宇和島市 宇和島城 朝日運河

1.宇和島城
宇和島市は、愛媛県の南西部に位置する都市で、宇和島城を中心に発展した旧城下町。市の西に臨む宇和海は典型的なリアス式海岸で、宇和島港は天然の良港。宇和島駅は予讃(よさん)本線の終点。宇和島城は慶長6(1601)年、藤堂高虎(とうどうたかとら)によって創建された。寛文11(1671)年に大修理が完了し、天守が今の姿になった(現存12天守のひとつ)。なお、万延元(1860)年に大修理を行い、昭和37(1962)年に天守の解体修理を終えた。私は昭和54(1979)年にも宇和島市を訪れたことがある。宇和島城はよく覚えていたが、天守の中を見学したのは今回(平成29年=2017年)がはじめて。宇和島藩の7代藩主伊達宗紀(だてむねただ)が築いた池泉(ちせん)回遊式庭園である天赦園(てんしゃえん)や宇和島市立伊達博物館を訪れるのもよい。
2.朝日運河
宇和島市は背後に山が迫り、平地が少ないため、干拓や埋め立てにより市街地を拡大してきた。前回(昭和54年に)訪れたときは港(朝日運河)から比較的近くの宿で泊まったこともあり、当時の港の風景をよく覚えている。ところが、昭和60(1985)年から昭和63(1988)年にかけて、「宇和島港の再開発が行われ、『朝日運河』と呼ばれた細長い船溜まり(ふなだまり)や樺崎(かばさき)沖が埋め立てられた」(愛媛県生涯学習センター)。このため、朝日運河はなくなり、あたりの風景は一変していた。前回は宇和島港から船に乗り、日振島も訪れた。高速艇で1時間、普通船で2時間ほどで行ける。この島は、平安時代の藤原純友(ふじわらのすみとも)の、ゆかりの地として知られている。
<参考>「地図から読み解く地域のすがた⑤」(愛媛県生涯学習センター)
宇和島城下埋立ての記録、宇和島港
<写真上>宇和島城の天守(2017年)
宇和島城2017年
<写真下>宇和島城の本丸から撮った宇和島港と宇和海(1979年)。
宇和海1979年
スポンサーサイト

高松市 屋島

1.屋島とメサ
香川県高松市の北東に位置する「屋島」の名称は、屋根のような形状をした島に由来する。屋島は文字通り島で(現在は川を挟んで陸続き)、テーブル状の火山地形。これを地理用語で「メサ」という。また同県の「飯野山(いいのやま)」(讃岐富士)なども「ビュート」と呼ばれる火山地形。メサもビュートもスペイン語で、ともに火山活動とその後の浸食によってできた地形。これらの典型的な地形は、アメリカ合衆国アリゾナ州のモニュメント・バレーで見られる。テーブル状の地形がメサ、円柱状の地形がビュート。ただ飯盛山(標高約421m)のビュートは円錐形をしている。写真は、高松駅近くの中央埠頭から撮ったもの。テーブル状の火山地形(メサ)をした屋島を確認できる。
<参考>屋島~天然記念物(高松市)、香川県のメサとビュート(ブログ「真っすぐ走ろう!」)
2.屋島と展望台
屋島へはJR高松駅で高徳線に乗り、屋島駅で下車。琴電志度線に乗って行く場合は、琴電屋島駅で下車。いずれの駅でも、屋島山上シャトルバスに乗って屋島山上駅へ行く。平日は1時間に1本、土日は30分に1本運行。山上駅近くには四国八十八箇所霊場第84番札所の屋島寺がある。山上からの展望はとてもよい。山上駅のある南嶺の標高は約292m。「獅子の霊巌」(ししのれいがん)と呼ばれる展望台からは高松市街や瀬戸大橋方面が一望できる。また「談古嶺」(だんこれい)と呼ばれる展望台からは源平合戦の屋島古戦場(屋島の戦い)や小豆島(しょうどしま)方面が見える。
※屋島の戦い…1185年、讃岐屋島での源平合戦。源義経が、屋島に逃れた平氏軍を背後から急襲。平氏はこの敗戦で瀬戸内の制海権を失い、その後壇ノ浦の戦い(山口県下関市)で滅亡した。
<写真>中央埠頭から見た屋島
屋島

