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三富新田 埼玉県

 埼玉県の三芳町と所沢市の両地域にまたがる三富新田(注)へは、東武東上線鶴瀬駅からバスで約10分。高速道路を利用する場合は、関越自動車道所沢インターより約10分。今回は車で行く。まず最初に三芳町歴史民俗資料館へ。「資料館の展示は、武蔵野の開拓で知られる三芳の歴史『拓(ひら)く』をテーマとし祖先が不毛の大地に立ち向かい、たゆまぬ努力と知恵を絞り、豊かな土地をつくり上げてきた様子を紹介してい」る。(資料①)   
次に旧島田家住宅へ。「江戸時代文化・文政期(1804~1829)に建築されたと考えられる茅葺屋根の民家住宅で、畑作新田として知られている三富の開拓が、さつまいもの導入により豊かになったことを証明してくれる大型の家屋……。」(資料②)
次に多福寺(たふくじ)と多聞院(たもんいん)へ。川越藩主の柳沢吉保(よしやす)は、「元禄7年(1694年)、菩提寺として多福寺を、祈願所として毘沙門社(びしゃもんしゃ)(別当寺 多聞院)の一寺一社を創建した」。(資料③)ここで駐車し、開拓当時の地割を見るため、歩いて散策する。訪れたのが冬なので、ほとんど作物がなく、短冊状の耕地は判然としない。航空写真で見ると、地割の様子がはっきりと分かる(写真⑦)。
武蔵野台地にある三富地域は水の得にくい洪積台地上にあり、新田の開発は困難をきわめた。「……(台地の)上部が厚い関東ローム(火山灰)におおわれ、その下部にも厚い砂礫層があって、地下水が浸透するため、水に恵まれず、周縁部以外は長い間、無住地として開発されずにいた。近世になってはじめて耕地拡張の必要にせまられて台地面上が開発された。開発のためには水、特に飲用水の確保が必要で」、この地域では深井戸が掘られた。(資料④)
<注>
「三富」(さんとめ)のうち、上富は三芳町、中富・下富は所沢市にある。

<写真>
①三芳町歴史民俗資料館
三芳町歴史民俗資料館
②旧島田家住宅
旧島田家住宅1
⇓「三富開拓地割遺跡之碑」(石碑左)
旧島田家住宅2
③多福寺
多福寺1
⇓「三富開拓之地、農民之菩提寺」(石碑)
多福寺2
④多聞院(たもんいん)
多聞院
⑤神明社
神明社
⑥「中富」の耕地
⇓右上に見える建物(一部)は所沢市立中富小学校
仲富の耕地
⑦中富地域の地割(航空写真:Googleより)
三富新田3b
 「開拓地割は、幅六間(約11メートル)の道路を縦横に作り、この道路に面して、農民一戸あたりに約五町歩(約5ヘクタール)の短冊型の耕地を配分し」た。「そして道路に面した表口を屋敷地とし、その後方に畑を、さらにその後方には雑木林(平地林)を配置し、ここから燃料となる薪(たきぎ)、肥料用の落葉や下草を確保」した。(資料⑤)農家のまわりは屋敷林(防風林)で囲まれている。上の写真⑦(右側が北西)からも細長い地割が、①道路-②屋敷地-③畑となっているのが分かる。左上に所沢市立中富小学校が小さく見える。

<地図>
航空写真 中富地域の地割り
<資料>
①三芳町「歴史民俗資料館」(Webサイト)
②三芳町「旧島田家住宅」(Webサイト)
③所沢市「多聞院毘沙門堂」(Webサイト)
④農業農村整備情報総合センター「新田村落の典型、武蔵野」(「大地への刻印」より)
⑤所沢市「三富開拓地割遺跡」(Webサイト)
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新田開発(1)三富新田 埼玉県

