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春の公園(3)芝公園 東京タワー

東京都港区にある芝公園は、都立芝公園と港区芝公園に分かれているが、ここでは区別せず総称として用いる。近隣の施設には、増上寺(ぞうじょうじ)、芝東照宮、旧台徳院(たいとくいん)霊廟惣門、東京タワーなどがある。
芝公園は「日本で最も古い公園の一つ。明治6年(1873年)の太政官布達によって、上野、浅草、飛鳥山と芝の5カ所が、日本で最初の公園として指定され」た。「当初は増上寺の境内を含む広い公園で」あったが、「戦後の政経分離によって境内の部分が除かれ」(注①)、「現在の公園敷地は増上寺を取り囲むような形状になっている」(注②)。
JR山手線浜松町駅で下車。西に向かって歩き、増上寺「三解脱門」(さんげだつもん、注③)へ(徒歩約10分)。境内の正面が「大殿」(本堂)。この寺の周囲が芝公園。増上寺は、浄土宗七大本山のひとつ。600年の歴史をもち、徳川将軍家とのゆかりが深いお寺(徳川家の霊廟)。

増上寺から歩いて東京タワーへ。東京タワーをはじめて訪れたのは中学3年生の修学旅行のとき。国鉄(現JR)京都駅から夜行の特急列車に乗り、翌早朝東京駅に着く。当時、東海道新幹線は開通していなかった。皇居(二重橋)と東京タワー、国会議事堂以外に、東京のどこを巡ったのか定かではない。これらの場所は写真があるので覚えているのにすぎない。たぶん、後楽園球場(現東京ドーム)近くの古い旅館に泊まった。翌日、バスで日光へ行く。中禅寺湖畔のホテルで泊まる。2泊3日の修学旅行であった。バスの中で舟木一夫の歌「高校三年生」をみんなで歌ったことが懐かしい。東京へ来てから東京タワーを数度訪れたことがあるが、赤い鉄骨(注④)まるだしのタワーはなぜか美しい。

<写真>
①区立芝公園より
芝公園201801
②ザ・プリンスパークタワー東京の屋外庭園より
芝公園201802
③増上寺より
⇓正面の建物は「大殿」(本堂)
増上寺201801
⇓「鐘楼堂」(右の建物)としだれ桜
増上寺201802
④東京タワー(敷地内)より
⇓チケット売り場とは反対側の、タワーの真下から撮る
東京タワー201801

<注>
①東京都公園協会「芝公園
②Wikipedia「芝公園
③増上寺の中門にあたる。「三門」は通称。国指定文化財。
④正確には赤ではなくオレンジ。「東京タワーは赤ではなく、インターナショナルオレンジと白になります。航空法で定められた色です。例えば、羽田の近くにある煙突やクレーンみたいなものにも使われており、昼間障害標識と呼ばれていて、飛行機が認識しやすい色なんですね。」(GetNaviWeb「東京タワーの色は「赤」ではなかった」)
⑤港区公式ホームページ「芝公園
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東京「府」東京市はあるが、東京「都」東京市はない

武蔵国多摩郡はどこに帰属?(2)東京「府」東京市はあるが、東京「都」東京市はない

前回に引き続き、梅田定弘著『なぜ多摩は東京都となったか』(資料①)から引用してみる。
「東京に都制が施行され東京都と呼ばれるようになったのは、昭和18年(1943年)7月1日のこと……。それまで東京都は、東京府のもとに東京市(注①)をはじめとする市町村があるという制度をとっており、都制は『都制案』として議論される時代が長く続いていた。」(注②)「帝都制案」や「武蔵県」などの構想が流れたあと、政府は大正13年(1924年)、「東京都制案要項」を発表。「この案は、都知事は官選で、都制区域は隣接の五郡(注③)まで含めた地域として、三多摩を『多摩県』<下の地図>として独立させるというもので」あった。
⇓「多摩県構想」(資料①より)
多摩県構想地図
東京「都」から三多摩を除外するという「多摩県」構想をきっかけに、「三多摩では急速に都制編入の声が高まってい」く。これは「三多摩だけでは県としての発展は望めないと考えた」ことによる(注④)。明治のはじめ、東京「府」への帰属に反対した三多摩は、こんどは東京「都」への帰属を求めたのである。

