自由民権記念館 植木枝盛

1.高知市立自由民権記念館
高知市にある「自由民権記念館」(写真)へ行ったことがある。JR高知駅から、路面電車またはバスで15分くらいのところにある。来館時にもらえるパンフレットには、明治初めの自由民権運動を次のように紹介している。「明治維新によって新しい時代がやってきました。この新しい日本をどういう国にしていくのか。このことを真剣に考え、明治政府の目指す方向とは違う道を構想した人々が、『明治第二ノ改革』すなわち自由民権運動をよびかけ、これに賛同する多くの人々が運動に参加しました。憲法を作り国会を開こう、言論や集会が自由な世の中にしようと彼らは訴え、運動は全国に広がり、日本で最初の国民的な民主主義運動になりました。……」常設展示室では「自由民権運動の歩みを紹介」、映像展示室では「自由民権運動の歴史や人物を紹介する映像資料を上映」している。初めに映像展示室を見てから、常設展示室を見ると自由民権運動をよりよく理解できると思われる。
2.植木枝盛と教科書
常設展示室で、移築された植木枝盛(うえき/えもり)の書斎を見ることができる。説明には「明治14年8月植木枝盛はこの書斎で『東洋大日本国々憲案』(とうよう/だいにほんこく/こっけんあん)を起草しました」とある。『国憲案』ついてはあらかじめ知っていたが、帰京後、植木枝盛について更に調べることにした。中学校の教科書に植木枝盛の記述があるのかは分からない。私が見た中学生向けの、3つの参考書には記載があった。高校の山川出版社の教科書には、植木枝盛の名前が4か所出てくる。『民権自由論』、『天賦人権弁』の書名のほか、次のように紹介されている。「……まず1881(明治14)年に福沢諭吉系の交詢社が『私擬憲法』を発表したのに続いて、民権派でも植木枝盛をはじめ、数多くの案を発表した」「植木枝盛が発表した『東洋大日本国国憲案』は、一院制・連邦制・抵抗権・革命権を定めた急進的なもので、議会の権限はきわめて強いものであった」(山川出版社『詳説日本史改定版』より)植木枝盛が起草した『国憲案』にみられる徹底した人権保障や地方(州)自治などは、今日の日本国憲法の精神に受け継がれていると言える。
3.植木枝盛の生きた時代と私たち
植木枝盛は「開国」(1854年)後の1857(安政4)年、土佐に生まれ、江戸幕府が滅亡したころには10歳になっていた。征韓論、明治六年の政変、民撰議院建白書の提出などを経て自由民権運動が始まると、1879(明治12)年には『民権自由論』を著した。翌年、国会開設の勅諭がくだされると、自由党結成に参加し、憲法草案を起草した。1889(明治22)年に大日本帝国憲法が発布され、翌年には第1回帝国議会が召集された。植木枝盛も帝国議会議員に当選。ところがその2年後、35歳の若さで亡くなった。植木枝盛は、まさに激動の時代を生きた。「明治政府の目指す方向とは違う道を構想した人々」がいたように、健全な民主主義には多様な意見と、それを保証する言論の自由と徹底した議論が不可欠だ。ただそれには、「人民国の事に心を用いざるべからざる事」(『民権自由論』)が大切。国民は、国の政治に常に関心を持っていることが肝要だ。最後に家永三郎編『植木枝盛選集』の解説から引用しておく。この本は1974(昭和49)年発行。「『戦後は終った』と言う声の一方で、新しい『戦前』的状況の散見する危惧すべき現代の状況下で、課題としての『戦後民主主義』の日本における根源に遡及するために、植木枝盛の著作を再検討するのも、一つの有効な方法ではないかと考え、この一冊を編集した次第である」
<参考文献>
家永三郎『植木枝盛選集』(岩波文庫)、米原謙『植木枝盛 民権青年の自我表現』(中公文庫)
高知市立自由民権記念館
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賀茂川 鴨川