 角川書店の『新版日本史辞典』によると、「新田開発」とは次のようである。「新田開発」とは、「新たに田を開発する意だが、歴史的には近世に行われた屋敷地も含めた田畑の新たな開発をいう。……織豊期-江戸前期に盛んに行われ、中期にやや停滞し、後期に再び盛んに行われた……。また地域的には、全国各地で行われたが、畿内とその周辺地域では少ない。この結果、近世を通じて耕地は2倍に増加した。その方法としては、用水路や溜池(ためいけ)を築いて開発するもの、湖沼や低湿地・海岸を干拓して開発するものなどがあった」。
 三富新田は埼玉県の三芳町と所沢市にまたがる新田。今でも開拓当時の地割を見ることができる。この地域にある「三富開拓地割遺跡は、……江戸時代に行われた新田開拓の地割跡で、埼玉県の旧跡に指定されている」。ところで「開拓以前の三富地域(注①)」は、「広大な萱野原が広がっており、周辺の村々の入会地(注②)として、肥料を作る落葉や馬のエサとなる草、燃料にする薪(たきぎ)などを取るために共同で利用され、村の生活を支える大切な場所」であった。
 「元禄7年(1694年)、川越藩主となった柳沢吉保(よしやす)は、長年争いを続けてきた入会地が幕府によって川越藩領と認められたため」、現在の埼玉県三芳町上富(かみとめ)付近を中心とした「周辺地域の開発に着手し」た。「元禄9年(1696年)5月には開拓地の検地が行われ、上富・中富・下富の三村が誕生」する。(以上、資料①)「また、吉保は、入植者を求める一方で、開拓農民の心の拠り所とするため、菩提寺として多福寺を、祈願所として毘沙門社(別当寺 多聞院)の一寺一社を創建し」た(注③)。(以上、資料②)
 柳沢吉保は「野火止用水の例にならって、箱根ヶ崎(注④)の池から水をひこうと試み」たが、「結局失敗に終わった」。「そこで、三富全域で11か所の深井戸(約22メートル)が掘られ、数軒が共同で利用」していた(注⑤)。(資料③)

<注>
注①「三富」(さんとめ、さんとみ)は、埼玉県三芳町(上富)と所沢市(中富・下富)にまたがる地域の総称。
注②入会地(いりあいち)とは、一定地域の住民が、特定の山林や原野などを共同利用する土地。
注③菩提寺とは、先祖の遺骨を葬り、死者の冥福を祈るお寺。祈願所である毘沙門社(びしゃもんしゃ)は神社。この神社を管理する寺院を「別当寺」などと呼んでいる。ここでは多聞院(たもんいん)のこと。明治の神仏分離令によって、境内の西側は神社(神明社)、東側は寺院(多聞院)としてそれぞれ独立し、今日に至っている。
注④現在の東京都西多摩郡瑞穂町。
注⑤武蔵野「台地北半<三富新田など>の新田集落は……深井戸」によって、「台地南半<武蔵野新田など>の新田集落は多くが玉川上水およびそれにより分派する支流用水」によって水を得ていた(資料④)。

<資料>
①所沢市「三富開拓地割遺跡」(Webサイト)
②所沢市「多聞院毘沙門堂」(Webサイト)
③三芳町「三富新田の開拓」(三富町立歴史民俗資料館パンフレット)
④菊地利夫著『新田開発(改訂増補)』(1977年)
⑤三芳町立歴史民俗資料館編『三芳の歴史』

冬の公園(1)都立野川公園

「野川公園の前身は、国際基督教大学のゴルフ場で……昭和49年<1974年>からゴルフ場を<東京都が>買収……。」その周辺の神代植物公園、武蔵野公園などを含めて造成が行われ、昭和55年(1980年)に開園した。野川「公園は、調布、小金井、三鷹の三市にまたが」り、野川公園と武蔵野公園はともに「国分寺断崖(注)に接し、豊かな自然がのこされている……」。野川公園へは、西武多摩川線新小金井駅から徒歩で15分。三鷹駅などからバスで行くこともできる。車で行く場合、有料の駐車場もある。ただ野川公園と武蔵野公園の両方を散策する場合は、両公園のほぼ中間にある、武蔵野公園の駐車場(有料)を利用するのがよい。
資料は都立野川公園(「むさしのの都立公園」より)

