ヘボンの足跡

写真①は、ヘボンが横浜山手時代に住んでいた「山手245番」の跡地。ヘボンはここでも聖書の共同翻訳事業に取り組み、完成までに「個人訳時代から数えれば20数年の歳月」を要した(注1)。また一時期、明治学院の職務についたり、指路(しろ)教会(写真②)の建設のため奔走したりした。1892年(明治25年)に指路教会が完成すると、ヘボン夫妻はアメリカ帰国を決意。翌1893年(明治26年)に帰国。ニュージャージー州イースト=オレンジで晩年を過ごした。ヘボン夫人は1906年(明治39年)に永眠、ヘボンは1911年(明治44年)に96歳で永眠した(注2)。

<写真①>ヘボンが横浜山手時代に住んでいた「山手245番」の跡地
ヘボン山手居住地跡1
ヘボン山手居住地跡2
<写真②>指路教会
⇓ 指路教会は横浜市中区尾上町6-85にある。最寄駅はJR関内駅など。
指路教会1
指路教会2
<写真③>横浜山手111番館
⇓ 1926年(大正15)年、アメリカ人ラフィン氏の住宅として建設された。木造2階建(地下1階)だが、1階に吹き抜けのホールがあり、海への見晴らしも良い。私のお気に入りの西洋館。
山手111番館1
横浜山手居留地2
<写真④>横浜外国人墓地正門
横浜外国人墓地
<地図>横浜山手地区
横浜山手居留地

(注1)「日本語訳聖書」(Wikipedia)。望月洋子著『ヘボンの生涯と日本語』に詳しい。
(注2)高谷道雄著『ヘボン』より
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ヘボンの顕彰碑 山下公園など

写真①は、ヘボン邸跡に設置されたヘボンの顕彰碑と解説板。ヘボンは、横浜居留地時代「居留地39番」に住んでいた。1862年(文久2年)、この39番の土地を買い入れ、移転。住居、施療所、礼拝堂兼教室などを設ける。ヘボンはこの施療所で「貧富・上下、武士・町人の差別なく、無料で診療・手術・施薬」を行う。またここで『和英語林集成』の編纂を行い、出版した(初版は1866年=慶応2年)。ヘボン夫人が中心となり、多くの日本人に英語などを教える(ヘボン塾)。高橋是清など多くの日本人が学び、この塾はやがて明治学院やフェリス女学院の「源流」となった。

<写真①>ヘボンの顕彰碑と解説板(横浜地方合同庁舎前の緑地)
ヘボンの顕彰碑と解説板
<写真②>ヘボン邸(居留地39番地)
居留地39番
⇑上の写真はみなとみらい線元町・中華街駅の構内で(タイルを)撮影。山下公園の完成は昭和5年(1930年)なので、グランドホテル前は海岸であった。これとほぼ同じ位置で撮られた写真はここ「横浜グランドホテル全景

<写真③>横浜中華街(東門)
横浜中華街
<写真④>山下公園
山下公園1
山下公園2
<写真⑤>日本郵船氷川丸(博物館船)
氷川丸
<地図>居留地39番(横浜居留地)にあったヘボン邸
ヘボン邸 横浜居住地39番地

ヘボン 成仏寺 宗興寺

写真①は、ヘボン夫妻が日本で最初に住んだ成仏寺(じょうぶつじ)。
(ヘボン式ローマ字で知られる)ヘボン夫妻は1859年(安政6年)、横浜に上陸、成仏寺の本堂を借りて住んでいた。ヘボン45歳のときで、その半年後に井伊直弼(いいなおすけ)が江戸城桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。1862年(文久2年)の生麦事件のさい、ヘボンは負傷したイギリス人を治療したという。この頃、横浜には外人住宅が少なく、東海道神奈川宿(現横浜市神奈川区)の、この寺に住むことになる。ヘボンはここで日本語の研究、和英辞書の編纂にとりかかった。また、医師でもあるヘボンは一時期、近くの宗興寺(そうこうじ、写真②)を施療所として使用していた。

神奈川宿の名称は、「神奈川」県や「神奈川」区の名称の由来となる。成仏寺あたりが神奈川宿の中心地であった。また神奈川沖の海は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)にも描かれている。