「都制」施行には2つの問題があったという。(1)「都長」(知事)問題と(2)「区域」問題の2つ。「都長問題というのは、都知事の選出を官選で行うのか、公選でおこなうのか、という問題……。政府は官選を主張し、東京市は公選を主張……。」「もう一つの区域問題は、都制の区域をどの範囲にするかという問題で、焦点は三多摩を含めるか否かという点で」あった。「東京市は、都制は大都市制度であるから、三多摩はそこに含めるべきではないと、三多摩除外を強く主張……。」「それに対し三多摩は、都制への編入を強く主張し」、その後「猛運動」を展開した(政府も支持)。東京市は「都長公選・三多摩除外論」を、三多摩は「都長官選・三多摩編入論」を支持するという構図が生まれた。ところがその後の「区域問題」は複雑な経緯をたどることになる。
昭和7年(1932年)10月1日、東京都の市域拡張が実施され、「市域に含まれた隣接五郡には新たに20区が設置され」る。(注⑤)「大正10年代から本格的にはじまった都制論議は、都長問題、区域問題をめぐる深刻な対立から、昭和10年代に入っても決着する見込みが立」たなかった。ところが昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争がはじまると、「首都防衛体制の強化という観点から都制成立が急がれるようになり」、昭和17年(1942年)11月、「三多摩編入、都長官選を内容とする都制案が発表され」る。「都制案は<昭和>18年(1943年)1月、衆議院に提出され」、3月に「議会を通過、7月1日、東京府と東京市がひとつとなり<東京府と東京市が廃止され>……東京都(注⑥)が成立し」た。(以上資料①より)

昭和22年(1947年)3月、東京都告諭第1号により22区が成立(8月、練馬区が独立して23区、注⑦)。同年4月、都長官公選(注⑥)。同年5月、新憲法・地方自治が施行され、都「長官」は都「知事」(公選)と呼ばれるようになった。(資料②)なお、東京都の「しくみ」や「区」の変遷などについては、東京都のWebサイトを参照してほしい。(資料③④)

<年表>
1871年(明治 4年)…廃藩置県。多摩郡は神奈川県へ
1878年(明治11年)…東京府は15区6郡(東多摩郡は東京府へ)
1889年(明治22年)…東京市成立(府内15区を東京市に)、他は町村制施行
1893年(明治26年)…多摩3郡(三多摩)、東京府へ編入
1932年(昭和 7年)…市域拡張(20区)により35区(「大東京市」)
1942年(昭和17年)…都制の施行(東京府・東京市廃止)、三多摩も東京都に帰属
1947年(昭和22年)…区域統合により23区へ

