野火止用水 多摩

野火止用水を訪れるため、西武拝島線玉川上水駅から西武多摩湖線八坂駅まで、およそ2時間半かけて散策した。玉川上水駅を下車するとすぐ目の前が玉川上水。東大和市駅方面に向かってしばらく歩くと、玉川上水と野火止用水の分岐点へ至る(注①)。ここから遊歩道(野火止用水緑道)を歩き東大和市駅へ。さらに歩くと野火止緑地公園。ここに放流口があり、水路の幅が広くなる。この公園には雑木林が広がり、散歩に訪れる人も多い。野火止橋の少し先の「ふれあい橋」付近が一番よく野火止用水を観察できる。「こなら橋」を経由して最終地点の八坂駅まで歩く(注②)。野火止用水は埼玉県志木市の新河岸川(しんがしがわ)へ注ぐが、全域の詳細は「川のプロムナード 野火止用水」(資料①)を読んで欲しい。
 武蔵国多摩郡岸村(現武蔵村山市)の小川九郎兵衛(くろべえ)は、「川越藩主で老中の松平信綱から、西は玉川上水と野火止用水の分岐点より、東は田無方面へ開発するように指示され……<小川村の>開発に着手した。」(資料②)小川村の開拓に尽力した九郎兵衛は、「岸村の禅昌寺(ぜんしょうじ)に葬られたが、後に孫の弥一によって分骨され、小川名主家の菩提寺である……醫王山小川寺(いおうさんしょうせんじ、写真⑤)に……墓が造られ」た。(小平市教育委員会、写真⑥)
玉川上水や野火止用水などの散歩マップ「小平グリーンロード&オープンガーデン」は「小平ふるさと村」でもらうことができる。この「ふるさと村」では「開拓当初の復元住居」などを見学できる。

<写真>
①玉川上水取水口(羽村市)
⇓右側が取水口(第一水門)
玉川上水取水口
②東京都水道局小平監視所
⇓この監視所の役割は「上流から流れてくる落ち葉や枯れ枝などを除塵機(じょじんき)で取り除き、また、沈砂池(ちんさち)で砂を沈めてゴミや砂のない水をコンクリート管を利用して東村山浄水場に送ること」にある(小平監視所前にある案内版より)。
東京都水道局小平監視所
③野火止緑地公園
⇓右側の柵の下が野火止用水
野火止緑地公園
④ふれあい橋
ふれあい橋
⇓ふれあい橋から
ふれあい橋から見た野火止用水
⑤小川寺(しょうせんじ)
⇓正面の建物は本堂
小川寺
⑥小川九郎兵衛の墓
⇓掲示板の写真は禅昌寺(ぜんしょうじ、武蔵村山市)。掲示板そのものは小川寺(しょうせんじ、小平市)にある。
小川九郎兵衛の墓
<注>
①東京都水道局小平監視所の少し先で分岐する。ただ野火止用水は東大和市駅の少し先まで暗渠(あんきょ、地下水路)になっている。暗渠の上は野火止用水緑道として整備されている。
②明治学院東村山高校のあたりから再び暗渠となる。

<地図>
⇓野火止用水(玉川上水駅~東大和市駅~八坂駅方面)
野火止用水地図201802
<資料>
①「野火止用水」(川のプロムナード 河川や用水・川跡のお散歩ガイド)
②小平市教育委員会『郷土こだいら』(1978年)
③安富六郎著『武蔵野・江戸を潤した多摩川: 多摩川・上水徒歩思考』(2015年)
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新田開発(2)野火止用水 武蔵野新田 多摩

1.野火止用水
 「野火止用水は、(東京都)立川市(幸町)を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川(しんがしがわ)に至る全長約24kmの用水路……。徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可」した。この工事の総奉行は老中松平信綱で、「同年11月に完成し、翌年6月には江戸市中の主な配管工事を終えたとされている」(資料①)。さらに松平信綱は、「関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内(注①)の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水(注②)」を開通させた。(資料②)
「(玉川)上水完成の翌年に野火止用水への分水、ついで小川、砂川、国分寺分水などが開かれ江戸後期には分水の数は30を超え」る。「羽村で取水(注③)された水量の約半分は途中の村々に分水として流されて、飲み水や田用水として」使われた。(資料③)

