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冬の公園(4)別所沼公園 

埼玉県さいたま市にある別所沼の周囲約8万Km2が整備されて別所沼公園となった。現在さいたま市営公園。洪積台地である「大宮台地が侵食されてできた谷底低地(注①)から湧き出した水が溜まり、沼になった」と考えられている。沼の周囲にはラクウショウ(落羽松)が約500本、メタセコイアが約330本植えられている(widipedia「別所沼」より。ラクウショウとメタセコイアの違いは注②を参照)。
沼の周囲を走れるジョギングコースや遊び場(児童広場など)が整備され、日曜や祭日に家族連れで賑わう。また多くの人が釣りに興じている。別所沼公園へは、JR埼京線中浦和駅から徒歩で7分くらい。駐車場は狭く、約25台分しかない。(彩の国埼玉情報サイト「さいたまなび」の「別所沼公園」より)
<注>①谷底低地…台地が、谷の中を流れる河川によって、側方に侵食されてできた低地。
②ラクウショウとメタセコイアの見分け方…ともにヒノキ科・落葉針葉樹で、見た目は似ている。「枝葉のつきかたと果実」で見分けられる。ラクウショウ(落羽松)は「松」の仲間ではなく、ヒノキ科ヌマスギ(沼杉)属。林将之監修『葉っぱで見分け五感で楽しむ樹林図鑑』を参照したが、ブログ「だんじりのまち大阪府岸和田市の樹木図鑑」も見て欲しい。写真などで詳しく説明されている。

<写真>
①左下に見える噴水のある場所が別所沼
別所沼公園1
②別所沼の周囲をめぐる遊歩道
別所沼公園2
別所沼公園3
③別所沼
別所沼公園4
別所沼公園5
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冬の公園(3) 水元公園

東京都立水元(みずもと)公園は、「東京都の東部、葛飾区に位置し、埼玉県(三郷市)に接している都内最大の水郷公園……。園内は、豊かな森林の趣と貴重な水生植物を擁する水郷風景を楽しめる。高さ20mにも達する200本のポプラ並木<1.2㎞に及ぶ並木道>や生きている化石として知られるメタセコイヤが約1,800本、都立公園で最大の森を形成」している。(おでかけガイド「水元公園」より)昭和40年(1965年)に開園。昭和43年(1968年)、「明治百年記念事業の一環として明治百年記念公園の指定を受け」た。
この地域の水路は「もともとは古利根川の河川敷」。江戸時代、小合(こあい)村が古利根川の河川敷を「江戸幕府の許可を得て埋め立てて耕作地とし」た。堰止めされた河川は「水を蓄えて」用水池とした(灌漑用水を調整する遊水池)。この用水池を当地では小合溜(こあいだまり、こあいだめ)とか、小合溜井(こあいためい)と呼んでいる。(Wikipedia「水元公園」より)
水元公園の総面積はおよそ86.2ha(東京都立川市にある国営昭和記念公園は同148.7ha)。JR常磐線または東京メトロ千代田線「金町」駅から京成バスに乗車。「水元公園」バス停で下車し、徒歩7分くらい。公園沿いを走る循環バスもあるが、発着時期や曜日・時間帯に注意が必要。駐車場は有料。(東京都公園協会「水元公園」より)

<写真>
⇓左が小合溜(こあいだまり)
水元公園①
⇓もう少し先まで歩くとポプラ並木
水元公園②
⇓以下、メタセコイアの森にて
水元公園③
水元公園⑤
水元公園⑥
水元公園④
水元公園⑦

冬の公園(2)彩の森入間公園

埼玉県営彩の森入間(さいのもりいるま)公園は、「米軍から返還された基地跡地(注)を活用し、県南西部地域の、県民の憩いの場、防災活動拠点として整備され、平成10年<1998年>に開設され」た。「……中心にある二つの池を結ぶせせらぎや樹林、緩やかな起伏のある芝生広場や自由に遊べる多目的広場などが整備され、都市の緑のオアシスとして親しまれてい」る。(資料)彩の森公園の周辺には昭和33年(1958年)に開設された航空自衛隊入間基地のほか、稲荷山公園(基地の北西)などがある。彩の森公園は西武池袋線入間市駅から徒歩で15分くらい。車で行く場合、無料の駐車場もある。
(注)太平洋戦争開始前年の昭和13年(1938年)に開設された旧陸軍の航空士官学校の跡地に、終戦後進駐した米軍がジョンソン基地を建設。その後、基地は段階的に返還、そして昭和53年(1978年)に「全面」返還された。
<資料>
埼玉県営彩の森入間公園
<写真>
①ポプラ
彩の森公園20180201
彩の森公園20180202
②メタセコイア
彩の森公園20180203
彩の森公園201800204
彩の森公園20180205
③メアセコイアと噴水
彩の森公園20180206
彩の森公園20180207

