ヘボン ヘボン式ローマ字

1.ヘボン式ローマ字
「ヘボン式」ローマ字の「ヘボン」とはもちろん人名。「ヘボンの名は正式にはジェームス=カーチス=ヘップバーン James Curtis Hepburnであるが、わが国では、一般にヘボンと呼ばれ、ヘボン自らもその著『和英語林集成』に『平文』と書いている。」(注1)「ヘボンの名は、今日では、ヘボン式ローマ字だけで記憶せられているが、幕末から明治中期にかけて、施療事業・和英辞書の編纂・英学塾の開設・聖書の翻訳・教会の建設・明治学院の創立など、数々の輝かしい功業をたて、近代日本文化に不朽の足跡を残した。」(注1)宣教師(宣教医)ヘボンにとって、無償の医療行為、和英辞書の編纂、聖書の翻訳などはすべて、「東洋伝道」の使命を果たすためであった。日本語の習得、辞書の編纂などには、どうしても日本語のローマ字表記が必要であった。長くなるが、前掲書(注1)から再び引用してみる。「『和英語林集成』編集のおり、外国人に日本語をたやすく発音せしめ、理解せしめたいところからローマ字を採用した。……ヘボンの辞書は維新当時から明治時代にかけて非常によく売れ、……和英・英和辞書としては代表的なものとなった。このヘボンの辞書に書かれていたローマ字が、そのころから時代の脚光を浴びて普及するようになった。それでローマ字をヘボン式ローマ字というようになった。……明治18年に日本人の識者の間で『羅馬(ローマ)字会』ができ、ヘボン式ローマ字を修正して標準式ローマ字を発表し、ヘボン博士もその顧問となり……標準式ローマ字すなわち世にいうヘボン式ローマ字がさらに一般に用いられるようになった。」

2.ヘボン式と訓令式の対立
ところが1885年(明治18年)、カナの「五十音図に規則的に対応した」日本式ローマ字が発表される。「ヘボン式と日本式が対立して混乱していたのでローマ字を統一しようということになり」、1937年(昭和12年)、内閣訓令により「日本式を基礎にヘボン式を多少取り入れた」訓令式ローマ字が定められた。戦後、GHQが町名や都市名の標識を、Chiba Cityなどのようにヘボン式ローマ字と英語で表記するように指令したため、ヘボン式ローマ字が「復権」(注2)。こうしてヘボン式と訓令式の、いずれのローマ字表記を用いるかをめぐってふたたび混乱。1954年(昭和29年)にあらためて文部省訓令により新たな訓令式を公式のローマ字とすることが定められた(注3)。今日まで、日本語のローマ字表記は、ヘボン式と訓令式、およびそれぞれの変種が併存し、統一された表記はない。それどころか、ヘボン式と訓令式のいずれを用いるべきであるかをめぐって、激しい対立が続いてきた。 

(注1)高谷道男『ヘボン』(吉川弘文館人物叢書)
(注2)「GHQによる日本語のローマ字化」(Webサイト)
(注3)「ローマ字あいうえお~訓令式」から要約(Webサイト)
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東南アジアと「ローマ字」

<写真>
①A マーライオン公園 1974年(シンガポール)…「危險! 請勿進入」
Merlion1974b
①B マーライオン公園 2008年(シンガポール)
Merlion20017b
⇑写真①Aは、「危險! 請勿進入」(DANGER! KEEP OUT)の「掲示版」(1974年8月、シンガポールで撮影)。シンガポールの公用語は、英語、中国語、マレー語、タミル語(インド南部の言語)の4つ。シンガポールの人たちは、学校や職場、公共の場ではおもに英語を話し、家庭ではそれぞれの「母語」(出身地の言語)を話す(注1)。「掲示板」(写真①A)の上から4番目がマレー語で、「ローマ字」(the Roman alphabet)で表記されている。東南アジア11か国のなかで、自国語の標準表記に「ローマ字」を用いている国は7か国(注2)。これら諸国の「ローマ字表記」は、19世紀からの欧米列強による植民地支配と密接に関係している。というのは宗主国(統治国)のいずれの言語も、「ローマ字」(ラテン文字)を用いているから。なお、「請勿」は「 ~しないでください」という意味。写真①Bは2008年3月撮影。

