マレーシア イポー

私は2008年4月、かつて錫(すず)鉱業で発展したマレーシアのイポーを訪れた。イポーはペラ州の州都で、首都クアラルンプールから南北高速道路で約200km北にある。イギリスの植民地時代の鉄道駅などが残されており、住民の約7割が中国系の人たちである。

<写真>
①キンタ川
キンタ渓谷はかつて錫(すず)の大産出地であった
キンタ川
②イポー鉄道駅
1917年建設。駅舎の2階と3階がホテル
イポー鉄道駅
③マジェスティック・ホテル・イポー
イポー鉄道駅の2階、3階で営業している
マジェスティック・ステーション・ホテル・イポー
④ペラ・ダルル・リズアン博物館
イポーの歴史や錫(すず)の産出などについて展示
ペラ・ダルル・リズアン博物館
⑤イポー市内
中国系の人たちが多く住む
イポー市内
<地図>マレーシア イポー
イポー市地図
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マレーシア イポーと中国人の「移動」

イポーは19世紀のはじめ、キンタ川の流域にある村として誕生。同世紀の中ごろからキンタ渓谷で「本格的な」錫(すず)鉱の採掘がはじまった。20世紀はじめにイギリスの錫鉱業会社が相次いで設立されると、町は急速に発展をとげ、「数万人規模で中国人労働者が相次いで入植」。こうしてイポーは「英国の植民地時代にマレーシア第二の都市となった」(注1)。現在、イポーの住民の約7割(2010年統計)が中国系であるのは、このためである(注2)。

中国系の人たちは、なぜこのように「大量に」海外へ「移動」したのであろうか。

現在、(中国本土を除いて)「全世界に住む中国人はおよそ2500万人で、その85%が東南アジアに住むという」(参考①)。すでに12世紀から16世紀にかけて、中国人たちは小規模な海外移住をしていた。ところが19世紀半ばから20世紀はじめにかけて、汽船の定期就航もあって、大規模な「移動」を開始する。19世紀に黒人奴隷制度が廃止され、1842年の南京条約により清朝の「海禁」(鎖国政策)が終わると(注3)、黒人奴隷に代わる労働力として海を渡ることになった。マレー半島のイギリス領海峡植民地(注4)の錫鉱山、カリブ海のサトウキビ・プランテーション、アメリカの大陸横断鉄道建設など、多くの中国人が安価な出稼ぎ労働力として使役された(注5)。

次に長くなるが、川崎有三著『東南アジアの中国人社会』より以下に引用してみる。
「大量移住によってもたらされた中国人移民はおもに肉体労働にたずさわる人びとであった。マラヤ地域における錫鉱山労働者、タイにおける鉄道建設のための労働者などがその例である。中国本土においてほとんど社会の底辺にあったような貧しい農民、労働者たちが、契約労働者として送り込まれ、激しい労働に従事させられ、阿片に一時の安らぎをうるような過酷な生活をしいられたのであった。移民のなかなには現地に送り込まれる船のなかで死亡したり、あるいは現地の激しい労働にたえきれず、また熱帯の伝染病でその命を落とす者も多かった。彼らは『瀦子』(ちょし)と呼ばれ、家畜同様の扱いを受け、また『苦力』(クーリー)と呼ばれることも多かった。もちろん東南アジア以外にも世界のさまざまな地域に中国人労働者たちは進出した。ちょうど、奴隷貿易が禁止され、適当な労働力の調達先を求めていたイギリスなどのヨーロッパ諸国は、中国人やインド人たちをその代替にして積極的な移住政策をとっていた。彼らは単身の男子であり、本土を離れてしばらく出稼ぎに行くという感覚で渡航していった。こうした移民たちのなかには、数年ののちに本土へと帰国する者も多かったが、なかには長く住みつく者たちもいた。」(参考②)ところが、現地に定住した中国系の人たちは再び、「差別に抗して、または子弟の教育を考えて、第二、第三の安住地へと移る」(参考①)。こうして、人はまた「移動する」。

「1820年代から1920年代の100年、中国から東南アジアへむかった移民の総数は約1000万人、うち現地に定住化した数は300万人くらい。」同時期、「西欧や東欧からアメリカ大陸への白人移住」は、「延べ5000万人」にものぼる(参考①)。中国人だけが「大量に」移動したのではない。日本人も明治以降、多くの人たちが海外へ移住した(注6)。

交通や通信が飛躍的に進歩した今日、人は今まで以上に「移動」する。こうして、次の世紀には、民族や人種を問題とすることのない世紀になる。歴史や文化、言語などは大切にしつつ……。そう、願わないわけにはいかない。