<写真>① 成仏寺
⇓右の石碑に「浄土宗成佛寺」、左の石碑に「外国宣教師宿舎跡」と書かれている
成仏寺遠景3
成仏寺近景2
<写真>② 宗興寺(そうこうじ)
宗興寺
⇓石碑の中央に「ヘボン博士施療所」と書かれている
宗興寺ヘボン
<写真>③ 東海道かわさき宿交流館
⇓「『東海道かわさき宿交流館』は、東海道川崎宿の歴史や文化を学び、それを後世に伝えていくための施設」(交流館のパンフレットより)。JR川崎駅より徒歩10分。東海道を日本橋から京に上ると、品川宿・川崎宿・神奈川宿・保土谷宿と旅することになる。
東海道かわさき宿交流館
<写真>④ 旧東海道
⇓江戸時代に川崎宿を通っていた旧東海道。「かわさき宿交流館」近く。
旧東海道
<地図>
成仏寺(横浜市神奈川区神奈川本町)、宗興寺(横浜市神奈川区幸ヶ谷)
横浜市神奈川区神奈川本町

横浜 山手西洋館

1.横浜山手西洋館
幕末、日本の開国にともない横浜村(東海道から外れた、わずか80数戸の寒村)に外国人が暮らすための居留地が設けられた。JR根岸線関内駅より海側(現在の山下町など)に相当する。その後、この地が手狭になったので山手地区(現在の山手町など)にも外国人居留地が造られた。この地区の、山手本通りという一本の通りに多くの西洋館が建てられる。現在まで残る建物は関東大震災後のもので、第二次世界大戦中に空襲を受けなかったため、横浜山手地区に歴史的な建造物が多数残された。なお、全国各地の居留地は、通商条約改正(1894年)の実施(1899年)にともない、いっせいに返還された。これ以降、外国人は「内地雑居」が認められ、旅行の制限も解除された。

2.横浜山手地区散策
JR根岸線石川町駅で下車。山手イタリア山庭園へ向かう。明治時代、この地にイタリア領事館が置かれたため、イタリア山と呼ばれている。この庭園に、1993年にブラフ18番館(カトリック山手教会の司祭館、写真①)、1997年に「外交官の家」(写真②)が移築された。この庭園を出て、山手本通りを北へ向かう。カトリック山手教会、ベーリック・ホール(旧ベーリック邸、写真③)、エリスマン邸(写真④)、山手234番館(外国人用の集合住宅)などを経て外国人墓地へ至る。外国人墓地資料館は埋葬者の業績を紹介する資料を展示。墓地内は非公開(公開される日もあるが、確認が必要)。さらに北へ向かうと港の見える丘公園へ。ここには横浜市イギリス館(旧イギリス総領事公邸)と山手111番館(アメリカ人実業家邸宅)などがある。展望台からは横浜港、ベイブリッジ(写真⑤)などを見下ろすことができる。ここからみなとみらい線元町・中華街駅へ。元町通りを経てJR石川町駅へ戻る。元町通りにある商店街は150年以上の歴史をもつ。横浜開港にともない横浜村に住んでいた住民が現在の元町(山手の麓)に移住。明治にはいると、山手と山下の両居留地に住む外国人向けの商店街として栄えるようになった。

<参考>
横浜山手西洋館マップ」(公益財団法人横浜市緑の協会の公式サイト)はダウンロード可能。
『神奈川県の歴史散歩(上)』(山川出版社、歴史散歩14)

<写真>
①ブラフ18番館(カトリック山手教会の司祭館)
ブラフ18番館
②山手イタリア山庭園にある「外交官の家」(もと明治政府外交官の家)
外交官の家2
③ベーリック・ホール(旧ベーリック邸)
ベーリック・ホールa
④エリスマン邸(エリスマンは、スイス生まれの、生糸貿易商社の横浜支配人)
エリスマン邸B
⑤港の見える丘公園から見たベイブリッジ
港の見える丘公園 ベイブリッジ

