長谷寺 明月院

 紫陽花を見に鎌倉へ。江ノ電長谷駅で下車し、歩いて5分ほどで長谷寺(はせでら、注)へ着く。「浄土宗系統の単立寺院」であるという(Wikipedia)。「長谷寺は、四季折々の植物が楽しめる花寺。鎌倉屈指のアジサイの名所として知られていり、40種類以上約2500株が群生する眺望散策路では由比ガ浜(ゆいがはま)の海を見ながらアジサイの花を愛でることができる。」(鎌倉ぶらぶら「鎌倉史跡 長谷寺」より)紫陽花も満開であったが、人も満開。みんな、前の人にあわせて進む。立ち止まってゆっくり花を撮影するどころではない。
 長谷寺を後にして、由比ガ浜へ。滑川(なめりがわ)交差点で北上し、JR横須賀線鎌倉駅まで歩く。ここでしばらく休憩したあと、JRに乗って北鎌倉駅へ。
 明月院は入場制限をしていることもあるので、まず円覚寺へ。円覚寺は、臨済宗円覚寺派の大本山。鎌倉時代の1282年(弘安5年)に創建。なかでも舎利殿は国宝で、15世紀の建造物と推定されている。ここで時間調整をして明月院へ。明月院は、臨済宗建長寺派に属し、創建は1160年(永暦元年)という(パンフレットより)。「長谷寺と並ぶ鎌倉随一のアジサイの名所。満開時には約2500株のヒメアジサイで境内が染まり、その淡い青色は『明月院ブルー』と呼ばれている。」(鎌倉ぶらぶら「北鎌倉 明月院」より)夕方に訪れたため入場制限はしていなかったが、みんな、列をつくって紫陽花を観賞。私は、有名な方丈(ほうじょう。禅宗寺院の居室)内の「円窓」も撮らず、そうそうに明月院を後にした。

<写真>
①長谷寺
鎌倉20180601
鎌倉20180602
鎌倉20180603
鎌倉20180604
鎌倉20180605
②明月院
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鎌倉20180610
<注>「長谷寺」という名称のお寺は、日本全国で240ほどあるという(Wikipedia)。奈良県桜井市にある長谷寺(はせでら)も有名だが、こちらは真言宗豊前派の大本山。長野県飯綱町にある長谷寺は「ちょうこくじ」と読み、浄土宗。
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冬の公園(5)相模原公園 

神奈川県立相模原公園は「昭和48年<1973年>から座間小銃射撃場(注)跡地を中心に相模野の面影が残る樹林と桑畑を買収して整備」されてきた。昭和54年(1979年)に開園。「平成4年<1992年>の全国都市緑化フェアの開催を機に隣接する<相模原>市立相模原麻溝(あさみぞ)公園とともに全面的に再整備……。」「広々とした芝生広場、メタセコイア並木に囲まれたフランス風庭園、温室、花菖蒲園、雑木林などで緑と花と水で構成され自然探勝、花の観賞そして家族連れやグループでのびのびと楽しめる……。」(神奈川県立相模原公園概要より)
JR横浜線古淵駅から相模原公園へ行く場合は、「古04系統 麻溝台(あさみぞだい)一丁目経由女子美術大学行」に乗り、女子美術大学バス停で下車。JR古淵駅から約20分。車で行く場合は282台を収容する有料駐車場がある。
(注)1937年(昭和12年)に開設された「陸軍士官学校練兵所」の小銃射撃試験場が米軍に接収され、「在日米軍厚木小銃射撃場」、後に「座間小銃射撃場」(改称)となった。1969年(昭和44年)に全面返還。その後、2年間の自衛隊の使用や公園の整備を経て、1979年(昭和54)年「神奈川県立相模原公園」が開園した。(神奈川県相模原「基地の街から政令指定都市へ」から自由に引用)。

<写真>
相模原公園1
相模原公園2
相模原公園3
相模原公園4

ヘボンの足跡

写真①は、ヘボンが横浜山手時代に住んでいた「山手245番」の跡地。ヘボンはここでも聖書の共同翻訳事業に取り組み、完成までに「個人訳時代から数えれば20数年の歳月」を要した(注1)。また一時期、明治学院の職務についたり、指路(しろ)教会(写真②)の建設のため奔走したりした。1892年(明治25年)に指路教会が完成すると、ヘボン夫妻はアメリカ帰国を決意。翌1893年(明治26年)に帰国。ニュージャージー州イースト=オレンジで晩年を過ごした。ヘボン夫人は1906年(明治39年)に永眠、ヘボンは1911年(明治44年)に96歳で永眠した(注2)。