(注1)Wikipedia「イポー」より
(注2)1970年代に錫鉱山が閉鎖されるまで、イポーはマレーシアの主要な錫産出地であった。なお2010年現在、イポーの人口はマレーシア第6位(約70万人)である。「マレーシアの歴史~スズ鉱産業」(Malaysia Life)および「マレーシア都市リスト」より。
(注3)南京条約……1842年にアヘン戦争を終結させるため、清とイギリスが結んだ講和条約。海外渡航が解禁され、海外移住が自由になった。「海禁」の正式な解除は1893年。
(注4)海峡植民地……イギリス本国の直轄地。ペナン、マラッカ、シンガポールなど。
(注5)「海禁/海禁政策」「南洋華僑/華僑」(Webサイト「世界史の窓」より)
(注6)日本人の海外移住(「JICA横浜海外移住資料館」のWebサイトより)
「日本人の海外移住は、1866年に海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれてから、すでに100年以上の歴史があります。ハワイ王国における砂糖きびプランテーションへの就労に始まって、アメリカ、カナダといった北米への移住、そしてその後1899年にはペルー、1908年にはブラジルへと日本人が渡ります。そして、1924年にアメリカで日本人の入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移っていきます。その結果、第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人が移住しています。」日本政府の移住政策に多くの「不備」があり、「国策による日本人の海外移住は国家から邪魔者扱いされ見捨てられた『棄民』である」とする著書もある(参考③)。

<参考>
①斯波義信『華僑』
②川崎有三『東南アジアの中国人社会』
③アルベルト・松本「日本人の海外移住、100年以上の足跡とは」(Webサイト)、遠藤十亜希著『南米「棄民」政策の実像』

マレーシア クアラルンプール  

<写真>2007年または2008年に撮影
写真①マラッカの旧バスターミナル
マラッカ 旧バスターミナル
写真②YMCAホステル(以下クアラルンプール)
KL YMCAホステル
写真③バトゥー洞窟
バトゥ洞窟
写真④国家記念碑
マレーシア独立戦争(1948年から12年続いた)で亡くなった兵士たちの功績を称える記念碑
KL国家記念碑
写真⑤国立博物館
マレーシアの伝統を取り入れた宮殿風の建物
国立博物館
写真⑥マレー鉄道事務局ビル(ザ・ヘリテージ・ステーション・ホテル・KLより撮影)
マレー鉄道事務局ビル
写真⑦旧連邦事務局ビル(国立歴史博物館より撮影)
旧連邦事務局ビル
写真⑧マスジッド・ジャメ
クアラルンプールにある最古のモスク。マスジッド・ジャメ駅のホームより撮影
マスジッド・ジャメ
写真⑨クアラルンプール鉄道駅
1910年イギリスがつくった歴史的建造物。シンガポール~クアラルンプール~バンコクを結ぶ
KL鉄道駅
1974年8月、マラッカのバスターミナル(写真①)からクアラルンプールのプドゥラヤ・バスステーションへ移動。YMCAホステル(写真②)で泊まる。翌日、前日にマラッカからのバスで隣り合わせた女子学生と、その友人の女子学生の、ふたりの案内で、クアラルンプール市内を巡る。正確には思い出せないが、バトゥー洞窟(写真③)、国家記念碑(写真④)、国立博物館(写真⑤)などへ行く。翌日以降ひとりで、マレー鉄道事務局ビル(写真⑥)、国立モスク、旧連邦事務局ビル(写真⑦)、マスジッド・ジャメ(モスク、写真⑧)などを訪れる。数日間滞在したのち、クアラルンプール鉄道駅(写真⑨)からタイのバンコクへ寝台列車で向かう。マレーシアではひとりの日本人にも出会わなかった(少なくとも気がつかなかった)。はじめてイスラム文化や植民地文化などの異文化に触れたが、その体験は鮮烈であった。

1974年当時、私は東南アジアの経済について勉強をしていた。とくに、シンガポール・マレーシア・タイ・ベトナム。2007年と2008年にも、合計5週間ほどシンガポールとマレーシアに滞在した。

シンガポール マラッカ

1974年夏、シンガポールからマラッカへ「移動」する。写真はすべて1974年8月に撮影。

<写真>
写真①シンガポール第9回独立記念日(1974年)
シンガポール建国9周年1974
写真②ゴム・プランテーションの中の休憩所・売店
ゴムプランテーションバス休憩所1974
写真③セントポールの丘まで案内してくれた若者
この丘にセントポール教会がある。若者の背後にマラッカ海峡が見える(残念ながらこの写真ではよく見えない)。
マラッカ海峡と学生1974
写真④セントポール教会跡
セントポール教会1974
写真⑤マラッカ市街
この道を真っすぐ行くとセントポールの丘。
マラッカ市街1974
<地図>シンガポール~マラッカ
シンガポールマラッカ地図

1974年8月はじめ、私はシンガポールにいた。8月9日は第9回独立記念日であった(写真①)。その後、シンガポールからマレーシアのマラッカへ行くため、バスに乗った。マレーシアに入ると、広大な天然ゴムのプランテーションの中をえんえんとバスが走る。対向車とはめったにすれ違わない。ごくまれに遠くに人家が見えるだけだった。バスが途中で故障すればどうなるのだろうか、と思う。プランテーションが途切れたところにある商店でバスが停まり、休憩をする(写真②)。夕方にはマラッカのバスターミナルへ着き、すぐそばの安宿に泊まる。部屋の壁にはヤモリが数匹いたが気にならない。翌朝さっそく、マラッカ海峡を見に行く。ガイドブックの地図では道順がよく分からない。そこで若者にセントポール教会へ行く道を尋ねる。彼はいっしょにセントポールの丘まで案内してくれた(写真③)。この丘からマラッカ海峡がよく見える。またこの丘には廃墟となったセントポール教会(注)がある(写真④)。ここで彼とは別れたが、このあとどこをどう巡ったのかまったく覚えていない。翌早朝、朝市が開かれていた。その後、宿の近くを散歩する。そこはマレー系の人たちの住む地域であった(カンポン・モルテン近くの集落)。午後(たぶん)、宿の前のバスターミナルから再びバスに乗り、クアラルンプールへ向かう。もちろん当時は、高速道路はなかった。