②マレーシア国立博物館(マレーシア)…マレーシアの「ローマ字」
National Museum1
National Museum2
⇑写真②上はマレーシア国立博物館。下の掲示板の最上部に書かれている「MUZIUM NEGARA」(マレー語)は、国立博物館の意味。その下からはマレー語と英語で表記されている。2008年3月撮影。

③A ベトナム-ドイツ友好病院(ベトナム)…ベトナムの「ローマ字」
越独友好病院
③B ハノイ市劇場(ベトナム)…ベトナムの「ローマ字」
ハノイ市劇場b
⇑写真③Aは、左はベトナム語、中央はフランス語、右は英語でそれぞれ書かれている。英語をみると、「ベトナム-ドイツ友好病院」であることが分かる。写真③Bはハノイ市劇場。右上と左上に見える Nhà hát Lớn Hà Nội は「オペラハウス ハノイ」の意味。ベトナム語には母音が多いため、「ローマ字」(ラテン文字)に補助記号をつけて書く。それぞれ2009年5月撮影。

(注1)「ほとんどの中国系住民の本来の母語が広東語などの地方語である」ため、「彼らにとり二言語政策は現実には三言語政策に等し」い(池端雪浦編『東南アジア史Ⅱ島嶼部』山川出版社)。というのは、中国系住民にとって第一言語は英語、第二言語は「中国語」だが、各家庭では出身地の言語(広東語などの「母語」)を話しているためである。なお、シンガポールでは「中国語」を「華語」(Mandarin)と表記し、「北京語音を標準とした標準中国語」のことを指す。
(注2)東南アジアでローマ字を用いていない国は4か国(タイ・カンボジア・ラオス・ミャンマー)。東南アジアの植民地支配国は以下の通り(すべて現在の国名で記す)。ミャンマー(独立当時はビルマ)・マレーシア・シンガポール・ブルネイはイギリス、ベトナム・カンボジア・ラオスはフランス、インドネシアはオランダ、東チモールはポルトガル(のちインドネシアが占領)、フィリピンはスペイン(米西戦争後、アメリカ)であった。なお、タイは英仏の「緩衝国」として唯一独立を保った。

漢字廃止とローマ字

1.国語表記と漢字
日本語の表記には、漢字・仮名文字・算用数字(アラビア数字)のほか、補助的にローマ字を用いている。漢字を「文字」として認識したのは紀元3世紀ごろ(邪馬台国の時代)のこと(注1)。仮名文字を使用するようになったのは平安時代。算用数字は、「江戸末期に一部で使われ始め、明治初期に学校教育とともに普及した」(注2)。ローマ字の使用は「16世紀後半、室町時代末」のこと。来日したイタリア・ポルトガルの宣教師たちが日本語の表記に用いている(注3)。他方、漢字を廃止し、仮名またはローマ字を国字とする考え方は幕末・維新の頃からあり、また明治時代から「漢字節減運動」や「漢字制限運動」も展開されてきた(注4)。第二次世界大戦後も、GHQ([連合国軍最高司令官]総司令部)による「日本語ローマ字表記計画」があり、日本人の著名な学者・小説家や、日本の新聞社が漢字廃止に賛成している。

2.漢字廃止とローマ字
こんにち「漢民族を主な住民としていない国で漢字を使っているのは日本だけであり、朝鮮半島およびベトナムではすでに漢字の使用は事実上消滅している」(注4)。長くなるがWikipediaの「漢字廃止論」(注4)より、GHQによる「日本語ローマ字表記計画」を引用してみる。

「太平洋戦争終結後、1948年(昭和23年)に『日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている』という偏見から、GHQのジョン・ペルゼルによる発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。そして正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)。1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした日本初の全国調査『日本人の読み書き能力調査』が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、『識字率が低い結果でないと困る』と遠回しに言われたが、柴田は『結果は曲げられない』と突っぱね、日本語のローマ字化は撤回された。」

日本語のローマ字表記には次のような欠点がある。ローマ字は「漢字に比べ、読むのにはるかに時間がかかる」(注4)。また日本語をローマ字で表現すると、どうしても「長くなる」。「同音異語の言葉をどうしたら区別できるか」などという問題もある(注5)。江戸時代の人々は、昌平坂学問所(官立)や藩校、私塾、寺子屋(庶民)などで教育を受けていた。幕末の日本人の識字率はとても高く、日本語のローマ字化はそう簡単なことではなかった。上記の「識字率調査」(1948年)でも、「全国平均が78パーセント」という高得点であった(注5)。こうした日本人の「識字率の高さ」が、幕末・維新以降に、英・仏による植民地支配を防ぎ(注6)、日本語のローマ字化を阻止した、と言っていいかもしれない。