五番街のマリーへ 高橋真梨子

「あの年この歌」という番組(テレビ東京)がある。「番組概要」には、次のように書かれている。「毎回、20世紀のある1年を主題として、名曲と時代を振り返る新しいタイプの“音楽報道番組”。 番組を見れば当時にタイムスリップし、音楽に勇気づけられた思いとパワーが蘇り、現代で忘れ去られたモノや、今後の生きる道しるべが見えてくる大人のための新しい音楽プログラム」 私には、テレビで歌番組を見るという習慣はまったくない。ふだんはYoutubeでおもにクラシック音楽などを探し、聞いている。しかし、この番組だけは不思議と毎回見る。「あの年この歌」が歌われていた「ある1年」が分かり、さらに懐かしさも手伝い、ビデオに録画して見ている。5月23日の「あの年この歌」は、高橋真梨子の「桃色吐息」(昭和59年=1984年)であった。わたしはこの歌ではなく、同じ番組で聞いた「五番街のマリーへ」に注目。この歌を意識して聴いたのははじめて。つまり初めて聴いたも同然。この歌はペドロ&カプリシャスの代表曲のひとつ。作詞阿久悠、作曲都倉俊一、ボーカル高橋まり(現在の高橋真梨子)。私は歌詞にも注目してみた。すると次のような「解釈」をしているブログを見つけた。以下に一部を引用してみる。このブログ(「いろいろブログ」)は女性によって書かれている。全文はブログを見て欲しい。

「五番街へ行ったならば マリーの家へ行き
どんなくらし しているのか
見て来てほしい

これを頼んでいるのは、男性である。彼の心の中に、刺さっているマリーという女性がいる。マリーとは、長い間、音信普通である。マリーは、不幸な人生を歩んできたことが、この短いフレーズで、私たちは、理解できるのだ。どんな暮らしをしているか、わからない。幸せそうな女性であれば、こんな台詞は出てこない。

五番街は古い町で 昔からの人が
きっと住んで いると思う
(省略)
たずねてほしい
マリーという娘と 遠い昔にくらし
悲しい思いをさせた それだけが気がかり
五番街でうわさをきいて もしも嫁に行って
今がとてもしあわせなら 寄らずにほしい
(省略)
……非常に物語的な作品である。マリーは、不幸せが似合う。そういう幸薄い影がある女性である。長い髪をして、可愛い女性である。男の人に対して、尽くして、恋する男性だけが彼女の全人生になってしまう。そんな女性である。そんな彼女が、彼をいらだたせることが、あった。彼女を必要以上に傷つけ、別れてしまった。ひどいことばかりをしてきた。何年たっても、彼女のことが、気がかりで、ある。彼女が住む五番街は、彼にとって、ある意味、聖地である。だからこそ、近づけない。マリーが、不幸せだとわかれば、飛んで生きたい。けれど、この男性は、踏みとどまるだろう。」

この歌の「五番街」とは、ニューヨークの、高級商店街のある地区のことであろうか。「五番街」には「若い男女が、気軽に同棲できるような」安アパートがある地区もあるらしい。いずれにしても、そんなことを気にせず、この曲を聞くのがよい。

ベトナム サイゴン ホーチミン市

1.南ベトナム サイゴン
1974年8月、ホンコン・シンガポール・マレーシア・タイを経由して南ベトナムのサイゴンへ(南ベトナム、サイゴンとも当時の名称。サイゴンは現在のホーチミン市)。9月初め、伊丹空港(大阪府)・京都市を経て帰京。南ベトナムは当時、いまだ戦闘状態にあった。私の人生で最も影響を受けたのがベトナム戦争。1969年(たぶん)、新宿駅東口にあるルミネで開催されたベトナム展(「ベトナムの心」)で多くの写真を見た。大きな衝撃と感動を受けた。「小国」のベトナムが、あの「超大国」のアメリカに、勝つこともできないが、負けてもいない……。このことがサイゴンを訪れる契機となった。当時、南ベトナムへは「ビザなし」で入国できた。学生運動が盛んな時代ではあったが、私はとくに参加することはなかった。