野火止用水 多摩

野火止用水を訪れるため、西武拝島線玉川上水駅から西武多摩湖線八坂駅まで、およそ2時間半かけて散策した。玉川上水駅を下車するとすぐ目の前が玉川上水。東大和市駅方面に向かってしばらく歩くと、玉川上水と野火止用水の分岐点へ至る(注①)。ここから遊歩道(野火止用水緑道)を歩き東大和市駅へ。さらに歩くと野火止緑地公園。ここに放流口があり、水路の幅が広くなる。この公園には雑木林が広がり、散歩に訪れる人も多い。野火止橋の少し先の「ふれあい橋」付近が一番よく野火止用水を観察できる。「こなら橋」を経由して最終地点の八坂駅まで歩く(注②)。野火止用水は埼玉県志木市の新河岸川(しんがしがわ)へ注ぐが、全域の詳細は「川のプロムナード 野火止用水」(資料①)を読んで欲しい。
 武蔵国多摩郡岸村(現武蔵村山市)の小川九郎兵衛(くろべえ)は、「川越藩主で老中の松平信綱から、西は玉川上水と野火止用水の分岐点より、東は田無方面へ開発するように指示され……<小川村の>開発に着手した。」(資料②)小川村の開拓に尽力した九郎兵衛は、「岸村の禅昌寺(ぜんしょうじ)に葬られたが、後に孫の弥一によって分骨され、小川名主家の菩提寺である……醫王山小川寺(いおうさんしょうせんじ、写真⑤)に……墓が造られ」た。(小平市教育委員会、写真⑥)
玉川上水や野火止用水などの散歩マップ「小平グリーンロード&オープンガーデン」は「小平ふるさと村」でもらうことができる。この「ふるさと村」では「開拓当初の復元住居」などを見学できる。

<写真>
①玉川上水取水口(羽村市)
⇓右側が取水口(第一水門)
玉川上水取水口
②東京都水道局小平監視所
⇓この監視所の役割は「上流から流れてくる落ち葉や枯れ枝などを除塵機(じょじんき)で取り除き、また、沈砂池(ちんさち)で砂を沈めてゴミや砂のない水をコンクリート管を利用して東村山浄水場に送ること」にある(小平監視所前にある案内版より)。
東京都水道局小平監視所
③野火止緑地公園
⇓右側の柵の下が野火止用水
野火止緑地公園
④ふれあい橋
ふれあい橋
⇓ふれあい橋から
ふれあい橋から見た野火止用水
⑤小川寺(しょうせんじ)
⇓正面の建物は本堂
小川寺
⑥小川九郎兵衛の墓
⇓掲示板の写真は禅昌寺(ぜんしょうじ、武蔵村山市)。掲示板そのものは小川寺(しょうせんじ、小平市)にある。
小川九郎兵衛の墓
<注>
①東京都水道局小平監視所の少し先で分岐する。ただ野火止用水は東大和市駅の少し先まで暗渠(あんきょ、地下水路)になっている。暗渠の上は野火止用水緑道として整備されている。
②明治学院東村山高校のあたりから再び暗渠となる。

<地図>
⇓野火止用水(玉川上水駅~東大和市駅~八坂駅方面)
野火止用水地図201802
<資料>
①「野火止用水」(川のプロムナード 河川や用水・川跡のお散歩ガイド)
②小平市教育委員会『郷土こだいら』(1978年)
③安富六郎著『武蔵野・江戸を潤した多摩川: 多摩川・上水徒歩思考』(2015年)

新田開発(2)野火止用水 武蔵野新田 多摩

1.野火止用水
 「野火止用水は、(東京都)立川市(幸町)を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川(しんがしがわ)に至る全長約24kmの用水路……。徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可」した。この工事の総奉行は老中松平信綱で、「同年11月に完成し、翌年6月には江戸市中の主な配管工事を終えたとされている」(資料①)。さらに松平信綱は、「関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内(注①)の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水(注②)」を開通させた。(資料②)
「(玉川)上水完成の翌年に野火止用水への分水、ついで小川、砂川、国分寺分水などが開かれ江戸後期には分水の数は30を超え」る。「羽村で取水(注③)された水量の約半分は途中の村々に分水として流されて、飲み水や田用水として」使われた。(資料③)

<注>
①武蔵国川越藩。松平家(初代が信綱)のあと、柳沢吉保(よしやす)が川越藩主となった。松平家の頃の藩領は武蔵・上野(こうずけ)・相模三カ国を中心に各地に分散していた。
②野火止用水が通過する自治体は、立川市、小平市、東大和市、東村山市、東久留米市、清瀬市(以上東京都)、新座市、朝霞市、志木市(以上埼玉県)。
③東京都羽村市に玉川上水の取水口がある(東京都水道局羽村取水所、羽村堰)。水源は多摩川。「今でも東京都水道局の水道源導水路として活用され、請願院橋<西武拝島線玉川上水駅南側>付近から毎秒8m3の水を地下の送水管により、1924(大正13)年に完成した村山貯水池<東京都東大和市>へ送っている。」(資料は①)。

<資料>
①「江戸時代の上水施設『玉川上水』」(建設コンサルタント協会誌242号より、PDF)玉川上水の「工事が難航した」様子も詳しく書かれている。
②小平市「野火止用水の歴史」(Webサイト)
③小平市「玉川上水の歴史」(Webサイト)