ひるがえって、今日の、日本の教育の現状をどう考えるか?「子供の6人に1人が貧困状態にある」(日本経済新聞、2016年1月8日)。「経済協力開発機構(OECD)は15日、2013年の加盟各国の国内総生産(GDP)に占める学校など教育機関への公的支出の割合を公表……。日本は3.2%で、比較可能な33カ国中、最下位のハンガリー(3.1%)に次ぐ32位」(日本経済新聞、2016年9月15日)。「海外留学者数、加盟国中ワースト2位 『内向き』志向が原因?(OECD報告書『図表でみる教育2013年版』)」(The Huffington Post、2013年7月15日)。「日本の科学研究はこの10年間で失速している――。英科学誌「ネイチャー」が23日付の最新号で日本の科学力の低下を指摘する特集を掲載した。」(日本経済新聞、2017年3月26日)。……

(注1)「漢字文化資料館」(大修館書店Webサイト)
(注2)蘭学入門書の、大槻玄沢著『蘭学階梯』(らんがくかいてい)第2巻(1783年)において、アラビア数字が紹介されている(ブリタニカ国際大百科事典)。次のWebサイト1Webサイト2も参照のこと。
(注3)「日本語におけるローマ字の歴史」(Webサイト)
(注4)「漢字廃止論」(Wikipediaより)
(注5)「『疾病』誤読、日本語ローマ字化阻止」(Webサイトより)
(注6)フランスは幕府を、イギリスは薩長を支援
幕末、幕府はフランスの協力を得て幕政の立て直しを図ろうとしていた。一方、薩摩藩は薩英戦争で攘夷が不可能なことを知ると、イギリスに接近し、武器の輸入や洋式工場の建設などの改革を進めた。こうして「イギリスとフランス両国は対日政策で対立することになり、朝廷・雄藩と幕府の対立と絡みあって外国勢力の介入の危険が高まった」(『詳説日本史研究』山川出版社)。

<参考>文化庁「国語施策百年史」(Webサイト)
斎藤康雄「識字能力・識字率の歴史的推移―日本の経験」(PDF)
角知行「『日本人の読み書き能力調査』(1948)の再調査」(PDF)

横浜 山手西洋館

1.横浜山手西洋館
幕末、日本の開国にともない横浜村(東海道から外れた、わずか80数戸の寒村)に外国人が暮らすための居留地が設けられた。JR根岸線関内駅より海側(現在の山下町など)に相当する。その後、この地が手狭になったので山手地区(現在の山手町など)にも外国人居留地が造られた。この地区の、山手本通りという一本の通りに多くの西洋館が建てられる。現在まで残る建物は関東大震災後のもので、第二次世界大戦中に空襲を受けなかったため、横浜山手地区に歴史的な建造物が多数残された。なお、全国各地の居留地は、通商条約改正(1894年)の実施(1899年)にともない、いっせいに返還された。これ以降、外国人は「内地雑居」が認められ、旅行の制限も解除された。

2.横浜山手地区散策
JR根岸線石川町駅で下車。山手イタリア山庭園へ向かう。明治時代、この地にイタリア領事館が置かれたため、イタリア山と呼ばれている。この庭園に、1993年にブラフ18番館(カトリック山手教会の司祭館、写真①)、1997年に「外交官の家」(写真②)が移築された。この庭園を出て、山手本通りを北へ向かう。カトリック山手教会、ベーリック・ホール(旧ベーリック邸、写真③)、エリスマン邸(写真④)、山手234番館(外国人用の集合住宅)などを経て外国人墓地へ至る。外国人墓地資料館は埋葬者の業績を紹介する資料を展示。墓地内は非公開(公開される日もあるが、確認が必要)。さらに北へ向かうと港の見える丘公園へ。ここには横浜市イギリス館(旧イギリス総領事公邸)と山手111番館(アメリカ人実業家邸宅)などがある。展望台からは横浜港、ベイブリッジ(写真⑤)などを見下ろすことができる。ここからみなとみらい線元町・中華街駅へ。元町通りを経てJR石川町駅へ戻る。元町通りにある商店街は150年以上の歴史をもつ。横浜開港にともない横浜村に住んでいた住民が現在の元町(山手の麓)に移住。明治にはいると、山手と山下の両居留地に住む外国人向けの商店街として栄えるようになった。