<注>
①東京市…市制町村制の施行により、明治22年(1889年)、東京市が誕生したが、東京市の市長は、東京都知事が兼任し、東京市の権限は大幅に制限されていた。(資料②)
②都制案…「大都市に特別な制度が必要であるとの議論は、すでに明治21年(1888年)の市制町村制公布当時からおこなわれてい」た。「しかし、議論はまとまらず」、ふたたびこの問題が「真剣に議論されるようになったのは大正10年代に入ってからで、そこには深刻化する都市問題への対応という背景があ」った。大都市の「仕事量の増加は各省、府による二重の監督の不自由さを実感させ、府と市が同じような事業に取り組むなどの二重行政の無駄も感じさせてい」た。「財政基盤を強化し、二重監督<省と府>・二重行政<府と市>の弊害を取り除くためには、どうしても府と市を一本化した都制の実施が必要であった……。」(資料①)現在の大阪府の「都構想」も(適否は別として)同じ考えにもとづくものであろう。
③隣接の五郡……南葛飾郡、南足立郡、北豊島郡、豊多摩郡(明治29年、南豊島郡と東多摩郡が合併)、荏原郡のこと。「東京都制案」とは、現在の三多摩を除く、東京府と隣接五郡を東京「都」とする案。地図参照。
④現在では、三多摩の人口は417万人(2015年)であるが、大正時代は八王子などを除いて、「全体として見ればまだまだ農村地域で」あった。「もし『多摩県』をつくるとなると、人口、府県税、収入、面積など、全国で最低レベルの県になってしまう」状況にあった。(資料①)
⑤この市域拡張により、従来の15区のほかに新たに20区が設置され、東京市は全部で35区となる(いわゆる「大東京市」)。現在の23区に整理統合されたのは昭和22年(1947年)のこと。現在、東京都の「郡」は西多摩郡のみで、島嶼部を除けば「村」は檜原村(ひのはらむら)のみとなった(詳しくは資料④を参照して欲しい)。
⑥1943年(昭和18年)、東京府と東京市の廃止・統合によって成立した東京都の首長を東京都「長官」と呼んだ。1947年(昭和22年)の地方自治法の施行により、「長官」は「知事」(都知事)と呼ばれるようになる。(資料②)
⑦昭和22年(1947年)の地方自治法により、「都の区は新たに特別区(特別地方公共団体)となり、この特別区には、原則として市に関する規則が適用され、区長も公選によるものと」なった。(資料③)

<資料>
①梅田定弘著『なぜ多摩は東京都となったか』(けやきブックレット、1993年)。
②竹内誠他著『東京都の歴史』(県史13、1997年)
③東京都「都政のしくみ」(東京都のWebサイト)
④東京都「大東京35区物語~15区から23区へ~東京23区の歴史」(都庁公式HP)
⑤池亨他編著『東京の歴史3(通史編3) 明治時代~現代』(2017年)

春の公園(2)浜離宮庭園

浜離宮恩賜(おんし)庭園は東京都中央区にある都立庭園。私はJR新橋町で下車し、この駅から歩く(徒歩10分くらい)。駐車場の利用には制限があるため、車で行く場合は近隣の有料の駐車場を利用することになる。
浜離宮は「江戸時代の代表的な大名庭園」で、「潮入の池や鴨場(注①)を中心とした南庭と、明治時代以降に造られた北庭」とがある。明治以降、皇室の離宮となる。「昭和20年(1945年)11月3日、東京都に下賜(かし)され、整備のうえ昭和21年(1946年)4月有料公開される……。」(注②)
<注>
①潮入の池とは、「海水を導き潮の満ち干(みちひ)によって池の趣きを変える」池のこと。また鴨場とは「鴨猟」を行う場のこと。
②東京都公園協会「浜離宮恩賜庭園」より引用。

<写真>
浜離宮201801
浜離宮201802
浜離宮201803
浜離宮201804
浜離宮201805
浜離宮201806

明治の初め、三多摩は神奈川県であった 

武蔵国多摩郡はどこに帰属?(1) 明治の初め、三多摩は神奈川県であった 

 「大火の改新<645年>で国郡制がしかれ……実質的な武蔵国<むさしのくに>が誕生する」とされるが、その範囲は「現在の東京都のほぼ全域と、埼玉県および神奈川県の北東部であった」。「武蔵国は初め、……19郡からなり、のち……21郡となった。……武蔵国の政治の中心地である国府(注①)は多麻郡(注②)内におかれ」ている。
 江戸時代、多摩郡の多くの村が天領(幕府直轄領)や旗本領に属していた。慶応4年(1868年)、明治新政府は江戸を東京と改称し、東京府を置く(注③)。明治4年(1871年)の廃藩置県により、東京府は隣接の町村を合併して、新たな東京府となり、いっぽう多摩郡は神奈川県となった。明治11年(1878年)の郡区町村編制法により、多摩郡は東西南北の4郡に分割され、東多摩郡(現在の中野区と杉並区)は東京府に編入される(注④)。(以上、簡略に記したが、じっさいにはもっと複雑な変遷をたどる。資料①竹内誠他著『県史13 東京都の歴史』より自由に引用)