<注>
①武蔵国川越藩。松平家(初代が信綱)のあと、柳沢吉保(よしやす)が川越藩主となった。松平家の頃の藩領は武蔵・上野(こうずけ)・相模三カ国を中心に各地に分散していた。
②野火止用水が通過する自治体は、立川市、小平市、東大和市、東村山市、東久留米市、清瀬市(以上東京都)、新座市、朝霞市、志木市(以上埼玉県)。
③東京都羽村市に玉川上水の取水口がある(東京都水道局羽村取水所、羽村堰)。水源は多摩川。「今でも東京都水道局の水道源導水路として活用され、請願院橋<西武拝島線玉川上水駅南側>付近から毎秒8m3の水を地下の送水管により、1924(大正13)年に完成した村山貯水池<東京都東大和市>へ送っている。」(資料は①)。

<資料>
①「江戸時代の上水施設『玉川上水』」(建設コンサルタント協会誌242号より、PDF)玉川上水の「工事が難航した」様子も詳しく書かれている。
②小平市「野火止用水の歴史」(Webサイト)
③小平市「玉川上水の歴史」(Webサイト)

2.武蔵野の新田開発
 大石学著『地名で読む江戸の町』によると、「かつて原野であった武蔵野新田」は下記のように3つの時期を経て開発されたという。なお、新「田」といっても、水の乏しい武蔵野台地の場合は「畑作」新田。
①江戸時代初期……古村の成立
「新町村(青梅市)、大岱<おんた>村(東村山市)、豊田新田(日野市)、砂川新田(立川市)、矢ヶ崎村(調布市)など江戸時代初期の土豪(注④)の開発」により古村が成立した。
②江戸前期(1624~1704)……古新田の成立
「小川村(小平市)、境<さかい>村(武蔵野市)、高井戸新田(杉並区)、西久保村(武蔵野市)など……土豪や移住民の開発」により、古新田(注⑤)が成立した。玉川上水や野火止用水が開削されたのはこの時期。深井戸によって水を得ていた三富新田もこの時期に開発された。
③享保改革期(1716~1745)……新田(新新田)の開発
享保改革期の新田開発は「幕府主導のもと、残された武蔵野の台地面を開発するもので、大岡忠相(ただすけ)が検地奉行となり、武蔵野一帯で新田検地……を実施し、『新田八十二カ村』(注⑥)と呼ばれる新田村落が成立した」。(以上、資料④)なお享保期に武蔵野台地を中心に開発された新田の総称を武蔵野新田といい、それ以前に開発された新田を含めないのが普通。

 開発された土地の「主要な道路沿いに家が並び、家の後ろに防風林<屋敷林>や耕作地、秣場<まぐさば>(注⑦)が続いてい」た。地割りは短冊状の形をしており、「現在でも寛永年間<1624年~1645年>に開拓された五日市街道沿いの砂川村や、明暦年間<1655年から1658年>に開発された青梅街道沿いの小川村などにその形態が見られる」。(地図参照)
 「しかし、開発はすべて成功したわけでは」なく、「年貢の過負担や災害・凶作などで経営が成り立たずに破産したり、逃げ出す者も多くい」た。「これを『潰(つぶ)れ百姓』とい」い、武蔵野新田の「開発開始からわずか15年後の元文4年(1739)の段階で、武蔵野新田1327戸のうち1割以上の161戸が潰れ百姓となってい」る。
 「開発した土地も、耕作者が不在では荒れ野に戻ってしま」う。「これを防ぐために幕府は元の村に帰ってきた者に対して帰村料を出すという政策をと」った。「戸倉新田(注⑧)では、享保19年(1734)に潰れ百姓となった佐五右衛門が11年後の延享2年(1745)に帰村した時には、金3両が支払われてい」る。「武蔵野新田の開発が本格的に始まったのは、……享保9年(1724)から」だが、関東ローム層の土質で水の乏しい武蔵野台地の開発はそう容易ではなかったに違いない。(以上、資料⑤)

<注>
④土豪……ある「土」地を支配する「豪」族。数郡を支配する大勢力の「豪族」に対し、独立した在地の数村を支配する小規模の豪族を「土豪」という。
⑤古新田……「新田開発が大々的に行われたのは、将軍吉宗の享保11年(1726)に新田検地条目が出されてからで、これ以前の元禄ころから開発されたものについては、古新田の名で呼ばれる」(藤岡謙二郎著『日本の地名』1974年)
⑥「(武蔵野)新田八十二カ村」とは、多摩郡・入間郡(いるまぐん)・高麗郡(こまぐん)・新座郡にあった農村こと。
⑦秣(まぐさ)とは馬や牛の飼料となる草(馬草とも表記される)。秣場は秣を刈り取る草地。
⑧戸倉新田……東京都国分寺市にあった戸倉新田は「五日市町(現あきる野市)戸倉を親村とする新田」であった。「戸倉」新田の名称は「開発名主郷左ヱ門の出身地名<戸倉>を冠したにすぎない」。ところが戸倉新田の出百姓(他村から入ってきた百姓)の大部分は、その親村の「戸倉よりもずっと谷の奥の、檜原村(ひのはらむら)」の、さらに「山奥の“沢又”」であった。(資料⑥)なお、1995年に秋川市と五日市町が合併、あきる野市が発足。日の出村(現日の出町)と檜原村は参加せず。

