「超大国」のアメリカに、勝つこともできないが、負けてもいない……。このことがサイゴンを訪れる契機となった。当時、南ベトナムへは「ビザなし」で入国できた。学生運動が盛んな時代ではあったが、私はとくに参加することはなかった。

2.ホーチミン市 ホイアン フエ
2009年5月、私はハノイを経由して、ホーチミン市、ホイアン、フエを旅した(その後ハノイへ戻る)。1974年の訪問時、サイゴンで写真を撮った場所は、今回の旅でも見つけることができた。ただこのとき訪れた寺だけはどうしも探すことができなかった。1974年、この寺で偶然ひとりのベトナム人に出会う。1台のバイクに私を含めて5人も乗り、彼の家族とともに映画館、レストランへ行く。翌日、私を安宿(ホテル)に迎えに来た彼は軍服姿。彼は南ベトナム政府の軍人であった。私は、彼の家族の写真を撮ったあと、彼の属する部隊を案内してもらった。帰国後、私が撮った写真を彼の家に郵送。翌1975年の4月、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争は終結。その後、彼と彼の家族はどうしたであろうか。混乱のなかで、多くの南ベトナム政府関係者や軍人およびその家族が近隣諸国やアメリカ、オーストラリアなどへ逃れた。私はサイゴンで、もうひとりの日本人に出会った。彼はかなり高齢であったが、太平洋戦争後も一度も日本へ帰らず、ベトナムにひとり残り、日本大使館で働いていた。私は帰国後、この日本人が記した、東京の住所地へ手紙を送ったが返事はなかった。2009年、私は、ホーチミン市で多くの、ベトナム戦争関連の博物館を訪れた。このあとメコン・デルタ(ミトーとベンチェー)へ行き、ついで日本町(17世紀初頭)のあったホイアン、古都フエを経由してハノイへ戻った。ホーチミン市で訪れた場所は以下の通り。統一会堂(旧大統領官邸)、戦争証跡(しょうせき)博物館、中央郵便局、サイゴン大教会(聖母マリア教会)、ホーチミン市博物館、ホーチミン作戦博物館、歴史博物館、フンブオン廟、サイゴン動植物園、サイゴン川沿いのメリン広場、チラン公園、ベンタイン市場、ビンタイ市場(チョロン地区、ベトナム最大の中華街)など(記憶の範囲で)。ビンタイ市場を除いて、すべて歩いて巡る。

<写真>At Youth Hostel in Bangkok, August 1974
バンコク ユースホステル前にて
<写真>Saigon, September 1974①
サイゴン市内1
<写真>Saigon, September 1974②
サイゴン市内2
<写真>Mr. Chai's family, Saigon, September 1974
Chai family, Saigon, 1974
<写真>Chi Lang Park, Saigon, September 1974
サイゴン市内3 チラン公園

ベトナム ハノイ

1.ベトナムの歴史
ベトナムはおよそ千年の長きにわたり中国の支配を受けた。937年、ベトナムはようやく中国支配から解放され、その後いくつかの王朝が続いた。1887年、フランスはベトナム・ラオス・カンボジアの3国を植民地(フランス領インドシナ)とする。ベトナムの北部は保護国化、南部は直轄地。1940年、日本軍は北部フランス領インドシナ(ベトナム北部)に進駐(このころフランスはドイツの占領下にあった)。1942年、日本軍はシンガポールを占領。ところが1945年の日本降伏後、フランスは旧植民地の復活をはかろうとし、ベトナムと戦闘状態にはいる(第一次インドシナ戦争)。1954年、フランス軍がディエン・ビエン・フーの戦いで敗北。同年のジュネーブ協定により、ベトナムを南北に分離し、2年後の自由選挙で統一するはずであった。ところが南ベトナム政府が南北統一選挙を拒否したため、ベトナムは北緯17度線で南北に分断されたままになった。1960年、「南ベトナム解放民族戦線」が結成され、南ベトナム政府に宣戦布告を行いベトナム戦争が始まった(第二次インドシナ戦争)。1961年、アメリカは「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、正規軍人で構成された「軍事顧問団」を派遣。1964年のトンキン湾事件を口実に米軍は翌年、北爆を開始。本格的にベトナム戦争が始まった。ベトナム戦争は、「南ベトナム解放民族戦線+北ベトナム政府軍(支援)」対「南ベトナム政府軍+アメリア軍(支援)」という構図。1973年、パリ和平協定により、米軍が南ベトナムから撤退。北爆は止んだが、南ベトナムではまだ、北ベトナムに支援を受ける南ベトナム解放民族戦線とアメリカに支援を受ける南ベトナム政府軍とのあいだで戦闘は続いていた。翌1974年8月下旬、私はメコン川が大きく蛇行しているのをカンボジア上空で見たあと、南ベトナムのサイゴン・タンソニャット空港に降り立った。半年後の1975年4月30日、私が半年前に見た大統領官邸に解放戦線が突入し、サイゴンが陥落。ベトナム戦争は終結した。翌1976年、南北両ベトナムが統一され、現在のベトナム社会主義共和国が成立。しかし、1980年代にかけて、ベトナムとカンボジアとの紛争や中越国境紛争などもあり、ベトナムの経済は停滞したままであった。1986年、資本主義経済の導入や国際社会への協調などを提唱したドイモイ(刷新)を発表。1992年、日本のODA(政府開発援助)再開。1995年、ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟。こうしたこともあり、ようやく停滞から抜け出し、経済発展の途についた。2010年にはアメリカとの国交も回復した。

2.初めてハノイへ
2009年5月、私は初めてハノイへ。ハノイではホアンキエム湖近くの安宿(ホテル)に滞在し、ハノイ中を散策した。訪れた場所は以下の通り(ガイドブック掲載順)。ホー・チ・ミン廟、ホー・チ・ミン博物館、ホー・チ・ミンの家、ハノイ大教会(セント・ジョセフ教会)、タイ湖(西湖)、鎮武観(ちんぶかん、道教寺院)、文廟(孔子廟)、歴史博物館、革命博物館、軍事博物館、ホアロー収容所(フランスによって造られた監獄)、市劇場(フランス風建築)、旧家保存館、ドンスアン市場、水上人形劇場、ハノイ駅、トンニャット(統一)公園、ホアンキエム湖と玉山祠(ぎょくさんじ、「神社」)、旧市街など(記憶の範囲で)。ノイバイ国際空港(ハノイ郊外)への往復を除いて、ほとんど乗り物に乗らず、歩いてめぐった。印象に残ったのはやはり、ホアンキエム湖周辺の静寂と旧市街の喧騒。上野の不忍池とアメ横周辺のよう(湖と池の、規模の違いはあるが)。人々の生活を垣間見ることができた。米軍機による北爆の跡は見られず、みごとに復興を遂げていた。モノがあふれる日本の都市とは異なり、悠々と流れる時間に人々の生活の「豊かさ」を感じた。

<写真>Hoan Kiem Lake in Hanoi, May 2009
Hoan Kiem Lake in Hanoi
<写真>The Old Quarter in Hanoi, May 2009
Old City in Hanoi

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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