私は京都出身で、大学に通うため東京へ来るまで京都で暮らしていた。にもかかわらず、「賀茂」川と「鴨」川、上「賀茂」神社と下「鴨」神社で用いられている「かも」の漢字の違いを意識したことはなかった。
1.「かも」氏
古代、貴船山(きふねやま)より南の「かも」川流域は「かも」氏の勢力圏であった。この「かも」の漢字には「鴨」のほか、「賀茂」や「加茂」の文字があてられていた。たぶん古代には、「かも」の音が先にあり、この音に「鴨」「賀茂」「加茂」の漢字をあてて表現していたのではないか。
2.賀茂川と鴨川
地図(Googleマップ)を見ると、川は「Y」の字のように北から南へ流れている。合流地点(賀茂=加茂大橋の辺り)から見て、北東から流れてくるのが高野川、北西から流れてくるのが賀茂川。この合流地点より南側が鴨川。ただ現河川法では、賀茂川と鴨川をあわせて鴨川と総称している。Googleマップを見ても、賀茂川には総称としての鴨川も併記されている。「かも」川の名称は古代豪族の「かも」氏に由来するのだろう。ただいつの時点から、それぞれの漢字(「賀茂」川と「鴨」川)を用いるようになったかは、今では不明ということだろう。
3.上賀茂神社と下鴨神社
上賀茂神社(通称)の正式名称は「賀茂別雷神社」(かもわけいかづちじんじゃ)、下鴨神社(通称)のそれは「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)という。どちらにも「賀茂」(かも)の文字がつく。両神社とも、川の名前(賀茂川と鴨川)や地名(北区上賀茂と左京区下鴨)から通称を用いるようになったと考えられる。つまり、高野川との合流地点より上流を「賀茂川」、反対に下流を「鴨川」と使い分けているので、神社の通称も「かも」の漢字が異なるのではないか。賀茂川・上賀茂→上賀茂神社、鴨川・下鴨→下鴨神社。いずれにしても、両神社とも「かも」氏を氏神にしている。
4.下鴨と私
私は小学校の高学年から高校まで左京区「下鴨」に住んでいた。「下鴨」中学校を卒業し、中学時代には糺の森(ただすのもり)にある、「下鴨」神社の参道でよく野球をしたものだ。また映画(時代劇)の撮影もときどきしていた。中学校からここまで歩いて5分とかからなかった。当時、その下鴨神社が世界文化遺産になるとは思ってもいなかった。
5.写真
京都府立植物園の西側、賀茂川東側の散策路(北大路通りから北山通りの間)を「半木の道」(なからぎのみち)という。この約800メートルの堤防上に70本ほどの八重紅しだれ桜が植えられている。ここはちょっとした京都の観光スポットになっている。写真はこの桜と賀茂川を撮ったもの。※「なからぎの道」の由来などはこのサイトを参照。
↓賀茂川と鴨川賀茂川 鴨川
↓なからぎの道と八重紅しだれ桜なからぎの道と賀茂川

神田川

「神田川」と言えば、南こうせつの歌を思い浮かべる。1973年、知人からこの曲を教えてもらい、以来南こうせつの歌をよく聴くようになった。実は神田川がどこをどう流れているのか、最近までまったく知らなかった。その神田川のことを調べてみると驚くことばかり。JR中央線吉祥寺駅の南にある井の頭池(井の頭公園内)が水源であること、御茶ノ水駅から見える外濠が神田川の一部であること、日本橋の下を流れる川(日本橋川)は神田川の分流であること、神田川が今の流路になったのは江戸時代初期にまで遡ること、などなど。飯田橋付近から隅田川(両国橋近く)に合流する辺りまでは人工河川で、江戸時代のはじめに神田山と呼ばれた台地を切り崩して神田台(神田台地)とし、大名や旗本の屋敷をここに作った。この辺りの地名が神田であったことから、神田川と呼ばれるようになった(神田川のもとの名は平川で、かつて飯田橋付近から南流していた自然河川)。江戸時代には玉川上水とならんで、神田川の水は飲料水として利用されていた(神田上水)。その神田川の川沿いを散策してみることにした。都電荒川線の面影橋駅(新宿区)からJR中央線飯田橋駅(千代田区)まで地図を見ながら歩いた。しかし、「神田川」の歌詞にあるような「下宿」は、今ではほとんど存在しない。写真は、桜の花が咲くころ、面影橋から撮ったもの。※この項を作成するにあたって参考にしたサイトは次の通り。「江戸の原型と神田川の流路」、「江戸の街と神田川-流路変遷と江戸の発展」、「江戸の街と神田川-江戸の暮らしと神田上水」。
神田川 面影橋から