<写真>
1.都立野川公園
⇓東八道路の南側
野川公園201801
野川公園南側201801-2
⇓東八道路の北側(橋の下は野川)
野川公園201803
⇓野川公園の自然観察園、国分寺崖線のすぐ下
野川公園4
2.都立武蔵野公園
⇓野川の北側、国分寺崖線のすぐ下
武蔵野公園02
⇓写真右に野川が流れている(写真では見えない)。左に国分寺崖線が少し見えている
武蔵野公園201801
武蔵野公園201803
<注>
「国分寺断崖」の「断崖」とは河岸段丘の「段丘崖」のことで、段丘崖は森林、段丘面には畑地や集落が見られる。ここでは多摩川が武蔵野台地を侵食して段丘と断崖を形成した。東京都環境局のWebサイトには、立川崖線と国分寺崖線について詳しく書かれている。「立川崖線と国分寺崖線は、古代多摩川が南へと流れを変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた、河岸段丘の連なりである。崖線には湧水が多く、市街地の中の親水空間(※)として、また野鳥や小動物の生活空間として貴重な自然地となっている。
立川崖線はJR青梅線青梅駅付近から調布市と狛江市の市境あたりまで続いている、延長約40㎞の段丘崖である。下流ではほとんど高さがないが、上流部の立川付近では15m程度の高さとなっている。国分寺崖線は立川市砂川九番から始まり、東南に向かって野川に沿って延び、東急線双子玉川駅付近で多摩川の岸辺に近づいて、以後多摩川に沿って大田区の田園調布付近まで続いている。延長は約30㎞で、上流の立川ではほとんど高さがないが、都立府中病院<現都立多摩総合医療センター>付近では15mほどに高さを増し、世田谷区の成城学園から下流では20mを超える高さとなる。」(東京都環境局「28 立川崖線・29 国分寺崖線」より)
(※)親水空間…整備された川辺の遊歩道などで、水や川に対する親しみを深める場所。

ムービー アデレード メルボルン

2013年3月にオーストラリアのアデレードとメルボルンに半月ちょっと滞在したときの「ムービー」です。

「フォト」ムービーも作成しました。
①アデレード

②メルボルン

なお、アデレードとメルボルンの滞在記に関してはこのブログでも掲載したのでそちらを見て欲しい。
①アデレード…2017年12月8日、12月15日
②メルボルン…2018年1月5日、1月12日

オーストラリア メルボルン(2)

5.サウスメルボルン
①サウスバンク
フリンダース・ストリート駅の南側、ヤラ川南岸のウォーターフロントエリア。川沿いのプロムナード(遊歩道)にはショッピングモール、高層ホテル、レストラン、オープンカフェなどが並び、散策するだけでも楽しい。
⇓プロムナードからヤラ川を望む
サウスラヤ
⇓オープンカフェ
サウスバンク
②キングスドメイン周辺
シティの南東、ヤラ川の南岸の一地区をキングスドメインという。ここには、キングスドメイン公園のほか、クイーンビクトリアガーデンや王立植物園などがある(植物園は1846年創立)。
③サウスヤラ
シティの南東に位置し、洗練されたブティックや高級レストランが並ぶ。メルボルンの上流階級が代々所有していたというコモハウスは、テラスハウスの原形と言われ、邸宅とその庭園は見ごたえがある。
④セントキルダ
メルボルンの南西に位置するセントキルダは19世紀からのビーチリゾート。マリーナがあり、レストランやカフェが点在し、散策したり、のんびりしたりするのに最適。
セントキルダ1
セントキルダ2
6.ブライトン
ビーチ沿いにサイクリングロードや遊歩道が整備されている。ビーチの反対側は高級住宅地。ビーチから、13km北向こうにメルボルンシティの姿が見える。
ブライトンビーチ1
ブライトンビーチ2
ブライトンビーチ3
ブライトンビーチ3
7.グレートオーシャンロード
オトウェイ国立公園(1億5000万年前の温帯雨林が残されている)とアンガフック・ローン州立公園(野生のコアラやカンガルーの生息地)を経由して、奇岩(「12人の使徒」)が点在するポートキャンベル公園へ至る。
グレートオーシャンロード1
グレートオーシャンロード2
グレートオーシャンロード3
8.ヤラバレー
メルボルンから東へ約60km、車で約1時間。大小さまざまな約40のワイナリーが点在する。ワイナリー巡りツアーで必ず立ち寄る場所がドメイン・シャンドン。
⇓ドメイン・シャンドン
ドメインシャンドン
 私は2013年3月、メルボルンに8日間滞在し、メルボルンのシティ(中心街)ばかりでなく、ノースメルボルン、イーストメルボルン、ドックランズ、サウスバンク、サウスヤラ、セントキルダなどを歩き回った。メルボルンは「ガーデンシティ」と呼ばれるだけあって、たくさんの公園がある。市の面積の4分の1を公園が占めるという。無料で乗れるトラム(シティサークルトラム)やツーリストシャトル(市内の観光スポットを南北に走る無料バス)を利用すればたいていの観光地へ行ける。郊外のブライトンへは鉄道(V/Line)を利用。またヤラバレーやグレートオーシャンロードへはバスツアー(注)を利用した。これ以外の場所へは行かず、市民の生活ぶりをじっくり歩いて見てまわった。以上、(『地球の歩き方~オーストラリア』と『地球の歩き方~シドニーとメルボルン』('07~’08年版)のそれぞれから引用。
(注)バスツアー「Mr.ジョンツアー」
少人数で親切で日本語で案内してくれる。日本人のガイドもいて安心。「少人数」であるのは、日本人の観光客が少ないためであろう。ジョンさんも日本に滞在していたことがある。