<写真①>ヘボンが横浜山手時代に住んでいた「山手245番」の跡地
ヘボン山手居住地跡1
ヘボン山手居住地跡2
<写真②>指路教会
⇓ 指路教会は横浜市中区尾上町6-85にある。最寄駅はJR関内駅など。
指路教会1
指路教会2
<写真③>横浜山手111番館
⇓ 1926年(大正15)年、アメリカ人ラフィン氏の住宅として建設された。木造2階建(地下1階)だが、1階に吹き抜けのホールがあり、海への見晴らしも良い。私のお気に入りの西洋館。
山手111番館1
横浜山手居留地2
<写真④>横浜外国人墓地正門
横浜外国人墓地
<地図>横浜山手地区
横浜山手居留地

(注1)「日本語訳聖書」(Wikipedia)。望月洋子著『ヘボンの生涯と日本語』に詳しい。
(注2)高谷道雄著『ヘボン』より

ヘボンの顕彰碑 山下公園など

写真①は、ヘボン邸跡に設置されたヘボンの顕彰碑と解説板。ヘボンは、横浜居留地時代「居留地39番」に住んでいた。1862年(文久2年)、この39番の土地を買い入れ、移転。住居、施療所、礼拝堂兼教室などを設ける。ヘボンはこの施療所で「貧富・上下、武士・町人の差別なく、無料で診療・手術・施薬」を行う。またここで『和英語林集成』の編纂を行い、出版した(初版は1866年=慶応2年)。ヘボン夫人が中心となり、多くの日本人に英語などを教える(ヘボン塾)。高橋是清など多くの日本人が学び、この塾はやがて明治学院やフェリス女学院の「源流」となった。

<写真①>ヘボンの顕彰碑と解説板(横浜地方合同庁舎前の緑地)
ヘボンの顕彰碑と解説板
<写真②>ヘボン邸(居留地39番地)
居留地39番
⇑上の写真はみなとみらい線元町・中華街駅の構内で(タイルを)撮影。山下公園の完成は昭和5年(1930年)なので、グランドホテル前は海岸であった。これとほぼ同じ位置で撮られた写真はここ「横浜グランドホテル全景

<写真③>横浜中華街(東門)
横浜中華街
<写真④>山下公園
山下公園1
山下公園2
<写真⑤>日本郵船氷川丸(博物館船)
氷川丸
<地図>居留地39番(横浜居留地)にあったヘボン邸
ヘボン邸 横浜居住地39番地

ヘボン 成仏寺 宗興寺

写真①は、ヘボン夫妻が日本で最初に住んだ成仏寺(じょうぶつじ)。
(ヘボン式ローマ字で知られる)ヘボン夫妻は1859年(安政6年)、横浜に上陸、成仏寺の本堂を借りて住んでいた。ヘボン45歳のときで、その半年後に井伊直弼(いいなおすけ)が江戸城桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。1862年(文久2年)の生麦事件のさい、ヘボンは負傷したイギリス人を治療したという。この頃、横浜には外人住宅が少なく、東海道神奈川宿(現横浜市神奈川区)の、この寺に住むことになる。ヘボンはここで日本語の研究、和英辞書の編纂にとりかかった。また、医師でもあるヘボンは一時期、近くの宗興寺(そうこうじ、写真②)を施療所として使用していた。

神奈川宿の名称は、「神奈川」県や「神奈川」区の名称の由来となる。成仏寺あたりが神奈川宿の中心地であった。また神奈川沖の海は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)にも描かれている。

<写真>① 成仏寺
⇓右の石碑に「浄土宗成佛寺」、左の石碑に「外国宣教師宿舎跡」と書かれている
成仏寺遠景3
成仏寺近景2
<写真>② 宗興寺(そうこうじ)
宗興寺
⇓石碑の中央に「ヘボン博士施療所」と書かれている
宗興寺ヘボン
<写真>③ 東海道かわさき宿交流館
⇓「『東海道かわさき宿交流館』は、東海道川崎宿の歴史や文化を学び、それを後世に伝えていくための施設」(交流館のパンフレットより)。JR川崎駅より徒歩10分。東海道を日本橋から京に上ると、品川宿・川崎宿・神奈川宿・保土谷宿と旅することになる。
東海道かわさき宿交流館
<写真>④ 旧東海道
⇓江戸時代に川崎宿を通っていた旧東海道。「かわさき宿交流館」近く。
旧東海道
<地図>
成仏寺(横浜市神奈川区神奈川本町)、宗興寺(横浜市神奈川区幸ヶ谷)
横浜市神奈川区神奈川本町

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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