(注)ポルトガルのマラッカ進出とセントポール教会
1498年、ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマはインドのカリカットに到達。ポルトガルは、1510年にインド西岸のゴアに拠点を置くと、翌年には武力でマラッカを占領。1543年、日本の種子島に来航、1584年には平戸に商館を設けた。マラッカは、インド(ゴア)と中国(マカオ)の中間にある重要な中継地・貿易港であった。ところが1641年、オランダがマラッカに進出してポルトガルを追い出し、オランダ東インド会社がマラッカを統治する。ポルトガルはセントポールの丘に小さな礼拝堂を建てたが、「オランダ人がポルトガルからマラッカを奪い取ると、オランダ人はその名前をSt.Paul's Churchと改名し」た。やがて「カトリックに反発するオランダ、イギリスの軍・民の度重なる攻撃で破壊され、教会は廃墟と化した」(「マラッカ/セント・ポール教会の墓石に刻まれた帆船」より)。

「ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトの思い出」

人は移動する。
人類は、東アフリカに誕生し、やがてユーラシア大陸からアリューシャン列島を経て、南米大陸の最南端に達した。人類拡散のこの旅を「グレートジャーニー」と呼ぶ(注1)。

ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトはイギリスからマラッカへ行き、そこで亡くなった。彼女の墓石(写真①)は、そのマラッカのセントポール教会(現在、廃墟)にある(写真②)。彼女は1806年9月20日に生まれ、1841年1月19日に人生を終えた。34歳と3か月29日であった。墓石には次のように記さている。
"Sacred, To the memory of Mrs. Jane Charlotte Westerhout, born on the 20th Sep. 1806, and departed this life on the 19th January 1841, Aged 34 years 3 months and 29 days."
彼女はなぜイギリスから遠く離れたこの地で亡くなったのか。

<写真①>ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトの墓石
ウェスターホウトの墓石
<写真②>セントポール教会(マラッカ)
セントポール教会
<写真③>セントポールの丘
セントポールの丘1
セントポールの丘2
セントポールの丘3
<写真④>マラッカ海峡
マラッカ海峡夕日

マラッカは1511年から1641年までポルトガルの支配下に、ついで1641年からオランダの支配下にあった。1795年、イギリスはマラッカをはじめとするオランダ領東インドを占領。1824年、イギリス=オランダ協約により、正式にオランダからマラッカを獲得。以降、マラッカはイギリスの植民地下にあった(注2)。1957年、マラッカを含む、旧イギリス領マラヤ11州はマラヤ連邦を結成し、イギリスから独立。1963年、シンガポール・サラワク・サバ(当時は英領北ボルネオ)を含めてマレーシア連邦を結成。2年後の1965年にシンガポールが分離独立し、現在に至る。なお、イギリスの保護国であったブルネイは1984年、イギリスから完全に独立した。

イギリスがマラッカを占領したのは1795年、イギリス人のシャーロットがマラッカで亡くなったのは1841年のこと。

ブログ「備忘録として」には、シャーロットのことが次のように書かれている。
「……おそらく軍人か東インド会社の商人の夫とともに遼遠の地マラッカに赴任してきて、熱病かなにかの病を患って亡くなったのであろう。」(「備忘録として」)

2008年5月、セントポール教会の廃墟の中を歩いていたとき、たくさんある墓石のなかで、英文で書かれた墓石に目がとまった(注3)。ジェーン・シャーロット・ウェスターホウトの墓であった。ほとんどの墓石はオランダ語で書かれているため読めない(注4)。セントポールの丘(写真③)から、マラッカ海峡に沈む夕日を見ていると(写真④)、「移動する」人の歴史を思わないわけにはいかない。私は1974年の夏にも、マラッカ海峡を見に行った。

(注1)関野吉春著『グレートジャーニー~地球を這う①』より。「イギリス生まれの考古学者ブライアン・M・フェイガンは人類拡散のこの旅を『グレートジャーニー』と呼んだ。」
(注2)1941年12月から1945年8月までの、日本の占領期を除く。1941年12月、日本軍はコタバル近郊(西マレーシア北東部)に上陸、翌1942年にはマレー半島全域(タイ領を除く)を占領した。
(注3)私と同様、ぐうぜん英語で書かれたシャーロットの墓石に出会った人がいた。My Foreverfreebird Life~St. Paul's Hillを見よ。
(注4)Malaysia, MELAKA / MALACCA, Old Dutch Cemetery(eGGSA library)

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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