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「泳げ鯉のぼり相模川」

 鯉のぼりの「祭り」(泳げ鯉のぼり相模川)が、神奈川県相模原市を流れる相模川の高田橋近く(上流側)で開催されていた。JR横浜線相模原駅から「水郷田名(たな)」行きバス(相17系統)に乗り、終点で下車。ふだんなら駅から終点までバスで25分くらいだが、この祭りの期間中は車が多く、相当渋滞する。終点の「水郷田名」バス停から会場までは徒歩5分くらい。
 「相模川の両岸に4本のワイヤーを渡し、約1000匹の鯉のぼりを泳がせて」いる(相模原市観光協会)。河原には多くの屋台が出店し、家族連れで賑わっていた。
<写真>
相模川鯉のぼり2019050501
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相模川芝ざくらまつり(神奈川県相模原市)

 JR中央線八王子駅からJR横浜線を経由して、JR相模線相模台下駅で下車。相模川方面へ15分ほど歩くと、「芝ざくらライン」に到着。
 「相模川左岸の堤防にある通称『芝ざくらライン』は相模川の環境保護のために地元の老人会や自治会、地元企業の資機材提供、そして市民の奉仕活動など多数の協力を得て植栽されたもので、約1400メートルと日本一の長さを誇」る(相模原市観光協会HP)。
 まだ桜の花が咲く芝桜ラインに沿って散策。さらに北へ歩き、JR相模線下溝駅から帰途につく。
<写真>
⇓相模川芝桜ライン
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相模川芝桜ライン2019041802
相模川芝桜ライン2019041803
⇓芝桜と桜
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⇓相模川
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吾妻山公園(神奈川県二宮町)

 神奈川県二宮町にある吾妻山(あずまやま)公園を訪れた。
 JR東海道線二宮駅を降りて数分で登山口(役場口)に至る。ここから20分ほど歩くと山頂(136.2m)。山頂には吾妻山公園があり、菜の花が満開であった。この公園の「中央にある小高い展望台からは、周囲360度の眺望を楽しむことができ、富士山の裾野まで望める。北に丹沢山塊、西から南にかけては富士山、箱根連峰、伊豆半島が連なり、水平線上には大島が浮かび、東には江の島、三浦半島のほか、晴れた日には、房総半島まで見渡せ」るという(「湘南にのみやガイドマップ」より)。
<写真>
⇓遠くに見えるのは(神奈川県二宮町から見た)富士山
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吾妻山2019021102
⇓湾は相模湾、湾の奥は(手前)真鶴岬、(更に岬の向こうに)伊豆半島
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吾妻山2019021104
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吾妻山2019021106
⇓手前の公園は吾妻山公園
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「原始林の中の日本人」

<写真>
①海外移住資料館(JICA横浜)
海外移住資料館2018101801
⇓数か所のみ写真撮影が許可されている。遠景写真は自由
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海外移住資料館2018101804
②JICA横浜交差点のサークルウォーク 
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③「ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル」
⇓「ヨットの帆を思わせる」ホテル。手前の橋は国際橋、その向こうに横浜港。
海外移住資料館2018101805
 私は1970年代の後半に、若槻泰雄著『原始林の中の日本人 南米移住地のその後』(1973年)を読んだことがある。この著書に衝撃を受けた私は、自分のまわりの人たちに、「こと」の深刻さを伝えていた記憶がある。そして今も、この「こと」をできるだけ多くの人に知ってもらいたい。

 筆者の若槻泰雄氏は、1954年(昭和29年)に設立されたばかりの海外協会連合会(現、国際協力機構=JICA)に勤め、移民の送り出しや、現地における移民援護などの仕事に携わっていた。その年の12月末に神戸を出港した「ぶらじる丸」に乗船し、翌1955年1月にアマゾンに入植する400人の人たちとともにブラジルのベレン港に入港した。さらにパラグアイの移住地にも移民の人たちを引率。それから数年後、ボリビアのサンファンで3年間、入植者たちと生活を共にする(注①)。1963年に退職(注②)。その10年後の1973年に、本書『原始林の中の日本人 南米移住地のその後』を著した。

 この本の帯には次のように記されている。
 「新天地に人生の夢を託し南米へ渡った移民は戦後約6万人。だがその現実はどうだったか。荒れ果てた土地、みつからない適作物、あまりにも遠い市場。現在、約1万人の人が原始林の中にとり残されている。自殺した人、土人化した人(注③)――それは海の向こうに棄てられた民である。著者はアマゾン奥地からパラグアイ、ボリビアにまで分け入り、これらの人々のなまな声を克明に収録した。本書は戦後移民二十年目の一つの決算書である。」

 さらに本文から引用しよう。
 移民たちは、「自国の政府が調査も研究もほとんど行うことなく、……自分たちを外国の辺境に送りこもうなどとは夢にも考えなかったであろう。原始林のなかに一本の道路もつけないで、または何を植えていいかも分からないのに、移住を奨励するなどとは考え及ばなかったに違いない。」入植地には、学校も病院もないところがある。「アマゾンでは医者一人当りの人口は、56661人(1960年)で、……これを面積でいうと、日本全体の広さに医者が36人しかいないことになる。」入植地での開拓を断念して都会へ移るにしても、手持ちの資金を使い果たしてしまった人たちはどうすればよいのか。道路も通じていない入植地が多く、広大なアマゾンの原始林では船や飛行機に乗らないと移動できない。教育を受けられず、ポルトガル語(またはスペイン語)も日本語も満足でない子どもたちは、両親が亡くなれば「原始林」に消えていくしかなかった。「原始林の中で同化するということは土人化するということと同じ」である(注③)。
 「若干の例外があるにしても(注④)、……大部分の人びとが、貧窮にあえぎ困苦に悩むとき、そこに入植させた者の責任が問われるのは当然のことであろう。」もし政府が彼らにじゅうぶんな対応をしていないとすれば、「原始時代さながらの生活を送っている日本移民」たちが、自らの国に「棄てられた」と考えても仕方ないであろう(注⑤)。以上、資料①より。
 