<資料>
①『地球の歩き方~オーストラリア』('07~’08年版)
②『地球の歩き方~シドニー&メルボルン』('07~’08年版)
③『シドニー メルボルン』(トラベルストーリー21)
④NHK『世界ふれあい街歩き メルボルン

日本の人口減少と移民政策

 毛受俊浩著『限界国家 人口減少で日本が迫られる最終選択』から引用してみる。他の著書やウェブサイトからの引用がある場合はその都度断っている。

1.日本の人口減少
 米英のメディアは「日本の今後の人口減少について、日本以上に深刻にとらえている」という。たとえばニューヨーク・タイムズの記事(2003年7月23日)は次のようである。「タイトルは『内向き日本、必要な移民政策に抵抗』である。この記事では、……日本の移民の受け入れの議論がどうなるかは、経済大国としてとどまるか、あるいは人口減少とともに没落するかを決定する、と断じている。」

・1920年の日本の総人口は5593万人(1920年<大正9年>第1回国勢調査、注1)
・2015年の日本の総人口は1億2709万人(2015年<平成27年>第20回国勢調査、注1)
・2053年の推定人口は9924万人(注2)。
・2065年の推定人口は8808万人。2053年からわずか12年間でおよそ1200万人も人口が減少する。また、老年人口(65歳以上)の割合を見ると、2015年現在では26.6%で、およそ4人に1人、2065年には38.4%、すなわち3人に1人以上となる(注2)。

 どうであろうか。人口が減少しても、「没落」(ニューヨーク・タイムズ)しない方策はあるだろうか。人口が急減しても、日本は今までの生活水準を維持できるだろうか。人類が経験したことのない人口減少社会を迎えている。人口は少ないが「豊かな」国はたくさんある。人口がたんに減少するというより、極端に幼年人口(15歳未満)少ないこと、また極端に老年人口(65歳以上)が多すぎることが問題だ。もちろん生産年齢人口(15~64歳)も2015年の7727万人から2065年には4527万人に減少する。また2065年には「日本人の半分は55歳以上になる」(注4)。人口減少を避けることができないのならば、どのような社会を築くのかが問われる。