2.武蔵野の新田開発
 大石学著『地名で読む江戸の町』によると、「かつて原野であった武蔵野新田」は下記のように3つの時期を経て開発されたという。なお、新「田」といっても、水の乏しい武蔵野台地の場合は「畑作」新田。
①江戸時代初期……古村の成立
「新町村(青梅市)、大岱<おんた>村(東村山市)、豊田新田(日野市)、砂川新田(立川市)、矢ヶ崎村(調布市)など江戸時代初期の土豪(注④)の開発」により古村が成立した。
②江戸前期(1624~1704)……古新田の成立
「小川村(小平市)、境<さかい>村(武蔵野市)、高井戸新田(杉並区)、西久保村(武蔵野市)など……土豪や移住民の開発」により、古新田(注⑤)が成立した。玉川上水や野火止用水が開削されたのはこの時期。深井戸によって水を得ていた三富新田もこの時期に開発された。
③享保改革期(1716~1745)……新田(新新田)の開発
享保改革期の新田開発は「幕府主導のもと、残された武蔵野の台地面を開発するもので、大岡忠相(ただすけ)が検地奉行となり、武蔵野一帯で新田検地……を実施し、『新田八十二カ村』(注⑥)と呼ばれる新田村落が成立した」。(以上、資料④)なお享保期に武蔵野台地を中心に開発された新田の総称を武蔵野新田といい、それ以前に開発された新田を含めないのが普通。

 開発された土地の「主要な道路沿いに家が並び、家の後ろに防風林<屋敷林>や耕作地、秣場<まぐさば>(注⑦)が続いてい」た。地割りは短冊状の形をしており、「現在でも寛永年間<1624年~1645年>に開拓された五日市街道沿いの砂川村や、明暦年間<1655年から1658年>に開発された青梅街道沿いの小川村などにその形態が見られる」。(地図参照)
 「しかし、開発はすべて成功したわけでは」なく、「年貢の過負担や災害・凶作などで経営が成り立たずに破産したり、逃げ出す者も多くい」た。「これを『潰(つぶ)れ百姓』とい」い、武蔵野新田の「開発開始からわずか15年後の元文4年(1739)の段階で、武蔵野新田1327戸のうち1割以上の161戸が潰れ百姓となってい」る。
 「開発した土地も、耕作者が不在では荒れ野に戻ってしま」う。「これを防ぐために幕府は元の村に帰ってきた者に対して帰村料を出すという政策をと」った。「戸倉新田(注⑧)では、享保19年(1734)に潰れ百姓となった佐五右衛門が11年後の延享2年(1745)に帰村した時には、金3両が支払われてい」る。「武蔵野新田の開発が本格的に始まったのは、……享保9年(1724)から」だが、関東ローム層の土質で水の乏しい武蔵野台地の開発はそう容易ではなかったに違いない。(以上、資料⑤)

<注>
④土豪……ある「土」地を支配する「豪」族。数郡を支配する大勢力の「豪族」に対し、独立した在地の数村を支配する小規模の豪族を「土豪」という。
⑤古新田……「新田開発が大々的に行われたのは、将軍吉宗の享保11年(1726)に新田検地条目が出されてからで、これ以前の元禄ころから開発されたものについては、古新田の名で呼ばれる」(藤岡謙二郎著『日本の地名』1974年)
⑥「(武蔵野)新田八十二カ村」とは、多摩郡・入間郡(いるまぐん)・高麗郡(こまぐん)・新座郡にあった農村こと。
⑦秣(まぐさ)とは馬や牛の飼料となる草(馬草とも表記される)。秣場は秣を刈り取る草地。
⑧戸倉新田……東京都国分寺市にあった戸倉新田は「五日市町(現あきる野市)戸倉を親村とする新田」であった。「戸倉」新田の名称は「開発名主郷左ヱ門の出身地名<戸倉>を冠したにすぎない」。ところが戸倉新田の出百姓(他村から入ってきた百姓)の大部分は、その親村の「戸倉よりもずっと谷の奥の、檜原村(ひのはらむら)」の、さらに「山奥の“沢又”」であった。(資料⑥)なお、1995年に秋川市と五日市町が合併、あきる野市が発足。日の出村(現日の出町)と檜原村は参加せず。

<資料>
④大石学著『地名で読む江戸の町』(2001年)
⑤江戸東京たてもの園『大岡越前守と武蔵野新田の開発』(2002年)
⑥片山迪夫著『戸倉新田と出百姓』(1959年)
⑦玉川上水ワンポイントガイドNo.4「玉川上水と小平周辺の新田開発」(発行は「小平・玉川上水再々発見の会」)
⑧小平市教育委員会『郷土こだいら』(1978年)
⑨時空散歩「玉川上水散歩そのⅣ:玉川上水駅から千川用水との分岐・境橋まで
⑩菊地利夫著『続・新田開発/事例編』(1986年)……武蔵野新田の開発について詳しく述べられている。

<地図>
⇓野火止用水(上記資料⑤『大岡越前守と武蔵野新田の開発』より)
野火止用水地図東大和~小平
※注記の追加により一部改変。