明治26年(1893年)に「三多摩<西南北の各多摩郡>は神奈川県から東京府に移管され」る(東京府移管問題)。ところが昭和18年(1943年)に東京都が成立すると、「三多摩も東京都に含まれることになった……。」(東京都制問題)(資料②梅田定弘著『なぜ多摩は東京都となったか』。以下もこの著書からの引用。)

<年表>
1868年(慶応 4年)…江戸を東京と改称し、東京府を設置
1871年(明治 4年)…廃藩置県。多摩郡は神奈川県となる
1878年(明治11年)…郡区町村編制法により、東多摩郡を東京府に編入
1893年(明治26年)…三多摩を神奈川県から東京府へ移管⇒東京府移管問題
1943年(昭和18年)…都制の施行、三多摩も東京都に帰属⇒東京都制問題

1993年には、「三多摩が東京都に移管されて100年、そして都制が施行されて50年になっ」た。「ところが……三多摩が神奈川県であったこと」を知る人は少ない。かつて「三多摩が神奈川県から東京府に移管された際、……三多摩では多くの町村が役場を閉じて、村ぐるみの猛烈な反対運動をくり広げ」た。ところがその後、三多摩は「都制への編入を求める『都制編入運動』を活発に展開……」。三多摩は、明治のはじめには東京「府」ではなく、神奈川県に帰属することを求め、その後は東京「都」に帰属することを求めた(神奈川県復帰反対運動)。この三多摩の各市町村の、正反対の対応はいったいどのような理由からであろうか。

 「三多摩は明治4年(1871)の廃藩置県の際、一度入間県(のちの埼玉県)への編入が決定された」にもかかわらず、当時の神奈川県知事であった「陸奥宗光(むつむねみつ)の強い要求によ」り、編入後まもなく、「神奈川県へ管轄が変更され」た。「三多摩が外国貿易開始以降、横浜とのつながりが強か」った「ことが理由となって神奈川に入ることにな」る。(注⑤)
 明治26年(1893年)、三多摩を神奈川県から「東京府へ移管しようという」法律案が帝国議会に提出される(わずか10日後に成立)。「政府は議会で、移管は東京の飲料水(玉川上水)を確保するために、その水源地である<神奈川県>三多摩を東京府の管轄下に置」くためであると説明した。しかし、この説明だけでは「どうして地元<神奈川県三多摩>の強い反対運動を押し切ってまでも移管を実現しようとしたのか、また水源とは直接に関係のない南多摩の移管まで求めたのか、などの疑問に答えられ」ない。「そこで、これまでは飲料水の確保というのは表むきの理由で、実は第2回総選挙<1892年>の際の選挙干渉をはげしく批判していた神奈川県自由党(注⑥)を分断して弱めるために、政府により、<三多摩の東京府移管が>強行されたのだ、と説明されてき」た。ところが「郡単位の移管」は、「1つの理由のみで実現できるような簡単なことでは」ない。著者は「移管を推進した四つの要因」を次のように説明している。

1. 東京府側の要因…明治政府の説明
 「玉川上水の水源確保、水源管理のために、移管を求めた」
2. 神奈川県側の要因…従来の説明
 「神奈川県知事が県議会でてこずっていた神奈川県自由党を分断するために、三多摩を神奈川県から分離することを考えた」
3. 地元三多摩側の要因…追加要因
 「甲武鉄道(現在の中央線)の開通などで東京との経済的な結びつきが強まり、地元でも移管推進派が増加し始めていた」
4. 自由党側の要因…追加要因
 「自由党員であった衆議院議長星亨が自由党を現実主義路線へと変え」ようとしており、「三多摩自由党もその星に近づきつつあった」(注⑦)