2.ホーチミン市 ホイアン フエ
2009年5月、私はハノイを経由して、ホーチミン市、ホイアン、フエを旅した(その後ハノイへ戻る)。1974年の訪問時、サイゴンで写真を撮った場所は、今回の旅でも見つけることができた。ただこのとき訪れた寺だけはどうしも探すことができなかった。1974年、この寺で偶然ひとりのベトナム人に出会う。1台のバイクに私を含めて5人も乗り、彼の家族とともに映画館、レストランへ行く。翌日、私を安宿(ホテル)に迎えに来た彼は軍服姿。彼は南ベトナム政府の軍人であった。私は、彼の家族の写真を撮ったあと、彼の属する部隊を案内してもらった。帰国後、私が撮った写真を彼の家に郵送。翌1975年の4月、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争は終結。その後、彼と彼の家族はどうしたであろうか。混乱のなかで、多くの南ベトナム政府関係者や軍人およびその家族が近隣諸国やアメリカ、オーストラリアなどへ逃れた。私はサイゴンで、もうひとりの日本人に出会った。彼はかなり高齢であったが、太平洋戦争後も一度も日本へ帰らず、ベトナムにひとり残り、日本大使館で働いていた。私は帰国後、この日本人が記した、東京の住所地へ手紙を送ったが返事はなかった。2009年、私は、ホーチミン市で多くの、ベトナム戦争関連の博物館を訪れた。このあとメコン・デルタ(ミトーとベンチェー)へ行き、ついで日本町(17世紀初頭)のあったホイアン、古都フエを経由してハノイへ戻った。ホーチミン市で訪れた場所は以下の通り。統一会堂(旧大統領官邸)、戦争証跡(しょうせき)博物館、中央郵便局、サイゴン大教会(聖母マリア教会)、ホーチミン市博物館、ホーチミン作戦博物館、歴史博物館、フンブオン廟、サイゴン動植物園、サイゴン川沿いのメリン広場、チラン公園、ベンタイン市場、ビンタイ市場(チョロン地区、ベトナム最大の中華街)など(記憶の範囲で)。ビンタイ市場を除いて、すべて歩いて巡る。

<写真>At Youth Hostel in Bangkok, August 1974
バンコク ユースホステル前にて
<写真>Saigon, September 1974①
サイゴン市内1
<写真>Saigon, September 1974②
サイゴン市内2
<写真>Mr. Chai's family, Saigon, September 1974
Chai family, Saigon, 1974
<写真>Chi Lang Park, Saigon, September 1974
サイゴン市内3 チラン公園

ベトナム ハノイ

1.ベトナムの歴史
ベトナムはおよそ千年の長きにわたり中国の支配を受けた。937年、ベトナムはようやく中国支配から解放され、その後いくつかの王朝が続いた。1887年、フランスはベトナム・ラオス・カンボジアの3国を植民地(フランス領インドシナ)とする。ベトナムの北部は保護国化、南部は直轄地。1940年、日本軍は北部フランス領インドシナ(ベトナム北部)に進駐(このころフランスはドイツの占領下にあった)。1942年、日本軍はシンガポールを占領。ところが1945年の日本降伏後、フランスは旧植民地の復活をはかろうとし、ベトナムと戦闘状態にはいる(第一次インドシナ戦争)。1954年、フランス軍がディエン・ビエン・フーの戦いで敗北。同年のジュネーブ協定により、ベトナムを南北に分離し、2年後の自由選挙で統一するはずであった。ところが南ベトナム政府が南北統一選挙を拒否したため、ベトナムは北緯17度線で南北に分断されたままになった。1960年、「南ベトナム解放民族戦線」が結成され、南ベトナム政府に宣戦布告を行いベトナム戦争が始まった(第二次インドシナ戦争)。1961年、アメリカは「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、正規軍人で構成された「軍事顧問団」を派遣。1964年のトンキン湾事件を口実に米軍は翌年、北爆を開始。本格的にベトナム戦争が始まった。ベトナム戦争は、「南ベトナム解放民族戦線+北ベトナム政府軍(支援)」対「南ベトナム政府軍+アメリア軍(支援)」という構図。1973年、パリ和平協定により、米軍が南ベトナムから撤退。北爆は止んだが、南ベトナムではまだ、北ベトナムに支援を受ける南ベトナム解放民族戦線とアメリカに支援を受ける南ベトナム政府軍とのあいだで戦闘は続いていた。翌1974年8月下旬、私はメコン川が大きく蛇行しているのをカンボジア上空で見たあと、南ベトナムのサイゴン・タンソニャット空港に降り立った。半年後の1975年4月30日、私が半年前に見た大統領官邸に解放戦線が突入し、サイゴンが陥落。ベトナム戦争は終結した。翌1976年、南北両ベトナムが統一され、現在のベトナム社会主義共和国が成立。しかし、1980年代にかけて、ベトナムとカンボジアとの紛争や中越国境紛争などもあり、ベトナムの経済は停滞したままであった。1986年、資本主義経済の導入や国際社会への協調などを提唱したドイモイ(刷新)を発表。1992年、日本のODA(政府開発援助)再開。1995年、ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟。こうしたこともあり、ようやく停滞から抜け出し、経済発展の途についた。2010年にはアメリカとの国交も回復した。

