北山公園

東京都東村山市にある北山公園は、「狭山丘陵を背景にした自然公園で、新東京百景に選ばれてい」る。「豊かな水と緑に囲まれ、初夏には300種類8千株10万本の花菖蒲が咲き乱れ」るという。「毎年花菖蒲の開花する6月頃、……『東村山菖蒲まつり』が開催され」る。また、「夏には25品種のハス、秋には曼殊沙華などが見事な花を咲かせ」る。(東村山市「北山公園」より)

西武新宿線または西武国分寺線の東村山駅で下車。駅から徒歩20分くらい。土日にはシャトルバスを利用することもできる。公園には駐車場はない。民間の、有料の駐車場はあるが、駐車可能台数が少ないので、電車で行くのが無難。

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北山公園20180601
北山公園20180602
北山公園20180603
北山公園20180604
北山公園20180605
北山公園20180606
北山公園20180607
北山公園20180608
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「深大」寺と「神代」植物公園

深大(じんだい)寺は、東京都調布市深大寺元町にある仏教寺院で、天台宗別格本山。総本山は比叡山延暦寺(滋賀県大津市)。東京都立神代(じんだい)植物公園のあたりは、もともとこのお寺の領地であった。おなじ「じんだい」と呼びながら、漢字は「深大」と「神代」とで異なるのはなぜか。この違いを調べてみた。
 江戸時代、深大寺周辺は「深大寺村」と呼ばれていたが、明治22年(1889年)に、この深大寺村と佐須村などいくつかの村が合併して、神奈川県北多摩郡「神代村」となる(注①)。このことが紛らわしさの始まり。
 昭和27年(1952年)に「神代村」が町制施行して東京府北多摩郡「神代町」となり、さらに昭和30年(1955年)に調布市と神代町が合併して、現在の調布市が誕生する(神代町は廃止)。このとき住居表示の変更が行われ、「深大寺元町」「深大寺北町」「深大寺東町」「深大寺南町」の町名が用いられることになった(注②)。
 いっぽう東京府は昭和15年(1940年)、調布飛行場の周辺を防空緑地とするため買収し、「神代緑地」と名づける。当時は「神代村」であったから、当然の名称。戦後、昭和36年(1961年)、この跡地に植物園を開園する際、「神代緑地」の「神代」の名称を引きつぎ、「神代」植物公園となる。行政上の地名としては消滅したが、植物園や高校、郵便局などの名称として「神代」の名が残ることになった。
 なお、植物園の深大寺門近くの掲示板にも、「神代植物公園の名称の由来」が記されている。

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①都立神代植物公園
神代植物公園20180601
神代植物公園20180602
神代植物公園20180603
神代植物公園20180604
深大寺植物園20180605
②深大寺
深大寺20180606
深大寺20180607
深大寺20180608
③鬼太郎茶屋
⇓この茶屋は深大寺の参道にある。中央の若者3人は「中国」から来た人たち。もしかしたら香港・台湾・シンガポールからかもしれない。中国でも、「鬼太郎」のことは知られているだろうか、と考えてしまった。
鬼太郎茶屋20180609

<注>
①深大寺村と佐須村などが合併したとき、なぜ「神代」村となったのかは、調べてみたが分からなかった。ただ、ブログ「新訂 旅と歴史」(神代植物公園)には、次のような推測をしている。「このとき何故“神代”という漢字が使われたのかは分かりませんが、勝手な推測では、明治になって天皇親政の世となったことから天皇=現人神(あらひとがみ)といった意味合いからこの漢字が当て込まれた」のではないかと記されている。まさに「神代村」が誕生した年である明治22年(1889年)は、「大日本帝国憲法」が発布された年であった。その第三條には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス(侵すべからず)」と記されている。さらに調べてみると、同年の町村制施行にともない、千葉県や富山県などいくつかの県に「神代村」が発足している。ただし読みは「じんだい」とは限らない。(Wikipedia「神代村」)
②三鷹市にも「深大寺」の町名があり、深大寺1丁目から深大寺3丁目までが行政地名。もとは旧深大寺村の飛地。

塩船観音寺

塩船観音寺は東京都青梅市塩船にある「真言宗醍醐派の別格本山……。総本山は京都山科にある醍醐寺」。この寺は、「大悲山観音寺と称し、通称は塩船観音寺と呼ばれてい」る。開山は大化年間(西暦645~650年)(注①)。「奥多摩の山並みをを背にした静かな環境で、春のつつじ、初夏の紫陽花・山百合 秋の彼岸花・萩と四季の花々が詣でる人々を迎え」るという(注②)。
 塩船観音寺へ行くにはJRとバスを利用する。JR青梅線河辺(かべ)駅で下車し、西東京バスか都営バスに乗る。塩船観音寺入口で下車し、徒歩10分。河辺駅北口から歩くと40分ほどかかる。駐車場は広いが有料。