2.日本の移民政策
 日本の移民政策は、小渕恵三内閣時代の『21世紀日本の構想――日本のフロンティアは日本の中にある――自立と協治で築く新世紀――』(2000年)以来、何度か取り上げられてては頓挫してきた。「2008年6月、自民党の外国人材交流議員連盟が、人口減少問題の解決策として……、今後、50年間で1000万人の移民を受け入れること」を提言している(この外国人受け入れ構想も頓挫した)。
 「2016年5月14日、自民党の労働力確保に関する特別委員会の報告書「『共生の時代』に向けた外国人労働者受け入れの基本的な考え方」では、「事実上の『移民受け入れにゴーサイン』を出した」という。「おそらく政府としては、外国人の受け入れの布石としての報告書だったと推測される。しかし、2016年に立て続けに起こったヨーロッパでのテロ事件は、そうした布石を一掃してしまった。移民問題は先送りということになったのであろう。」2017年3月28日の報告書「働き方改革実行計画」によると、「……経済・社会基盤の持続的可能性を確保していくため、真に必要な分野に着目しつつ、外国人材受け入れの在り方について、総合的かつ具体的な検討を進める」としている。しかし、わざわざ「移民政策と誤解されないような仕組み」との文言を付している。
 
 仮に国立社会保障・人口問題研究所が推定(中位)するように日本の総人口が推移するなら、2015年から2065年の50年間に、日本の総人口は4000万人近く減少し、毎年およそ78万人が減少することになる。本書の第7章「『限界国家』脱出プラン」で、著者は「外国人受け入れが大成功を収め、受け入れ枠を拡大したとしても、たとえば年間100万に近い人口減をそのまま補うような受け入れは不可能だろう。その意味で外国人の受け入れは人口減少の最終的な解決策とはなり得ない」と記している。日本がどのような移住政策や外国人労働者の受け入れをするかを含め、将来の日本社会の「あり方」を早急に議論する必要がある。

<注>
総務省統計局(PDF)
②国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口(PDF)」(2017年)による。推定人口は出生・死亡ともに中位で推定されている。

<資料>
 毛受俊浩著『限界国家 人口減少で日本が迫られる最終選択』(2017年6月)
 筆者の毛受(めんじゅ)氏は、「欧州の移民政策の『四段階』」を次のように説明している。(1)第一段階は「一時的な『ゲストワーカーの受け入れ』」。(2)第二段階は「『同化政策』の時代」。(3)第三段階は「一方的な同化政策の問題の反省に立ち、移民の保持してきた文化や言語などを尊重するというもので『多文化主義』と呼ばれる」。(4)第四段階は次のとおり。「平行社会を生み出した多文化主義の反省によって、ヨーロッパの自治体を中心に近年、急速に活発化しているのが……『インターカルチュラル(異文化間交流)』政策……。欧州評議会の関係者は……これが移民政策の『最終形』ではないかという。」

オーストラリア メルボルン(1)

メルボルンは人口482万人(2017年6月現在)を擁する「オーストラリア第2の都市で、キャンベラができるまではオーストラリアの首都」であった。「碁盤の目状になった都心には、ビクトリア様式の重々しい建物が並」ぶ。「移民、食、トラム、建物……古きものを大切にしながらも、新しいものを受け入れて独自の文化を作っていく。そんなメルボルン流のスタイルを感じながら、街歩きを楽しみたい」。(『地球の歩き方~オーストラリア』'07~’08年版より。以下の引用も同じ。)

1.シティ(中心街)
①フリンダース・ストリート駅とスワンストン・ストリート
フリンダース・ストリート駅はルネッサンス調の威厳のある建物で、メルボルンと近郊を結ぶ鉄道ターミナル。スワンストン・ストリートはフリンダース・ストリート駅とセントラル駅を南北に結び、たくさんの飲食店やショップが並ぶ、にぎやかなメインストリート。
⇓フリンダース・ストリート駅
フリンダース・ストリート駅
⇓スワンストン・ストリート
スワンストン・ストリート
②フェデレーション・スクェア
 フリンダース・ストリート駅の東向かいにあり、多くの観光客が集まる。観光案内所(ビジター・インフォメーション・センター)で地図などのパンフレットを手に入れることができる。このスクェアの北にはセントポールズ大聖堂がある。