横浜開港 横浜三塔

1.横浜開港の歴史
①欧米の日本進出
欧米では市民革命を経て、18世紀後半から19世紀にかけて産業革命が進展した。大量生産による安価な商品市場と原料資源の獲得を国外に求めてアジアに進出。こうして欧米列強による植民地獲得競争が始まった。1853年(嘉永6年)6月、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀沖(神奈川県)に来航し、日本に開国を迫った。幕府は久里浜(同県)でアメリカ合衆国大統領フィルモアの国書を受け取り、幕府老中阿部正弘は来春の回答を約束。ところで、ペリーの来航により突然日本が開国を迫られたのではない。それ以前の18世紀後半から外国船が相次いで日本に来航し、開国や通商を求めていた。たとえば1792年(寛政4年)にロシアのラックスマンが、1804年(文化元年)に同じくロシアのレザノフが、漂流民を護送し、通商を求めた。1846年(弘化3年)、アメリカの東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に入港し、開国などを求めた。7年後、ペリーはビッドルの失敗をじゅうぶん研究し、日本に開国をせまった。
②横浜開港
1854年(安政元年)1月、ペリーは7隻の軍艦を率いて再び来航。神奈川(東海道の宿場町・港町)沖に投錨し、開国をせまった。幕府は西神奈川の横浜村(当時は半農半漁の寒村)で交渉し、ついに同年3月、日米和親条約(神奈川条約)を調印。下田(伊豆半島南端)、箱館(のちの函館)の2港を開港し、領事館を下田に設置することなどを取り決めた。同様な条約をロシア、イギリス、オランダとも結んだ。1856年(安政3年)、アメリカ総領事ハリスが下田に領事館を開き、通商条約の締結を求めた。1858年(安政5年)6月、大老井伊直弼は勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を得られないまま日米修好通商条約を締結。このとき、下田・箱館のほか、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港(翌年、神奈川ではなく東海道から離れた横浜を開港、下田は閉港)。さらにオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも修好通商条約を結んだので、安政の五か国条約と総称している。

2.横浜三塔 横浜開港資料館 
横浜市の関内(注)地区には歴史的建造物がたくさんある。とくに横浜三塔(写真上①②③)は有名。横浜市開港記念会館(同「ジャックの塔」、1917年竣工)、神奈川県庁(愛称「キングの塔」、1928年竣工)、横浜税関(同「クイーンの塔」、1934年竣工)の建造物をいう。みなとみらい線日本大通り駅を下車するとすぐ横浜市開港記念会館(現在も公会堂として利用されている)。ついで神奈川県庁、横浜税関へ。横浜三塔の見学を終えると、開港広場(写真中)へ。ここでペリーと幕府との間で日米和親条約が締結された。この広場の隣に、横浜開港資料館(写真下)がある。新館の「展示室1」では、「ペリー来航とその前後の世界情勢や日本、そして横浜のようすを紹介」。同じく「展示室2」では、『横濱毎日新聞』(日本最初の日刊紙)など、「横浜~もののはじめ」などが紹介されている。さらに「企画展示室」では「江戸時代から大正・昭和初期までの横浜の歴史に関わる人物や出来事などに焦点をあて、年4回の企画展示を開催して」いる(資料館のパンフレットより)。なお、旧館は旧イギリス総領事館。有名な「ペリー提督の横浜上陸」図(ハイネ画)に描かれているタブノキ、通称「玉楠の木」(たまくすのき)は、現在でもこの資料館の中庭に存在する(関東大震災で焼失、その後根元より再生)。日米和親条約が結ばれたこの地で当時のことに思いをはせるのもよい。
(注)関内(かんない)…安政6年(1859年)、開港にともない横浜村に外国人居留地が造られる。この「居留地へ通じる橋のたもとに人々の出入りを監視するための関所が設けられた。この関所の内側という意味で『関内』と呼ぶようになった」(横浜開港資料館編『横浜・歴史の街角』)。「関内」という住所表示はなく、行政上の町名では横浜市中区の、港町・尾上町・本町・山下町など、JR根岸線関内駅から海側の地域。伊勢佐木町側は「関外」という。

<写真上>横浜三塔①横浜市開港記念会館、愛称「ジャック」
「ジャック」横浜市開港記念会館
<写真上>横浜三塔②神奈川県庁、愛称「キング」
「キング」神奈川県庁
<写真上>横浜三塔③横浜税関、愛称「クィーン」
「クィーン」横浜税関
<写真中>開港広場
球体には「日米和親条約調印の地」と書かれている。この広場の右側に横浜開港資料館がある。
日米開港の地
<写真下>横浜開港資料館(正面玄関)
中庭に「玉楠の木」(たまくすのき)が見えている。この近くで日米和親条約が結ばれた。
横浜開港資料館正面玄関
<地図>横浜三塔、開港広場
横浜三塔、開港広場

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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