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塩船観音寺2018050201
塩船観音寺2018050203
塩船観音寺2018050202
塩船観音寺2018050204
塩船観音寺2018050206
<注>
注①「花と歴史の寺 真言宗醍醐派 別格本山塩船観音寺」のサイトより。地名の「塩船」の由来はこのサイトに記されている。
注②パンフレット「塩船観音のご案内」より

多摩森林科学園

多摩森林科学園は、「森林に関する研究機関」で、「森の科学館、樹林園、桜保存林を通年公開してい」る。「8ヘクタールの広さを持つサクラ保存林には、日本全国の主要なサクラの栽培品種や名木、天然記念物などの接ぎ木クローンが、約500栽培ライン、1400本植えられてい」る。「サクラの栽培品種は江戸時代以前から多くの種類が育成されてき」たが、「現代に引き継がれているのはその一部……。このような伝統的栽培品種を収集・保全し、正確な識別・分類や系統関係の研究を進めて」いる(多摩森林科学園パンフレット「森を楽しむ見学ガイド」より)。

JR中央線高尾駅北口から歩いて約10分で森林科学園に着く。小高い丘にあるサクラ保存林を3時間近くハイキング。遊歩道はよく整備されているので歩きやすい。「染井吉野よりも遅く咲く八重桜の仲間も多いので、長い期間<3月後半から4月末まで>、桜の花を楽しむことができ」るという(同上パンフレット)。

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多摩森林科学園20180401
多摩森林科学園20180402
多摩森林科学園20180403
多摩森林科学園20180404
多摩森林科学園20180405
多摩森林科学園20180406
多摩森林科学園20180408
<参考>
多摩森林科学園「科学園紹介と見学案内

明治の初め、三多摩は神奈川県であった 

武蔵国多摩郡はどこに帰属?(1) 明治の初め、三多摩は神奈川県であった 

 「大火の改新<645年>で国郡制がしかれ……実質的な武蔵国<むさしのくに>が誕生する」とされるが、その範囲は「現在の東京都のほぼ全域と、埼玉県および神奈川県の北東部であった」。「武蔵国は初め、……19郡からなり、のち……21郡となった。……武蔵国の政治の中心地である国府(注①)は多麻郡(注②)内におかれ」ている。
 江戸時代、多摩郡の多くの村が天領(幕府直轄領)や旗本領に属していた。慶応4年(1868年)、明治新政府は江戸を東京と改称し、東京府を置く(注③)。明治4年(1871年)の廃藩置県により、東京府は隣接の町村を合併して、新たな東京府となり、いっぽう多摩郡は神奈川県となった。明治11年(1878年)の郡区町村編制法により、多摩郡は東西南北の4郡に分割され、東多摩郡(現在の中野区と杉並区)は東京府に編入される(注④)。(以上、簡略に記したが、じっさいにはもっと複雑な変遷をたどる。資料①竹内誠他著『県史13 東京都の歴史』より自由に引用)

明治26年(1893年)に「三多摩<西南北の各多摩郡>は神奈川県から東京府に移管され」る(東京府移管問題)。ところが昭和18年(1943年)に東京都が成立すると、「三多摩も東京都に含まれることになった……。」(東京都制問題)(資料②梅田定弘著『なぜ多摩は東京都となったか』。以下もこの著書からの引用。)

<年表>
1868年(慶応 4年)…江戸を東京と改称し、東京府を設置
1871年(明治 4年)…廃藩置県。多摩郡は神奈川県となる
1878年(明治11年)…郡区町村編制法により、東多摩郡を東京府に編入
1893年(明治26年)…三多摩を神奈川県から東京府へ移管⇒東京府移管問題
1943年(昭和18年)…都制の施行、三多摩も東京都に帰属⇒東京都制問題

1993年には、「三多摩が東京都に移管されて100年、そして都制が施行されて50年になっ」た。「ところが……三多摩が神奈川県であったこと」を知る人は少ない。かつて「三多摩が神奈川県から東京府に移管された際、……三多摩では多くの町村が役場を閉じて、村ぐるみの猛烈な反対運動をくり広げ」た。ところがその後、三多摩は「都制への編入を求める『都制編入運動』を活発に展開……」。三多摩は、明治のはじめには東京「府」ではなく、神奈川県に帰属することを求め、その後は東京「都」に帰属することを求めた(神奈川県復帰反対運動)。この三多摩の各市町村の、正反対の対応はいったいどのような理由からであろうか。