③セントパトリック大聖堂
シティとフィッツロイガーデンの間にある巨大なゴシック建造物。尖塔の高さはおよそ105m、聖堂の奥行はおよそ92mという。1939年に完成するまでに実に90年以上もかかったという。
セントパトリック大聖堂1
セントパトリック大聖堂2
セントパトリック大聖堂3
④ロイヤルアーケードとブロックアーケード
昔からメルボルンのショッピングの中心地。古い建物をそのまま活かしアーケードにしている。
⇓ロイヤルアーケードはメルボルン最古のアーケード
ロイヤルアーケード
⑤移民博物館
旧税関を博物館とし、開拓時代から現在までのオーストラリアの移民の歴史を展示で紹介している。
移民博物館

2.イーストメルボルン
シティの東側、トレジャリーガーデンとフィッツロイガーデンの周辺などをイーストメルボルンという。この地域にある公園は19世紀半ばに作られ、フィッツロイガーデンには「キャプテン・クックの家」もある(注)。この家はキャプテン・クックがイギリスで住んでいた家で、1934年のビクトリア州100年祭の記念にメルボルンに寄贈され、フィッツロイガーデン内に移築された。
⇓クックの家
クックの家
⇓フィッツロイガーデンにて
フィッツロイガーデンにて1
フィッツロイガーデンにて2
(注)キャプテン・クック(ジェームズ・クック)は1770年、シドニー南方のボタニー湾に上陸。1785年、イギリスが領有宣言。1788年から本格的な入植が始まる。

3.ドックランズ
スペンサー・ストリートより西側。その中心が港湾地区のドックランズ。シャトルバス(スカイバス)でメルボルン国際空港からサザンクロス駅地下のコーチターミナルまで約20分。

4.ノースメルボルン
①メルボルン博物館、王立博覧会ビル
博物館はカールトンガーデン内にあり、南隣りに万国博覧会(1880年に開催)のために建設された展示館(王立博覧会ビル)がある。
⇓王立博覧会ビル
王立博覧会ビル
②メルボルン動物園
オーストラリアで最初、世界でも3番目に古いという動物園。カンガルー・ワラビー・エミューのほか、コアラ・ウォンバット・カモノハシなどの動物を見ることができる。

③メルボルン大学
メルボルン大学は、1853年に設立された、オーストラリアで2番目に歴史のある国立総合大学。キャンパスには、歴史を感じさせる校舎と美しく整えられた庭園がある。

<資料>
①『地球の歩き方~オーストラリア』('07~’08年版)
②『地球の歩き方~シドニー&メルボルン』('07~’08年版)
③『シドニー メルボルン』(トラベルストーリー21)
④NHK『世界ふれあい街歩き メルボルン

外国人技能実習生と「出稼ぎ」留学生

NHK取材班著『外国人労働者をどう受け入れるか』によると、「人手不足を補いながら、『労働者』としての来日を認めない――矛盾だけの実態が放置され、そのことが外国人の『労働者』から多くの権利や機会を奪っている」という。以下、特段断りがなければこの著書から引用。

「外国からの移民を受け入れない立場をとっている日本で、労働力として受け入れている外国人労働者は、大きく二つの類型に分けられる。一つが『留学生』として学びにやって来る外国人の若者たちだ。その多くはコンビニや居酒屋など、サービス業の分野でアルバイトしながら、日本で『働いて』いる。」日本ではもちろん「サービス業で働くことを理由に、……外国人の在留を許可していない」。「就労目的で来日する留学生、いわゆる『出稼ぎ留学生』は増え続け」、外国人の「労働者全体に占める割合は22.1%だ」という(2016年10月末現在)。出井康博著『ルポ ニッポン絶望工場』によると「勉強よりも出稼ぎを目的とするものが多く、……本来受け入れるべき『留学生』は決して増えていない」という。

「もう一つが、日本の技術などを学ぶ目的でやって来る、滞在期間三年(注1)という期限付きの『外国人技能実習生』(以下、『実習生』)……。」「実習生は農業、水産加工業、建設業、製造業などの『日本人がやりたがらない』『きつい・安い』といった肉体的な負担の大きい労働現場で、単純労働力として機能している。その結果、期限付きで働きに来る実習生は、都合のいい『使い捨て労働力』とされるケースが頻発し、シェルターが設置されるほどの事態がひろがっている……。」