<参考>
横浜山手西洋館マップ」(公益財団法人横浜市緑の協会の公式サイト)はダウンロード可能。
『神奈川県の歴史散歩(上)』(山川出版社、歴史散歩14)

<写真>
①ブラフ18番館(カトリック山手教会の司祭館)
ブラフ18番館
②山手イタリア山庭園にある「外交官の家」(もと明治政府外交官の家)
外交官の家2
③ベーリック・ホール(旧ベーリック邸)
ベーリック・ホールa
④エリスマン邸(エリスマンは、スイス生まれの、生糸貿易商社の横浜支配人)
エリスマン邸B
⑤港の見える丘公園から見たベイブリッジ
港の見える丘公園 ベイブリッジ

横浜開港 横浜三塔

1.横浜開港の歴史
①欧米の日本進出
欧米では市民革命を経て、18世紀後半から19世紀にかけて産業革命が進展した。大量生産による安価な商品市場と原料資源の獲得を国外に求めてアジアに進出。こうして欧米列強による植民地獲得競争が始まった。1853年(嘉永6年)6月、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀沖(神奈川県)に来航し、日本に開国を迫った。幕府は久里浜(同県)でアメリカ合衆国大統領フィルモアの国書を受け取り、幕府老中阿部正弘は来春の回答を約束。ところで、ペリーの来航により突然日本が開国を迫られたのではない。それ以前の18世紀後半から外国船が相次いで日本に来航し、開国や通商を求めていた。たとえば1792年(寛政4年)にロシアのラックスマンが、1804年(文化元年)に同じくロシアのレザノフが、漂流民を護送し、通商を求めた。1846年(弘化3年)、アメリカの東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に入港し、開国などを求めた。7年後、ペリーはビッドルの失敗をじゅうぶん研究し、日本に開国をせまった。
②横浜開港
1854年(安政元年)1月、ペリーは7隻の軍艦を率いて再び来航。神奈川(東海道の宿場町・港町)沖に投錨し、開国をせまった。幕府は西神奈川の横浜村(当時は半農半漁の寒村)で交渉し、ついに同年3月、日米和親条約(神奈川条約)を調印。下田(伊豆半島南端)、箱館(のちの函館)の2港を開港し、領事館を下田に設置することなどを取り決めた。同様な条約をロシア、イギリス、オランダとも結んだ。1856年(安政3年)、アメリカ総領事ハリスが下田に領事館を開き、通商条約の締結を求めた。1858年(安政5年)6月、大老井伊直弼は勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を得られないまま日米修好通商条約を締結。このとき、下田・箱館のほか、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港(翌年、神奈川ではなく東海道から離れた横浜を開港、下田は閉港)。さらにオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも修好通商条約を結んだので、安政の五か国条約と総称している。

2.横浜三塔 横浜開港資料館 
横浜市の関内(注)地区には歴史的建造物がたくさんある。とくに横浜三塔(写真上①②③)は有名。横浜市開港記念会館(同「ジャックの塔」、1917年竣工)、神奈川県庁(愛称「キングの塔」、1928年竣工)、横浜税関(同「クイーンの塔」、1934年竣工)の建造物をいう。みなとみらい線日本大通り駅を下車するとすぐ横浜市開港記念会館(現在も公会堂として利用されている)。ついで神奈川県庁、横浜税関へ。横浜三塔の見学を終えると、開港広場(写真中)へ。ここでペリーと幕府との間で日米和親条約が締結された。この広場の隣に、横浜開港資料館(写真下)がある。新館の「展示室1」では、「ペリー来航とその前後の世界情勢や日本、そして横浜のようすを紹介」。同じく「展示室2」では、『横濱毎日新聞』(日本最初の日刊紙)など、「横浜~もののはじめ」などが紹介されている。さらに「企画展示室」では「江戸時代から大正・昭和初期までの横浜の歴史に関わる人物や出来事などに焦点をあて、年4回の企画展示を開催して」いる(資料館のパンフレットより)。なお、旧館は旧イギリス総領事館。有名な「ペリー提督の横浜上陸」図(ハイネ画)に描かれているタブノキ、通称「玉楠の木」(たまくすのき)は、現在でもこの資料館の中庭に存在する(関東大震災で焼失、その後根元より再生)。日米和親条約が結ばれたこの地で当時のことに思いをはせるのもよい。
(注)関内(かんない)…安政6年(1859年)、開港にともない横浜村に外国人居留地が造られる。この「居留地へ通じる橋のたもとに人々の出入りを監視するための関所が設けられた。この関所の内側という意味で『関内』と呼ぶようになった」(横浜開港資料館編『横浜・歴史の街角』)。「関内」という住所表示はなく、行政上の町名では横浜市中区の、港町・尾上町・本町・山下町など、JR根岸線関内駅から海側の地域。伊勢佐木町側は「関外」という。