<資料>
④大石学著『地名で読む江戸の町』(2001年)
⑤江戸東京たてもの園『大岡越前守と武蔵野新田の開発』(2002年)
⑥片山迪夫著『戸倉新田と出百姓』(1959年)
⑦玉川上水ワンポイントガイドNo.4「玉川上水と小平周辺の新田開発」(発行は「小平・玉川上水再々発見の会」)
⑧小平市教育委員会『郷土こだいら』(1978年)
⑨時空散歩「玉川上水散歩そのⅣ:玉川上水駅から千川用水との分岐・境橋まで
⑩菊地利夫著『続・新田開発/事例編』(1986年)……武蔵野新田の開発について詳しく述べられている。

<地図>
⇓野火止用水(上記資料⑤『大岡越前守と武蔵野新田の開発』より)
野火止用水地図東大和~小平
※注記の追加により一部改変。

冬の公園(1) 都立野川公園

「野川公園の前身は、国際基督教大学のゴルフ場で……昭和49年<1974年>からゴルフ場を<東京都が>買収……。」その周辺の神代植物公園、武蔵野公園などを含めて造成が行われ、昭和55年(1980年)に開園した。野川「公園は、調布、小金井、三鷹の三市にまたが」り、野川公園と武蔵野公園はともに「国分寺断崖(注)に接し、豊かな自然がのこされている……」。野川公園へは、西武多摩川線新小金井駅から徒歩で15分。三鷹駅などからバスで行くこともできる。車で行く場合、有料の駐車場もある。ただ野川公園と武蔵野公園の両方を散策する場合は、両公園のほぼ中間にある、武蔵野公園の駐車場(有料)を利用するのがよい。
資料は都立野川公園(「むさしのの都立公園」より)

<写真>
1.都立野川公園
⇓東八道路の南側
野川公園201801
野川公園南側201801-2
⇓東八道路の北側(橋の下は野川)
野川公園201803
⇓野川公園の自然観察園、国分寺崖線のすぐ下
野川公園4
2.都立武蔵野公園
⇓野川の北側、国分寺崖線のすぐ下
武蔵野公園02
⇓写真右に野川が流れている(写真では見えない)。左に国分寺崖線が少し見えている
武蔵野公園201801
武蔵野公園201803
<注>
「国分寺断崖」の「断崖」とは河岸段丘の「段丘崖」のことで、段丘崖は森林、段丘面には畑地や集落が見られる。ここでは多摩川が武蔵野台地を侵食して段丘と断崖を形成した。東京都環境局のWebサイトには、立川崖線と国分寺崖線について詳しく書かれている。「立川崖線と国分寺崖線は、古代多摩川が南へと流れを変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた、河岸段丘の連なりである。崖線には湧水が多く、市街地の中の親水空間(※)として、また野鳥や小動物の生活空間として貴重な自然地となっている。
立川崖線はJR青梅線青梅駅付近から調布市と狛江市の市境あたりまで続いている、延長約40㎞の段丘崖である。下流ではほとんど高さがないが、上流部の立川付近では15m程度の高さとなっている。国分寺崖線は立川市砂川九番から始まり、東南に向かって野川に沿って延び、東急線双子玉川駅付近で多摩川の岸辺に近づいて、以後多摩川に沿って大田区の田園調布付近まで続いている。延長は約30㎞で、上流の立川ではほとんど高さがないが、都立府中病院<現都立多摩総合医療センター>付近では15mほどに高さを増し、世田谷区の成城学園から下流では20mを超える高さとなる。」(東京都環境局「28 立川崖線・29 国分寺崖線」より)
(※)親水空間…整備された川辺の遊歩道などで、水や川に対する親しみを深める場所。

晩秋の公園(3)