 南米移民は、「日本政府が奨励・支援した『国策移民』」であった(資料③)。ところで若槻氏は、移民を南米に「送り出す側」の人間であった。だからこそ、若槻氏はこの本を著して政府を告発したかったのであろう。しかし、政府はどうして「原始林」に移民を送り込んだのか。また移民たちはなぜ「原始林」に入植してしまったのか。
 受け入れ国政府は、戦前から続く日本人排斥や、連合国として日本と戦ったという事情から、自国民と接触のない「原始林」が国内開発のためにも好都合だったのだろう。日本国内では「人口過剰、農村救済」というが、南米移民が本格化する1955年頃には高度経済成長が始まっていた。それなのになぜ、世界の最貧国(注⑥)の、さらに現地人も行かない「原始林」に送り込む必要があったのか。そして、なぜ送り続けたのか。これには、当時の日本の政治状況も関係があるようだ(注⑦)。

 政府は戦後、北海道にも開拓民を送り出していた。そして南米の入植地と同じような「こと」がおきていることを、私は北海道の開拓に関する本を読んで知った。日本国内でも、同様の悲劇がほぼ同時期に繰り広げられていたことになる。政府の責任は重大である。人の人生、ときには命にも関わることなのだから(注⑧)。「自国民をこのような条件の下に移住させた国の政府というものは、世界の如何なる国の政府よりも無知にして非情な政府である」と、若槻氏は綴っている(資料②)。少なくとも、もっと正確な「現地の情報」が得られていれば、南米へ渡る日本移民はずっと少なかったに違いない(注⑨)。

<おもな資料(1)>
①若槻泰雄『原始林の中の日本人 南米移住地のその後』1973年
②若槻泰雄『外務省が消した日本人 南米移民の半世紀』2001年
③遠藤十亜希(とあけ)『南米「棄民」政策の実像』2016年
 著者は、新聞のインタビューで、「日系人の功績」を知って欲しいと述べると同時に、「日本政府の移民政策は『棄民』のそしりを免れないと語る。『地上の楽園』と勧めて送り出した国民の多くに『生き地獄』を体験させたからだ」という(注⑩)。(朝日新聞、2016年7月24日、「著者に会いたい」より)。著者は、「戦前・戦後の日本の移民政策は『単なる』棄民政策ではなかったと考えている」。どういう意味かは、本書の第9章、第10章を読んで欲しい。ただ、日本国内の事情がどうであれ、「原始林」の中をさまよったあげく、日本への帰国がかなわなかった日本人たちは、故国に「棄てられた」と思っていたに違いない。

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根岸森林公園 海外移住資料館

   ほぼ1年ぶりになるが、横浜を訪れた。JR根岸線山手駅で下車し、根岸森林公園へ。公園内を散策したあと、「ドルフィン」の前を通り、JR根岸駅へ。「ドルフィン」は、ユーミンの曲「海を見ていた午後」の歌詞に出てくるカフェ&レストラン。「山手のドルフィンは 静かなレストラン 晴れた午後には 遠く三浦岬も見える……」(荒井由実作詞)。今回は次の目的地へ行くため立ち寄らず。
 JR根岸駅からJR横浜駅行きのバスに乗り、中区にあるバス停「本町四丁目」(神奈川県庁近く)で降りる。ここから海(新港埠頭方面)に向かって歩き、日本郵船歴史博物館と海外移住資料館(JICA横浜の建物内)を訪れる。帰りは、横浜ランドマークタワー近くの、みなとみらい線みなとみらい駅から帰途につく。

<写真>
①根岸森林公園
⇓インフォメーション&カフェ
根岸2018100901
⇓競馬場の「馬場」(コース)だったところか?
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⇓「旧一等馬見所(うまみしょ)」(スタンド)。ここからレースを見た。コース(馬場)は反対側。貴賓室もあった
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②カフェ&レストラン「ドルフィン」
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③日本郵船歴史博物館
⇓館内は写真を撮れない
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④横浜コスモワールド
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⑤横浜ランドマークタワー
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⇓ランドマークプラザ
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横浜2018100910
①根岸森林公園
 根岸森林公園は、横浜市中区根岸の丘の上にあり、「日本初の西洋式競馬場跡地から生まれた公園」。幕末、「横浜開港にともない、外国人居留地ができると、……外国人のための競馬場」が1866年(慶応2年)に設置された。当初の名称は根岸競馬場。1937年(昭和12年)に横浜競馬場と改称された。「横浜競馬場の遺構として唯一現存する一等馬見所(うまみしょ)<1929年竣工>」は現在、「侵入防止のために設けられたフェンスに囲まれたままであり、具体的な修理・保存は計画されていない」という。以上は、根岸森林公園Webサイト、同パンフレット、Wikipedia「横浜競馬場」を参照した。

②海外移住資料館
 「国際協力機構(JICA)横浜」内にある資料館。みなとみらい線馬車道駅から徒歩約8分。近くには赤レンガパークがある。「日本の海外移住の歴史および移住者と日系人の現在の姿を多くの人びとに知って」もらうために設置されたという。展示は、「機構が戦後、主に中南米への移住事業の一翼を担ったことから、中南米と、それに先行するハワイを含む北米を主たる対象とし」ている(資料館のパンフレットより)。しかし、移住者たちの「艱難辛苦」については何ら触れられていない。