 「三多摩は明治4年(1871)の廃藩置県の際、一度入間県(のちの埼玉県)への編入が決定された」にもかかわらず、当時の神奈川県知事であった「陸奥宗光(むつむねみつ)の強い要求によ」り、編入後まもなく、「神奈川県へ管轄が変更され」た。「三多摩が外国貿易開始以降、横浜とのつながりが強か」った「ことが理由となって神奈川に入ることにな」る。(注⑤)
 明治26年(1893年)、三多摩を神奈川県から「東京府へ移管しようという」法律案が帝国議会に提出される(わずか10日後に成立)。「政府は議会で、移管は東京の飲料水(玉川上水)を確保するために、その水源地である<神奈川県>三多摩を東京府の管轄下に置」くためであると説明した。しかし、この説明だけでは「どうして地元<神奈川県三多摩>の強い反対運動を押し切ってまでも移管を実現しようとしたのか、また水源とは直接に関係のない南多摩の移管まで求めたのか、などの疑問に答えられ」ない。「そこで、これまでは飲料水の確保というのは表むきの理由で、実は第2回総選挙<1892年>の際の選挙干渉をはげしく批判していた神奈川県自由党(注⑥)を分断して弱めるために、政府により、<三多摩の東京府移管が>強行されたのだ、と説明されてき」た。ところが「郡単位の移管」は、「1つの理由のみで実現できるような簡単なことでは」ない。著者は「移管を推進した四つの要因」を次のように説明している。

1. 東京府側の要因…明治政府の説明
 「玉川上水の水源確保、水源管理のために、移管を求めた」
2. 神奈川県側の要因…従来の説明
 「神奈川県知事が県議会でてこずっていた神奈川県自由党を分断するために、三多摩を神奈川県から分離することを考えた」
3. 地元三多摩側の要因…追加要因
 「甲武鉄道(現在の中央線)の開通などで東京との経済的な結びつきが強まり、地元でも移管推進派が増加し始めていた」
4. 自由党側の要因…追加要因
 「自由党員であった衆議院議長星亨が自由党を現実主義路線へと変え」ようとしており、「三多摩自由党もその星に近づきつつあった」(注⑦)

この「四つの要因」の詳細は本書を読んでもらいたい。「大きな流れで見れば、甲武鉄道計画が進みつつあった明治10年代後半から20年代後半にかけて……三多摩全体がそれまでの横浜指向から東京指向へと大きく転換し」ていた。つまり、①東京府の水資源確保や、②自由党の強い神奈川県から三多摩を分離したい、という思惑のほか、このころには三多摩が東京府と「経済的な結びつき」を強めていたことなどが、三多摩が東京府へ移管される要因であったという。

<注>
①国府…律令制のもと、地方支配の拠点として各国に設置された役所、またはその所在地。武蔵国の国府は現在の東京都府中市にあった。武蔵「国」といえども、律令制下の地方行政組織。朝廷から派遣された国司が治めていた。戦国時代以降、「国」(くに)の名称は行政区分としての機能を失い、たんなる地域区分(地理区分)となる。現在では、地域区分としても使われなくなっている。(資料④)
②多麻郡…「延喜式」には多「麻」郡と表記されている。その後、「吾妻鏡」などでは多「磨」郡や多「摩」郡と書かれるようになった。「延喜式」は律令法の施行細則を集大成した法典で、平安時代中期に完成。
③東京府…1868年(慶応4年)7月17日に東京府が設置される。「明治4年<1871年>11月、『廃藩置県』が実施され、……従来の東京府は一旦廃止……、11月14日あらたに『東京府』が設置されるという形式をと」った。(資料①)
④武蔵国多摩郡はかなり広域であるので、東西南北の4郡のうち、東多摩郡(現在の中野区と杉並区)は東京府へ、その他の西南北の多摩郡(三多摩)は神奈川県へ帰属することになる。じっさいの多摩郡の帰属は明治維新後、複雑な経緯をたどるので省略した。
⑤当時八王子などで生糸の生産が盛んで、横浜港から輸出されていた。
⑥神奈川自由党…町田市立自由民権資料館で自由民権運動の歴史を学ぶことができる。以下、この資料館のWebサイトから引用。「現在の町田市域をはじめとする多摩地区は、自由民権運動が盛んだった時期、神奈川県に属していました。神奈川県は武蔵国6郡と相模国9郡から成り立っていたために、『武相』とも呼ばれていました。武蔵と相模に分かれて活動していた運動を、一つにまとめようとしたのが町田市域の民権家で、1881(明治14)年に原町田では武相懇親会を開き、その後も武相の自由民権運動をリードしていきます。」
⑦「自由党を『壮士』中心の政党としようとした……大井健太郎」と、「『代議士』中心の政党に改革しようとした……星亨」との「戦いは、結局、星の勝利に終わり」、大井派であった三多摩自由党もやがて「星派へとくらがえを計った」。つまり「三多摩自由党が反政府<東京府移管反対>から親政府<移管賛成>へ転換した」ことによる。(資料②)

<資料>
①竹内誠他著『東京都の歴史』(県史13、1997年)
②梅田定弘著『なぜ多摩は東京都となったか』(けやきブックレット、1993年)。今ではこの本を書店で手に入れることはできないが、図書館で借りて読むことはできる。
③多摩百年史研究会編著『多摩百年のあゆみ』(1993年)
④「武蔵国や相模国などの国(令制国・旧国)が成立したのは7世紀頃と考えられています」を参照した。

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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