東京都の紅葉の見ごろは例年、(11月下旬から)12月初旬である。以下の写真は11月29日と12月3日に撮影した。
1.都立井の頭恩賜公園(東京都武蔵野市)
井の頭恩賜公園は、「日本で最初の郊外公園で、大正6年<1917年>5月1日に開園し、平成29年<2017年>5月1日には開園100周年を迎え」た。「園内は、井の頭池とその周辺、雑木林と自然文化園がある御殿山、そして運動施設のある西園と、西園の南東にある第二公園の4区域に分かれてい」る。「井の頭池は神田川の水源で、江戸時代は神田上水として江戸の人々の飲み水で」あった。(東京都公園協会「井の頭恩賜公園」ホームページより)
井の頭公園1
井の頭公園2

2.都立武蔵野公園(東京都府中市)
都立多磨霊園の北東、府中運転免許場の東に位置し、公園内には野川が流れている。「野川に沿って残る草原や雑木林を配した、野趣に富んだ公園。東京都の各公園や街路に植える苗木を育てる苗圃(びょうほ)をもち、散歩しながら木々の育成の様子を観察することができ」る。東隣りには都立野川公園がある。「野川公園の前身は、国際基督教大学のゴルフ場で」、「昭和49年<1974年>からゴルフ場を買収し、その周辺の神代植物公園、武蔵野公園、多磨霊園、調布飛行場、浅間山公園、府中の森公園などの緑地を含め『武蔵野の森構想』のもとに造成を行い、昭和55年<1980年>6月に開園」された。(「むさしのの都立公園」ホームページより)
武蔵野公園1
武蔵野公園2
武蔵野公園3

晩秋の公園(1)

1.都立小金井公園(東京都小金井市)
JR中央線武蔵小金井駅か東小金井駅からバスでおよそ30分。西武新宿線を利用する場合は花小金井駅で下車しバスで25分くらい。公園駐車場はあるが有料。東京都公園協会のWebサイトには次のように書かれている。「玉川上水沿いに位置した、面積約80ヘクタール(日比谷公園の4.9倍、上野公園の1.5倍)の広大な公園です。この公園は広々とした草地、それを取り巻く雑木林、桜の園、子どもの広場、弓道場、SL(C57)展示、16面のテニスコートと内容豊かな公園です。」また、公園内には江戸東京博物館の分館である「江戸東京たてもの園」もある。
小金井公園11月1
小金井公園11月2
小金井公園11月3
2.市立多摩中央公園(東京都多摩市)
小田急多摩線か京王相模原線、または多摩モノレールの各多摩センター駅で下車。車で行く場合は専用駐車場がないので、多摩センター地区共同駐車場などを利用する。駅から歩いて5分。パルテノン大通り(歩行者専用道路)の突き当たりにあるパルテノン多摩(多目的ホール)の大階段を登ると「きらめきの池」がある。さらに歩くと、大きな池と芝生の広場(くつろぎ広場)があり、ピクニックを楽しむことができる。ただ遊具も売店もないので、必要なものは持参する。広い公園内には文化財として保護されている旧富沢家古民家住宅があり、見学できる(無料)。
①きらめきの池
多摩中央公園
②豊ヶ丘南公園(東京都多摩市)の近くで
豊ヶ丘南公園には小さな池があり、1周400mの散策路がある。多摩中央公園から歩いて20分くらい。下の写真は、ここから一本杉公園へ向かう途中で撮影。
豊ヶ丘南公園豊ヶ丘5丁目付近
3.国営昭和記念公園(東京都立川市)
JR中央線の西立川駅から徒歩2分またはJR立川駅から徒歩10分。公園駐車場は3か所あるが有料。東京ドームの約40倍の広さがあり、「昭和天皇陛下御在位五十年記念事業の一環として」建設された。
1968年、在日米空軍が利用していた立川飛行場の滑走路拡張を断念(注)。横田基地へ機能を移転し、1977年に米軍立川基地が日本に返還された。東京都立川市と昭島市にまたがる米軍施設(米軍立川基地)の跡地に国営昭和記念公園、立川広域防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地東部方面航空隊などが設けられた。なお、下の写真は2013年~2014年に撮影。
①花木園売店付近
昭和公園11月②
②水鳥の池
昭和公園11月①
(注)砂川事件……昭和32年(1957年)7月8日、「在日米軍が当時使用していた立川飛行場を拡張するための測量に反対する抗議行動が同基地周辺<東京都立川市砂川町>で行われた際に、デモ隊員の一部によって金網が破られ、そこから基地内に侵入した」事件(野中俊彦・江橋崇編著『憲法判例集第7版』より)。昭和34年(1959年)3月、東京地裁は被告人全員に無罪(伊達判決)を言い渡したが、同年12月に最高裁が原判決を破棄したため、全員の有罪が確定した(コトバンク「伊達判決」より)。なおこの裁判では、①憲法9条の解釈や②安保条約の合憲性なども争点となった。

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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