千登世橋 千登勢橋

「千登勢橋」という歌は、「池上線」とならんで、西島三重子(作曲・歌)の、若いころの代表曲(門谷憲二作詞)。「(1番)…電車と車が並んで走る/それを見下ろす橋の上/千登勢橋から落とした/白いハンカチが…(2番)胸の想い言い出せなくて/遠くでカテドラルの鐘…心のすべて燃やした恋を/いつも見ていた橋の名は千登勢橋です…」(歌詞の前から順に)①「電車」とは荒川線を走る都電。②「千登勢橋」は、本当は「千登世橋」が正しい(目白通りと明治通りが交差する場所にある立体交差橋。「世」ではなく「勢」の文字を使用した作詞者の意図は不明)。③カテドラルは「カトリック東京カテドラル関口教会」のこと。千登世橋へは、JR山手線目白駅で下車し、目白通りを東へ歩いて行く。学習院大学を過ぎると、まもなく千登世橋だが、(「電車と車が並んで走る」と歌詞にあるように)明治通りと都電荒川線はその橋の下を通る。ここからさらに目白通りを東へ歩くと、カテドラル関口教会聖マリア大聖堂。上の写真は、千登世橋(階段の左側)。橋の下を通るのは明治通り、上を通るのは目白通り。階段の右側には荒川線の都電が走る(この写真では見えない)。下の写真は、千登世橋(正確には千登世小橋)から撮った、荒川線の都電。遠くに新宿の高層ビルが見える。※千登世橋は1932(昭和7)年に完成。案内板には「この橋は、明治通りと目白通りとの立体交差橋で都内でも土木史的価値の高い橋として『東京の著名橋』に指定された」とある。なお、都電路線は現在、荒川線を除いてすべて廃止されている。
千登世橋
荒川線の都電

上野 無縁坂

JR山手線上野駅の不忍口(しのばずぐち)を出て、上野恩賜公園へ向かう。西郷隆盛の銅像、彰義隊戦死者の墓、清水観音堂、竹の台噴水(大噴水)を順に巡る。途中、右手には上野の森美術館、東京文化会館、国立西洋美術館、国立科学博物館などの文化施設がある。噴水から北へ向かい、東京国立博物館、黒田記念館、さらに寛永寺(根本中堂)へ。黒田記念館では、黒田清輝の代表作である「読書」(1891年)や「湖畔」(1897年)などを鑑賞することができる(期間によって展示絵画は異なる)。大噴水へ戻り、上野東照宮を経て不忍池へ向かう。不忍通りを渡り、さらに西へ向かうと旧岩崎邸(写真左側、石垣とレンガ塀のある邸)。明治中頃に建てられたという西洋木造建築が見ものだ。この旧岩崎邸の北側にある坂道が無縁坂(写真、中央の坂)。「無縁坂」というと、この坂を舞台にした、森鴎外の小説『雁』(がん)を思い出す。この小説を原作とする映画『雁』は1953年制作、豊田四郎監督、高峰秀子ら出演(1966年制作、若尾文子主演の『雁』は見たことがない)。最近、この映画をDVDで再び見ることができた。これを機に小説も読み直し、無縁坂も訪れた。この小説をどう読むのかは人それぞれ。出会いも別れも人それぞれ。ただ映画では、ヒロインお玉(高峰秀子)の「自我の目覚め」をより強く描いている。※無縁坂といえば、さだまさし作詞・作曲の『無縁坂』が有名。私もこの歌により、無縁坂という地名を知った。この坂の名は、坂下にあった無縁寺称迎院(しょうぎょういん)に由来するそうです(大石学『坂の町・江戸東京を歩く』)。
無縁坂

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yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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