<写真上>横浜三塔①横浜市開港記念会館、愛称「ジャック」
「ジャック」横浜市開港記念会館
<写真上>横浜三塔②神奈川県庁、愛称「キング」
「キング」神奈川県庁
<写真上>横浜三塔③横浜税関、愛称「クィーン」
「クィーン」横浜税関
<写真中>開港広場
球体には「日米和親条約調印の地」と書かれている。この広場の右側に横浜開港資料館がある。
日米開港の地
<写真下>横浜開港資料館(正面玄関)
中庭に「玉楠の木」(たまくすのき)が見えている。この近くで日米和親条約が結ばれた。
横浜開港資料館正面玄関
<地図>横浜三塔、開港広場
横浜三塔、開港広場

横浜大さん橋 赤レンガパーク 赤レンガ倉庫

1.横浜大さん橋 赤レンガパーク
若いころ、横浜市に4年間住んでいた。勝手知ったるところなので、ときどき写真を撮りに行く。みなとみらい線元町・中華街駅で下車。中華街、次に山下公園へ。この公園に繋留・保存されている日本郵船氷川丸(博物館船)を見学する(ここから徒歩15分のところに日本郵船歴史博物館もある)。氷川丸は日本郵船が1930年(昭和5年)に建造したシアトル航路用の、1万2千トン級の貨客船。山下公園から横浜港大さん橋国際ターミナルへ。ターミナルの建物の2階や屋上の床は、ウッドデッキ(写真上)になっている。現在の大さん橋は2002年(平成14年)に完成(平仮名混じりの「大さん橋」が正式名称)。大さん橋埠頭には国内および外国航路の客船が発着する。クィーン・エリザベス号級の客船が2隻同時に接岸できるという。大さん橋から「象の鼻のテラス」(レストハウス)を経由して赤レンガパークへ。ここに歴史的建造物である、二棟の赤レンガ倉庫がある。帰りは最寄駅であるみなとみらい線日本大通り(にほんおおどおり)駅へ。

2.赤レンガ倉庫
横浜港は明治20年代初頭以降、生糸を中心とする輸出貿易が急増し、輸出品を運んでくる鉄道と船とを直結する船舶の繋留設備が求められるようになった。このため、造られたのが現在の新港埠頭(地図)。その際、二棟の新港埠頭保税倉庫(通称、赤レンガ倉庫)が造られた。鉄道線を引き込み、エレベーターを備え、倉庫前面に貨物の積み下ろしをしやすくするためのプラットホームを設けた。背面にエレベーター塔を備えているため、前面(写真下①)と背面(写真下②)とでは異なった印象になっている。現在、赤レンガ倉庫周辺は赤レンガパークとして整備されている。二棟の赤レンガ倉庫は、ホールを備え、雑貨店や飲食店などが出店して、若者で賑わう横浜の名所のひとつとなっている。なお、南側の第一号倉庫は大正12年(1923年)の関東大震災で中央部が倒壊し、現在は約半分の大きさになっている。

<資料>上記の2は、横浜開港資料館編『横浜・歴史の街角』より自由に引用。
<地図>新港埠頭~山下公園
(地図)横浜新港埠頭
<写真上>横浜港大さん橋国際ターミナル
横浜大桟橋
<写真中>象の鼻のテラス付近からみた「横浜みなとみらい21」
象の鼻のテラス付近①
<写真下>赤レンガ倉庫①前面
赤レンガ倉庫(前面)
<写真下>赤レンガ倉庫②背面
赤レンガ倉庫②
<写真下>赤レンガ倉庫③遠景
赤レンガ倉庫①

プロフィール

yamashiro94

Author:yamashiro94
東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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