2.初めてハノイへ
2009年5月、私は初めてハノイへ。ハノイではホアンキエム湖近くの安宿(ホテル)に滞在し、ハノイ中を散策した。訪れた場所は以下の通り(ガイドブック掲載順)。ホー・チ・ミン廟、ホー・チ・ミン博物館、ホー・チ・ミンの家、ハノイ大教会(セント・ジョセフ教会)、タイ湖(西湖)、鎮武観(ちんぶかん、道教寺院)、文廟(孔子廟)、歴史博物館、革命博物館、軍事博物館、ホアロー収容所(フランスによって造られた監獄)、市劇場(フランス風建築)、旧家保存館、ドンスアン市場、水上人形劇場、ハノイ駅、トンニャット(統一)公園、ホアンキエム湖と玉山祠(ぎょくさんじ、「神社」)、旧市街など(記憶の範囲で)。ノイバイ国際空港(ハノイ郊外)への往復を除いて、ほとんど乗り物に乗らず、歩いてめぐった。印象に残ったのはやはり、ホアンキエム湖周辺の静寂と旧市街の喧騒。上野の不忍池とアメ横周辺のよう(湖と池の、規模の違いはあるが)。人々の生活を垣間見ることができた。米軍機による北爆の跡は見られず、みごとに復興を遂げていた。モノがあふれる日本の都市とは異なり、悠々と流れる時間に人々の生活の「豊かさ」を感じた。

<写真>Hoan Kiem Lake in Hanoi, May 2009
Hoan Kiem Lake in Hanoi
<写真>The Old Quarter in Hanoi, May 2009
Old City in Hanoi

ベトナムの街角から サイゴン ホーチミン市

1974年8月、ホンコン・シンガポール・マレーシア・タイを経由して南ベトナムのサイゴンを訪れた。南ベトナムは当時、いまだ戦闘状態にあった。その後2009年5月、私はハノイを経由して、ホーチミン市、メコン川、ホイアン、フエを訪れた(再びハノイへ)。1974年と2009年の写真をもとにフォトムービーを作成した。

ベトナムの街角から ハノイ

2009年5月、私は初めてハノイを訪れた。このときに撮った写真をもとにフォトムービーを作成。ハノイではホアンキエム湖近くの安宿(ホテル)に滞在し、ハノイ中を散策した。訪れた場所は以下の通り。ホー・チ・ミン廟、ホー・チ・ミン博物館、ホー・チ・ミンの家、ハノイ大教会(セント・ジョセフ教会)、タイ湖(西湖)、鎮武観(ちんぶかん、道教寺院)、文廟(孔子廟)、歴史博物館、革命博物館、軍事博物館、ホアロー収容所(フランスによって造られた監獄)、市劇場(フランス風建築)、旧家保存館、ドンスアン市場、水上人形劇場、ハノイ駅、トンニャット(統一)公園、ホアンキエム湖と玉山祠(ぎょくさんじ、「神社」)、旧市街など。

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR