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太田記念美術館 表参道

<写真>
下の写真は太田記念美術館(東京都渋谷区)のある表参道で撮影したもの。
①東急プラザ表参道原宿
ショップ、レストラン、カフェなど29店舗がはいる
東急プラザ2017101
⇓東急プラザから見た神宮前交差点
東急プラザ2017102
②表参道ヒルズ
「商業施設、住宅施設、及び駐車場からなる複合施設」
表参道ヒルズ2017101
表参道ヒルズ2017102
表参道ヒルズ2017103
③FENDI(フェンディ)
「イタリア発高級小売店。デザイナーアパレル、アクセサリー、革製品を販売」
FENDI
④Casa d’ Angela
ウエディングサロン
Casa d'Angela

<葛飾北斎と3つの美術館訪問>
2017年10月、すみだ北斎美術館(東京都墨田区)と太田記念美術館(東京都渋谷区)を訪ねた。北斎美術館は「北斎及び門人の作品を紹介するほか、北斎と『すみだ』との関わりなどを分かりやすく紹介して」いる(常設展、パンフレットより)。いっぽう太田記念美術館は「浮世絵専門の美術館」で、「実業家の故・五代太田清蔵が国内外から蒐集したコレクションをもとに設立され」た(パンフレットより)。
 太田美術館では、9月30日から10月29日までの企画展「葛飾北斎 富岳三十六景 奇想のカラクリ」で、「富嶽三十六景」の全46点を一挙に展示。「それぞれの作品に隠されている北斎の奇抜なアイディアを読み解いてい」る(同上パンフレット)。富嶽「三十六景」というが、実際には全部で46図あり、天保2年(1831年)から天保4年(1833年)頃にかけて描かれた。また北斎の3女お栄(画号は応為)の作品、「吉原格子先之図」も公開展示されていた。
 2つの美術館で北斎の作品をじっくり観賞。今回は北斎の絵の構図に注目した。構図の「奇抜なアイディア」に驚く。 

10月下旬、国立西洋美術館で開催中の展示会「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」(企画展示室)も観賞。平日の午後にもかかわらず、かなり混雑していた。みんな行儀よく並んで歩き、作品を観賞する。

以下は朝日新聞「北斎 情念の絵師」(2017年10月4日)より引用。
「画才に恵まれ努力も惜しまず、還暦を過ぎた頃から優れた版画や絵が次々に生み出されてきた。『画狂老人卍』(がきょうろうじんまんじ)と名乗った70代からは肉筆画が増え、特に、数え90歳で他界する最晩年の2年間は傑作ぞろい。絵には『百』の印が押されているのが特徴だ。その印には『百歳まで生き、絵の道を究めて『神の領域』を目指したい』という北斎の情念が込められている。」
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築地 月島

<写真>
写真①築地本願寺
築地本願寺1
築地本願寺2
写真②銅板貼りの民家(築地)
火事で燃えにくいことから銅板が貼られています
築地銅板貼り建築1
写真③カトリック築地教会
東京で最古のカトリック教会
築地カトリック教会
写真④月島もんじゃストリート
この「ストリート」にもんじゃ焼きの店が80店舗以上ある
月島2
月島3
月島4
写真⑤路地の民家と高層マンション 
月島1
<地図>東京都中央区 築地・月島
築地月島地図

東京メトロ地下鉄日比谷線築地駅で下車。まずはじめに築地本願寺へ。「築地本願寺は、浄土真宗本願寺派の直轄寺院……。その発祥は1617(元和3)年、西本願寺(京都)の別院として建立され」た。1657年(明暦3年)の明暦の大火により焼失し、現在の築地へ移転。「1923(大正)12年、関東大震災にともなう火災により焼失したため、……古代インドの仏教様式の外観で1934(昭和9)年に現本堂が落成」した(築地本願寺のパンフレットより)。次に築地6丁目・7丁目(東京都中央区)へ。このあたりには、「関東大震災後、耐火性を重視した銅板貼りやモルタルの建物」が多い(朝日新聞、2017年9月7日夕刊)。「築地は戦災の被害を受けていないので、かつては昭和初期の建物の宝庫であった。」(東京DOWN TOWN STREET 1980’s中央区の銅板貼り建築~その二)銅板貼りの建物を見たあと、聖路加国際病院方面へ歩く。この病院のすぐ近くにカトリック築地教会がある。同教会のパンフレットから次に引用してみる。「1874年、東京で最初の教会として明石町の外国人居留地[注1]に建てられました。キリスト教解禁後の拠点であり、初の東京カテドラル(司教座聖堂)となりました(後にカテドラルは関口に移転されました)[注2]。ゴシック風の壮麗な教会は関東大震災で瓦解し、1927年……ギリシア建築ドリア式の規範によって建てられました。」

晴海通りへ戻り、勝鬨橋(かちどきばし)、勝どき橋駅(都営地下鉄大江戸線)を経て月島(東京都中央区)へ。1980年代後半から始まる都市開発と2つの地下鉄駅の開業により[注3]、今では高層マンションが林立している。月島西仲通り商店街(月島もんじゃストリート)には「もんじゃ焼き」の店が数多く軒を並べている。商店街から狭い路地に少し入ると、昔ながらの民家が建っていて、下町の雰囲気を残している。狭い路地に密集する2階建ての民家と林立する高層マンション……。「最新の東京と古い東京が混在する町……が月島である」(SUUMOタウン「朝と川と月島」より)。帰りは、勝どき橋駅から地下鉄に乗り自宅へ。歩数計によると、1万7000歩も歩いていたことになる。

[注1] 1869年(明治2年)に築地居留地が設けられ、1899年(明治32年)の治外法権撤廃とともに廃止された。
[注2] 「司教座聖堂」とは、「カトリック教会の教区の中心となる教会の聖堂のことで、大聖堂(カテドラル)とも呼ばれている」(Wikipedia「司教座聖堂」)。「関口」に移転した「カテドラル」とは、カトリック東京カテドラル関口教会のこと。東京都文京区関口にある。
[注3] 「2つの地下鉄駅の開業」とは、1988年(昭和63年)の東京メトロ有楽町線月島駅と、2000年(平成12年)の都営大江戸線月島駅の開業のこと。ところで、佃島(つくだじま)と月島は「ひとつの島」のように見えるが、もともとは別々の島であった。隅田川河口の石川島と江戸時代のはじめに造成された佃島が、江戸後期にひとつの島(佃島)になった。明治時代のはじめに、さらに南に埋め立てられて造成されたのが月島。「佃島と月島を隔てていた佃川は、佃大橋の取り付け道路建設のために埋め立てられ、島であった佃島[と月島]は陸続きに」なった(Wikipedia「佃島」より)。佃大橋の完成は1964年8月で、東京オリンピック開催(10月)の直前のことであった。なお、「佃島」という住所表示はなく、現在は「佃」に統一されている。

<参考>
東京DOWN TOWN STREET 1980’s中央区の銅板貼り建築~その二
月島西仲通り商店街
SUUMOタウン「朝と川と月島」

マレーシア イポー

私は2008年4月、かつて錫(すず)鉱業で発展したマレーシアのイポーを訪れた。イポーはペラ州の州都で、首都クアラルンプールから南北高速道路で約200km北にある。イギリスの植民地時代の鉄道駅などが残されており、住民の約7割が中国系の人たちである。

<写真>
①キンタ川
キンタ渓谷はかつて錫(すず)の大産出地であった
キンタ川
②イポー鉄道駅
1917年建設。駅舎の2階と3階がホテル
イポー鉄道駅
③マジェスティック・ホテル・イポー
イポー鉄道駅の2階、3階で営業している
マジェスティック・ステーション・ホテル・イポー
④ペラ・ダルル・リズアン博物館
イポーの歴史や錫(すず)の産出などについて展示
ペラ・ダルル・リズアン博物館
⑤イポー市内
中国系の人たちが多く住む
イポー市内
<地図>マレーシア イポー
イポー市地図

マレーシア イポーと中国人の「移動」

イポーは19世紀のはじめ、キンタ川の流域にある村として誕生。同世紀の中ごろからキンタ渓谷で「本格的な」錫(すず)鉱の採掘がはじまった。20世紀はじめにイギリスの錫鉱業会社が相次いで設立されると、町は急速に発展をとげ、「数万人規模で中国人労働者が相次いで入植」。こうしてイポーは「英国の植民地時代にマレーシア第二の都市となった」(注1)。現在、イポーの住民の約7割(2010年統計)が中国系であるのは、このためである(注2)。

中国系の人たちは、なぜこのように「大量に」海外へ「移動」したのであろうか。

現在、(中国本土を除いて)「全世界に住む中国人はおよそ2500万人で、その85%が東南アジアに住むという」(参考①)。すでに12世紀から16世紀にかけて、中国人たちは小規模な海外移住をしていた。ところが19世紀半ばから20世紀はじめにかけて、汽船の定期就航もあって、大規模な「移動」を開始する。19世紀に黒人奴隷制度が廃止され、1842年の南京条約により清朝の「海禁」(鎖国政策)が終わると(注3)、黒人奴隷に代わる労働力として海を渡ることになった。マレー半島のイギリス領海峡植民地(注4)の錫鉱山、カリブ海のサトウキビ・プランテーション、アメリカの大陸横断鉄道建設など、多くの中国人が安価な出稼ぎ労働力として使役された(注5)。

次に長くなるが、川崎有三著『東南アジアの中国人社会』より以下に引用してみる。
「大量移住によってもたらされた中国人移民はおもに肉体労働にたずさわる人びとであった。マラヤ地域における錫鉱山労働者、タイにおける鉄道建設のための労働者などがその例である。中国本土においてほとんど社会の底辺にあったような貧しい農民、労働者たちが、契約労働者として送り込まれ、激しい労働に従事させられ、阿片に一時の安らぎをうるような過酷な生活をしいられたのであった。移民のなかなには現地に送り込まれる船のなかで死亡したり、あるいは現地の激しい労働にたえきれず、また熱帯の伝染病でその命を落とす者も多かった。彼らは『瀦子』(ちょし)と呼ばれ、家畜同様の扱いを受け、また『苦力』(クーリー)と呼ばれることも多かった。もちろん東南アジア以外にも世界のさまざまな地域に中国人労働者たちは進出した。ちょうど、奴隷貿易が禁止され、適当な労働力の調達先を求めていたイギリスなどのヨーロッパ諸国は、中国人やインド人たちをその代替にして積極的な移住政策をとっていた。彼らは単身の男子であり、本土を離れてしばらく出稼ぎに行くという感覚で渡航していった。こうした移民たちのなかには、数年ののちに本土へと帰国する者も多かったが、なかには長く住みつく者たちもいた。」(参考②)ところが、現地に定住した中国系の人たちは再び、「差別に抗して、または子弟の教育を考えて、第二、第三の安住地へと移る」(参考①)。こうして、人はまた「移動する」。

「1820年代から1920年代の100年、中国から東南アジアへむかった移民の総数は約1000万人、うち現地に定住化した数は300万人くらい。」同時期、「西欧や東欧からアメリカ大陸への白人移住」は、「延べ5000万人」にものぼる(参考①)。中国人だけが「大量に」移動したのではない。日本人も明治以降、多くの人たちが海外へ移住した(注6)。

交通や通信が飛躍的に進歩した今日、人は今まで以上に「移動」する。こうして、次の世紀には、民族や人種を問題とすることのない世紀になる。歴史や文化、言語などは大切にしつつ……。そう、願わないわけにはいかない。

(注1)Wikipedia「イポー」より
(注2)1970年代に錫鉱山が閉鎖されるまで、イポーはマレーシアの主要な錫産出地であった。なお2010年現在、イポーの人口はマレーシア第6位(約70万人)である。「マレーシアの歴史~スズ鉱産業」(Malaysia Life)および「マレーシア都市リスト」より。
(注3)南京条約……1842年にアヘン戦争を終結させるため、清とイギリスが結んだ講和条約。海外渡航が解禁され、海外移住が自由になった。「海禁」の正式な解除は1893年。
(注4)海峡植民地……イギリス本国の直轄地。ペナン、マラッカ、シンガポールなど。
(注5)「海禁/海禁政策」「南洋華僑/華僑」(Webサイト「世界史の窓」より)
(注6)日本人の海外移住(「JICA横浜海外移住資料館」のWebサイトより)
「日本人の海外移住は、1866年に海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれてから、すでに100年以上の歴史があります。ハワイ王国における砂糖きびプランテーションへの就労に始まって、アメリカ、カナダといった北米への移住、そしてその後1899年にはペルー、1908年にはブラジルへと日本人が渡ります。そして、1924年にアメリカで日本人の入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移っていきます。その結果、第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人が移住しています。」日本政府の移住政策に多くの「不備」があり、「国策による日本人の海外移住は国家から邪魔者扱いされ見捨てられた『棄民』である」とする著書もある(参考③)。

<参考>
①斯波義信『華僑』
②川崎有三『東南アジアの中国人社会』
③アルベルト・松本「日本人の海外移住、100年以上の足跡とは」(Webサイト)、遠藤十亜希著『南米「棄民」政策の実像』

マレーシア クアラルンプール  

<写真>2007年または2008年に撮影
写真①マラッカの旧バスターミナル
マラッカ 旧バスターミナル
写真②YMCAホステル(以下クアラルンプール)
KL YMCAホステル
写真③バトゥー洞窟
バトゥ洞窟
写真④国家記念碑
マレーシア独立戦争(1948年から12年続いた)で亡くなった兵士たちの功績を称える記念碑
KL国家記念碑
写真⑤国立博物館
マレーシアの伝統を取り入れた宮殿風の建物
国立博物館
写真⑥マレー鉄道事務局ビル(ザ・ヘリテージ・ステーション・ホテル・KLより撮影)
マレー鉄道事務局ビル
写真⑦旧連邦事務局ビル(国立歴史博物館より撮影)
旧連邦事務局ビル
写真⑧マスジッド・ジャメ
クアラルンプールにある最古のモスク。マスジッド・ジャメ駅のホームより撮影
マスジッド・ジャメ
写真⑨クアラルンプール鉄道駅
1910年イギリスがつくった歴史的建造物。シンガポール~クアラルンプール~バンコクを結ぶ
KL鉄道駅
1974年8月、マラッカのバスターミナル(写真①)からクアラルンプールのプドゥラヤ・バスステーションへ移動。YMCAホステル(写真②)で泊まる。翌日、前日にマラッカからのバスで隣り合わせた女子学生と、その友人の女子学生の、ふたりの案内で、クアラルンプール市内を巡る。正確には思い出せないが、バトゥー洞窟(写真③)、国家記念碑(写真④)、国立博物館(写真⑤)などへ行く。翌日以降ひとりで、マレー鉄道事務局ビル(写真⑥)、国立モスク、旧連邦事務局ビル(写真⑦)、マスジッド・ジャメ(モスク、写真⑧)などを訪れる。数日間滞在したのち、クアラルンプール鉄道駅(写真⑨)からタイのバンコクへ寝台列車で向かう。マレーシアではひとりの日本人にも出会わなかった(少なくとも気がつかなかった)。はじめてイスラム文化や植民地文化などの異文化に触れたが、その体験は鮮烈であった。

1974年当時、私は東南アジアの経済について勉強をしていた。とくに、シンガポール・マレーシア・タイ・ベトナム。2007年と2008年にも、合計5週間ほどシンガポールとマレーシアに滞在した。