五日市憲法草案 色川大吉氏

「五日市憲法草案」は旧西多摩郡五日市町(現あきる野市)の深沢家屋敷跡の土蔵(写真)で発見された。この屋敷はJR五日市線の終点武蔵五日市駅から徒歩でおよそ1時間のところにある。東京都心からはるか離れ、しかも鉄道も走らない明治のはじめ、この地ですぐれた憲法草案が作成されたことに驚く。あきる野市のパンフレット「五日市憲法草案ゆかりの地を巡る」によると、次のように書かれている。「五日市憲法草案は、昭和43年(1968年)にあきる野市(当時五日市町)深沢にある土蔵の中から発見された私擬憲法(民間有志による私案の憲法)です。標題は、『日本帝国憲法』と書かれていますが、発見者である東京経済大学の色川大吉教授(当時)によって『五日市憲法草案』と命名され、以降この名称で呼ばれています。……五日市憲法草案は、明治14年(1881年)に作られたと考えられています。……当時作られた私擬憲法の中でも、非常に条文が多いことが特徴の一つとして挙げられます。国民の権利にかかわる内容を多数盛り込んだ草案であり、現在の憲法にも相通ずる点があるのも特徴です」 発見者の色川大吉氏はいまも健在。色川氏の著書には『自由民権』(岩波新書)など多数ある。旧五日市町は1995年、秋川市と合併して現在のあきる野市となった。深沢家屋敷跡は、東京都あきる野市深沢7番地にある。JR中央線立川駅から青梅線で拝島駅へ行き、ここで五日市線に乗り換え、終点の武蔵五日市駅で下車。ここから徒歩かタクシーで行く。バスは走っていない。

<写真>上の写真は深沢家屋敷跡入口。門のくぐり戸から中へ入り、修復された土蔵をみることができる。土蔵のほか、門と倉庫が残されているが、母屋はない。下の写真は、五日市憲法草案が発見された当時の土蔵。これと同じ写真は五日市郷土館でも見ることができ、草案の関係資料も展示されている。
深沢家屋敷跡門
深沢家屋敷跡土蔵
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日本国憲法と「理想」

1.憲法は崇高な「理想」?
満州事変から太平洋戦争までの「15年戦争」、軍国主義の時代を生きた人々にとって、日本国憲法はまさに「理想」そのものであったろう。1946(昭和21)年11月3日、日本国憲法は崇高な「理想」を掲げて公布され、翌1947(昭和22)年5月3日に施行された。本来、憲法に掲げられている「理想」は、法律や条例などで実現されるべきものである。憲法の前文にも「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」とある。ところが、その憲法の持つ「理想」と現実には、大きな乖離がある。このような乖離は、第9条「戦争の放棄」だけではない。たとえば、所得格差(第25条「生存権」)、教育格差(第26条「教育権」)、勤労格差(第27条「勤労権」)などが現に存在し、その格差は広がるばかりだ。「平等」からは程遠い(第14条「平等権」)。地方自治ははたして尊重されているのか(第92条「地方自治の基本原則」)。「地域に主権があるとはおぞましい」などと発言する国会議員もいる。国の政策をみると、政治家や官僚が「一部の奉仕者」であると思えることもある。憲法が掲げる「全体の奉仕者」(第15条第2項)にじゅうぶんなっていない。いつまでも憲法が「理想」や「目標」であってはならない。憲法を改正するより前に、「現実をより憲法に近づける努力」がなされてしかるべきだ。それでもなお国民が、「国民投票」(第96条)によって憲法の改正を望むならば、そのときやっと改正を俎上に載せる、という順番であろう。それまでは、内閣総理大臣ばかりでなく、大臣や国会議員、裁判官やその他の公務員も、日本国憲法を「尊重し擁護する義務」を負っている(第99条「憲法尊重擁護の義務」)。

2.第9条と「崇高な理想」
第9条「戦争の放棄」と関連して、憲法の前文にも「人間相互の関係を支配する崇高な理想」との表現が見られる。第9条に記されていない自衛隊の存在は大きな「乖離」のひとつだが、その存在を否定する人は少ないと思われる。「乖離」にもいろいろあるということ。「乖離」があるから憲法改正だと言うのなら、日本国憲法をすべて現実に整合するように変えなくてはならない。日本国憲法の各条文は目指すべき「理想」であり「目標」である。ただ、この「理想」や「目標」に少しでも近づけるように努力する必要がある。

3.「理想なき憲法が理想」?
東大教授の石川健治氏は朝日新聞に次のような寄稿をしている(2017年5月19日付朝刊)。見出しは「理想なき憲法が理想」。ぜひ全文を読んでもらいたいが、ここでは一部を引用してみる。「立憲主義的な憲法の定義のなかに、理想はない。特定の理想を書き込まないのが理想の憲法だ」まったくその通り。「特定の理想」を憲法に書き込んではならない。「仮に憲法が理想を掲げるとしても、……普遍的に適用する理想でなくてはならない」 問題は、「国民に特定の理想を押しつけ」ることだ。「時代錯誤な『美しい国』の理想が憲法に書き込まれることで、それを『美しい国』とは考えない日本人が、非国民として排除されるようなことになっては困る。憲法改正手続きを通じて、国民は分断され、少数派が抑圧される。それは最悪のシナリオである」 日本国憲法は与えられたものでもなく、押しつけられたものでもなく、勝ち取ったものである。もちろん勝ち取ったものは守らなくてはならない。「五日市憲法草案」などの私擬憲法で掲げられた人権などは、戦後の「日本国憲法」でようやく実現したと思える。

<参考>日本国憲法はだれがつくったのか

八重山列島 沖縄島

1.八重山列島 波照間島 竹富島 石垣島
2016年4月、波照間島、竹富島、石垣島へと旅をした。西表島(いりおもてじま)へは1982年に行ったことがある。これらの島に、与那国島・小浜島・黒島などを含めて八重山列島と言う。八重山諸島とも言う(注)。波照間島は、有人島では日本最南端の島で、海岸線長は14.8km、標高は59.5m。この島は、台湾の首都台北より南にあり、北回帰線(北緯23.6度)がすぐ南を通る。波照間郵便局も日本最南端の郵便局。島の主要産業はサトウキビ栽培。旅行者のすべてが「日本最南端の碑」と「ニシ浜」(「ニシ」は方言で「北」の意味)へ行くと思われる。日本最南端の天文台である「星空観測タワー」からは南十字星全体を観測できる(4月から6月まで)。「日本で最も多くの星が見える」ため、満天の星を見る「星空ツアー」が催されている。島の中央に集落があり、人口は508人(2016年)。台風の被害を避けるため、家は石垣と防風林で囲まれ、屋根の赤瓦は漆喰で塗られている。夜の静寂は離島ならでは。石垣島離島ターミナル発、波照間港着の高速船は、波が高くなるとよく欠航する。このため貨客フェリーをうまく利用することが大切。でないと石垣島へ定められた日に戻れなくなる。サンゴ礁に囲まれた島である竹富島は石垣島から近く、船便も多いので観光客がとても多い。しかし、新しく家を建てるときには「平家の赤煉瓦の家を建てなければならない」などの決まり(竹富島憲章)があり、そのため集落の景観はよく保たれている。美しいコンドイ浜は遠浅の海水浴場で、観光客に人気がある。1982年の2月下旬に、私もこの浜で泳いだことがある。

2.沖縄島 沖縄戦 米軍基地
飛行機で石垣島から沖縄島へ。私は最近、「テーマ」を決めて旅行することにしている。今回は、沖縄の歴史(沖縄戦と戦後沖縄史)と在沖縄米軍基地がテーマ。あらかじめ多くの本を読み、映像も見てからの旅であった。私は日頃、まず事実を知ることから始めたい、と考えている。沖縄への旅もそうであった。沖縄南部では、旧海軍司令部壕(豊見城市)、ひめゆりの塔(糸満市)、平和祈念公園(糸満市)を訪ね、資料館等で沖縄戦を学ぶ。(ひめゆりの塔と平和祈念公園は2度目)沖縄中部では3つの米軍基地を訪ねた。嘉数(かかず)高台公園(宜野湾市ぎのわんし)にある展望台から普天間飛行場(海兵隊基地)がまじかに見える。24機のオスプレイが運用されている。「道の駅かでな」(嘉手納町)の展望台からは、広大な嘉手納基地(空軍基地)を一望できる。多くの軍用機がタッチ・アンド・ゴーの訓練をしていた。辺野古漁港(名護市)の近くからキャンプ・シュワブ(海兵隊基地)とヘリポート建設予定地(辺野古崎沖合い)を見た。事前に予備知識をもって沖縄の米軍基地へ行ったとはいえ、文字通り基地を「見てきただけ」であった。ただ「道の駅かでな」には学習展示室があり、「嘉手納のあゆみ」を詳しく学ぶことができる。このほか、沖縄への旅行客の多くが訪れるであろう、琉球王朝の宮殿である首里城(那覇市)や、沖縄海洋博(沖縄国際海洋博覧会、1975年開催)の会場(国頭郡本部町くにがみぐんもとぶちょう)となった海洋博公園(国営沖縄海洋博覧会記念公園)なども訪れた。

<注>国土地理院の名称では八重山「列島」。「二つ以上の島の分散の度合いにより、集団をなすものを諸島、そのうち、塊状をなすものを群島、同様に列状をなすものを列島と呼んでいます。諸島と群島は別称でありますが、概念としては同じであるといわれ、群島は……地元で呼ばれている名称が尊重されるため、ときに諸島であったり、群島であったり、統一した呼称として定義するのは困難といわれています。」(国土地理院「諸島,群島,列島の違いは何ですか」 )
<資料>NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」は2015年6月14日、NHK総合で放送された。単行本やDVDも販売されている。また「沖縄・米軍基地ガイド」としては、矢部浩治『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』(書籍情報社)などがある。
<写真>普天間基地周辺。海兵隊の基地が民家などに取り囲まれている様子がよく分かる。右上にはオスプレイも見える。
普天間基地

八重山列島 波照間島 竹富島 石垣島

2016年4月、波照間島、竹富島、石垣島を旅した時に撮った写真をもとにフォトムービーを作成。波照間島は、有人島では日本最南端の島で、波照間郵便局のように、いくつもの「最南端」がある。また、竹富島は、これまでの沖縄の集落の景観をよく保っている。石垣島には、これらの島へのターミナルとなる港がある。

沖縄島 沖縄戦 米軍基地

2016年4月、八重山列島を旅した後、沖縄島へ向かった(1982年についで2度目)。このときのフォトムービー。今回の旅の目的は、おもに沖縄の歴史(とくに沖縄戦)を学ぶためと、在沖縄米軍基地をこの目で見るため。まず、「事実を知ることから始めたい」という思いから。旧海軍司令部壕、ひめゆりの塔、平和祈念公園、普天間飛行場、嘉手納基地、ヘリポート建設予定地である辺野古のほか、首里城、海洋博公園、今帰仁城(なきじんじょう)跡などへ行った。

京都府立植物園

1.植物園と植物公園の違いは?
東京都にある小石川植物「園」と神代(じんだい)植物「公園」……この名称の違いは何か。小石川植物園は、もとは「江戸幕府により薬になる植物を育てる目的で今の東京都文京区に1684年(貞観元年)に開園された小石川御薬園(こいしかわおやくえん)である」。「小石川植物園となったのは、1877年(明治10年)に東京大学が開設された際に付属施設として改称され、同時に、一般にも公開されるようになっ」てからのこと(「東京おでかけスポットを徹底紹介」より)。明治に開園した小石川植物園は「『遺伝資源収集保存機能』『専門教育機能』をもつ施設」だが、その後「日本では『パーク&レクリエーション機能』の一つとして植物園が創られ」るようになったため、植物園と「『公園』との違いが明確では」なくなった(「奇跡の星の植物館とまちづくり」より)。そういえば、オーストラリアにあるメルボルン王立植物園は、広大な英国式「庭園」という感じ。さまざまな植物を観賞するというより、市民の「憩いの場」と感じられた。唯一の「都立」植物園である神代植物「公園」も、その名称のとおり、植物「園」であるというより、植物「公園」という印象を受ける。植物「園」は「研究機能+公園」だが、植物「公園」は研究機能より公園機能に重きを置いている、と考えられる。なお、ふつうの「公園」には上記のような「研究機能」はない。
※「小石川植物園」は通称で、正式な名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」という。
2.京都府立植物園と桜
小石川植物園の前身である小石川御薬園は日本「最古」の植物園だが、日本最初の「公立」植物園は京都府立植物園。京都府立植物園は、「大正6年(1917年)に着工し、同13年(1924年)1月1日に『大典記念京都植物園』として開園した」「戦後は、昭和21年(1946年)から12年間連合軍に接収され」たが、「昭和36年(1961年)、憩いの場、教養の場としてその姿を一新し、再び公開」された(京都府ホームページ)。京都府立植物園へ市営地下鉄(烏丸線)で行くには、①「北大路駅」で下車し、植物園の正門へ向かうか、②「北山駅」で下車し、北山門へ向かうか、のいずれか。この4月11日に府立植物園へ行ったが、ちょうど桜が満開であった。北山通りにある北山門から入り、温室北側に広がる桜林へ向かう。「ソメイヨシノ」(染井吉野)と「ヤエベニシダレザクラ」(八重紅枝垂桜)はとても見事で華やかであった(写真)。桜林を2度巡り、再び北山門へ戻る。近くの進々堂北山店で休憩。この店は、焼き立てパンが美味しいカフェ&レストラン。このあと、北山通りを西へ歩き、更に北山大橋から北大路大橋まで「なからぎの道」(半木の道)を歩く。川の西岸にはソメイヨシノ、東岸にはヤエベニシダレザクラが咲いている。ともに満開であった。
京都府立植物園

尾道 しまなみ海道

1.千光寺とおのみち文学の館(やかた)
広島県尾道市で千光寺と「おのみち文学の館」へ。JR山陽本線尾道駅から3つ目のバス停、長江口(ながえぐち)で下車。ここから千光寺山ロープウェイで山頂駅へ。上りはロープウェイを利用するが、下りは歩く。頂上は千光寺公園になっていて、展望台からは尾道市街、尾道水道、対岸の向島(むかいしま)を一望できる(上の写真)。山頂には尾道市立美術館もある。山頂から「文学のこみち」を下り千光寺へ。この寺からも見晴らしはよく、ロープウェイが真上を通る。ここから更に下り、「おのみち文学の館」を訪ねる。まずはじめに「文学記念室」(旧福井家住宅)へ、次に「志賀直哉旧居」へ向かう。両館の入場料は共通。「文学記念室」は「尾道ゆかりの文学者の記念室」だが、林芙美子関連の資料が多い。志賀直哉の旧居が今も残されているが、ここには半年しか住んでいなかった。ここで『城の崎にて』(きのさきにて)を執筆し、長編『暗夜行路』の原型(「時任謙作」)に着手した(途中で断念)。写真は志賀直哉の部屋から撮ったもの(下の写真)。尾道水道や向島などが見え、景色がすばらしい。高校生のころ、白樺派に属する志賀直哉と武者小路実篤の小説をたくさん読んだ。帰りは千光寺道や新千光寺道を通り、尾道水道沿いの海岸通りを歩いて尾道駅へ戻る。千光寺近くの古寺や「おのみち映画資料館」などを訪れてもよい。
2.しまなみ海道と村上水軍
JR山陽新幹線新尾道駅でレンタカーを借り、しまなみ海道へ。前夜からの雨はやんでいたが、残念なことに霧や靄のため「島並み」はほとんど見えず。このため、亀老山(きろうさん)展望公園などの絶景ポイントへは立ち寄らず。またひとつひとつの島が大きいため、島を通過中は当然「島並み」は見えない。そこで因島(いんのしま)で水軍城を見学し、大島で村上水軍博物館へ立ち寄った。もうここは愛媛県今治市(いまばりし)。博物館のホームページには「瀬戸内を制した戦国最強の村上水軍。その村上水軍の本拠地の一つであり、小説『村上海賊の娘』の舞台となった能代城。史実に基づいた数々の戦国ロマンを体験できるのが村上水軍博物館です」とある。またパンフレットには「……『水軍』では、彼らの多様な活動を表現できないため、最近では当時の古文書などに見える『海賊』という呼称を用いることが多くなってきている。……展示室をめぐるとき、『海賊』と呼ばれた人々が、必ずしもマイナスイメージで語られなかった時代があったことに気づくだろう」とある。私には、瀬戸内海の「海賊」といえば、まずはじめに愛媛県の日振島(ひぶりしま)を思いだす。日振島を根城としていたのが藤原純友(ふじわらのすみとも)。平安時代中期の936(承平6)年、海賊を率いて反乱を起こしたが、941(天慶4)年、小野好古(おののよしふる)らによって鎮圧され、純友は敗死した(藤原純友の乱)。日振島は宇和島市の沖合にある小島で、若いころにここを訪れたことがある。
↓千光寺公園から見た尾道市街、尾道水道、向島
千光寺公園からみた尾道市街、尾道水道、向島
↓志賀直哉旧居
志賀直哉旧居

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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