「実習制度は途上国への技能の移転という当初の目的からは、遠くかけ離れた利用のされ方となることが多い。低賃金の単純労働力を補うためだ。移民を認めてこなかった日本では、外国人労働者に定住してもらっては、建前上、困ることになる。技能実習制度は、その点も『期限付き』で、都合のいい制度だった。深刻な人手不足を補いたい産業界の要望と、治安維持、入国管理の必要性との間に折り合いをつける形で考え出された、矛盾含みの制度の乱用だ。」「必要な労働力を『労働者』として受け入れず――移民の受け入れも含めた根本を議論しようとせず――『期限付き』の労働者たちを増やし続けた"ゆがみ"が格差社会の底辺で噴出し始めているのではないだろうか。」(注2)

日本で働く外国人は「2016年に初めて100万人を超えた」。移民の受け入れも「裏では着々と準備が進められて」いるという。「人手不足に直面する経済界の声、さらには米国などからの『外圧』に押されてのことである。」(資料②③)「今、日本では、移民というタブーを乗り越え、外国人と共に暮らす社会を実現」するのか、「あるいは縮小社会を選択するのか、そのあたりから議論すべきではないだろうか。」日本はすでに「少子高齢化社会」を迎えている。外国人労働者の問題は、私たちが「どのような未来を選択するのか」という問題でもある。おそらく国民の間でも相当、意見が分かれるであろう。「国論を二分するテーマ」(資料②)である。だから政治家や官僚に任せるのではなく、自分のこととして「外国人労働者や移民の受け入れ」の問題を考える必要がある。

(注1)2017年11月から最長五年に延長された。
(注2)「2012年、日本の技術実習制度が『外国人労働者を適正に処遇していない』として、国連機関や国際労働機関(ILO)などから厳しく非難されている……。」「翌2013年6月、米国国務省人身取引報告書において、『日本政府は技能実習制度における強制労働の存在を正式に認知しておらず、本制度の悪用から実習生を保護するための効果的な管理・措置が不足している』と指摘された。」

<資料>
①NHK取材班著『外国人労働者をどう受け入れるか』(2017年8月)
②出井康博著『ルポ ニッポン絶望工場』(2016年7月)
上記の①②のいずれか1冊を読むとすれば②。②は豊富で綿密な取材にもとづいているだけに、問題点の指摘が鋭い。
以下、②の本から引用しておく。
「日本人の嫌がる仕事を外国人に任せ、便利で快適な生活を維持していくのか。それとも不便さやコストの上昇をがまんしても、日本人だけでやっていくのか。私たちは今、まさにその選択の岐路にいる。」「『実習生』や『留学生』だと称して外国人たちを日本へ誘い込む。そして都合よく利用し、さまざまな手段で食い物にする。そんな事実に気づいたとき、彼らは絶望し、日本への反感を募らせる。……」(具体的な事例は是非この本を読んでもらいたい。)

「私は移民の受け入れをいっさい拒むべきだといっているわけではない。ただし『移民は一日にしてならず』である。今やるべきことは、将来『移民』となる可能性を秘めた外国人労働者、留学生の受け入れ政策について、一から見直すことだ。」「移民の受け入れとは、単に労働者を補充することではない。日本という国を構成するメンバーとして、生まれ育った環境や文化の違う人たちを社会に迎え入れることなのだ。言語の習得、就職、さらには子弟の教育などへの支援を通じ、日本社会に適応してもらえるよう、私たちの努力も求められる。」「今後も、日本で働く外国人は間違いなく増えていく。日本に住み続け、移民となる人も出てくるだろう。彼らにこの国で、いかなる役割分担を求めるのか。どうすれば優秀な外国人を日本に迎え入れられるのか――。長期的な方針と戦略を立てるのは今しかない。」
この本には次のようにも書かれている。
「政治に無関心でいられても、無関係ではいられない。」同様に、「日本に住む外国人に無関心でいられても、無関係ではいられない。それは遠い未来の話ではなく、すでに紛れもない現実となっている」。
③毛受俊浩著『限界国家 人口減少で日本が迫られる最終選択』(2017年6月)
日本の移民政策については、この著書の第6章「迷走する政府の移民政策」を参照のこと。