この「四つの要因」の詳細は本書を読んでもらいたい。「大きな流れで見れば、甲武鉄道計画が進みつつあった明治10年代後半から20年代後半にかけて……三多摩全体がそれまでの横浜指向から東京指向へと大きく転換し」ていた。つまり、①東京府の水資源確保や、②自由党の強い神奈川県から三多摩を分離したい、という思惑のほか、このころには三多摩が東京府と「経済的な結びつき」を強めていたことなどが、三多摩が東京府へ移管される要因であったという。

<注>
①国府…律令制のもと、地方支配の拠点として各国に設置された役所、またはその所在地。武蔵国の国府は現在の東京都府中市にあった。武蔵「国」といえども、律令制下の地方行政組織。朝廷から派遣された国司が治めていた。戦国時代以降、「国」(くに)の名称は行政区分としての機能を失い、たんなる地域区分(地理区分)となる。現在では、地域区分としても使われなくなっている。(資料④)
②多麻郡…「延喜式」には多「麻」郡と表記されている。その後、「吾妻鏡」などでは多「磨」郡や多「摩」郡と書かれるようになった。「延喜式」は律令法の施行細則を集大成した法典で、平安時代中期に完成。
③東京府…1868年(慶応4年)7月17日に東京府が設置される。「明治4年<1871年>11月、『廃藩置県』が実施され、……従来の東京府は一旦廃止……、11月14日あらたに『東京府』が設置されるという形式をと」った。(資料①)
④武蔵国多摩郡はかなり広域であるので、東西南北の4郡のうち、東多摩郡(現在の中野区と杉並区)は東京府へ、その他の西南北の多摩郡(三多摩)は神奈川県へ帰属することになる。じっさいの多摩郡の帰属は明治維新後、複雑な経緯をたどるので省略した。
⑤当時八王子などで生糸の生産が盛んで、横浜港から輸出されていた。
⑥神奈川自由党…町田市立自由民権資料館で自由民権運動の歴史を学ぶことができる。以下、この資料館のWebサイトから引用。「現在の町田市域をはじめとする多摩地区は、自由民権運動が盛んだった時期、神奈川県に属していました。神奈川県は武蔵国6郡と相模国9郡から成り立っていたために、『武相』とも呼ばれていました。武蔵と相模に分かれて活動していた運動を、一つにまとめようとしたのが町田市域の民権家で、1881(明治14)年に原町田では武相懇親会を開き、その後も武相の自由民権運動をリードしていきます。」
⑦「自由党を『壮士』中心の政党としようとした……大井健太郎」と、「『代議士』中心の政党に改革しようとした……星亨」との「戦いは、結局、星の勝利に終わり」、大井派であった三多摩自由党もやがて「星派へとくらがえを計った」。つまり「三多摩自由党が反政府<東京府移管反対>から親政府<移管賛成>へ転換した」ことによる。(資料②)

<資料>
①竹内誠他著『東京都の歴史』(県史13、1997年)
②梅田定弘著『なぜ多摩は東京都となったか』(けやきブックレット、1993年)。今ではこの本を書店で手に入れることはできないが、図書館で借りて読むことはできる。
③多摩百年史研究会編著『多摩百年のあゆみ』(1993年)
④「武蔵国や相模国などの国(令制国・旧国)が成立したのは7世紀頃と考えられています」を参照した。

春の公園(1)府中市 郷土の森

私は梅の花が好きだ。奈良時代には「花鑑賞といえば梅の花が一般的」であったという(注①)。桜ほど華やかではないが、香りは梅の方がよい。梅の花が咲くころになると、なぜか唱歌「梅の花」を思い出す。
「学校かへりに、近道を/通って来れば、どこからか、/ほんのりにほう梅の花。」
2番の歌詞は覚えていないので、調べてみた。
「見れば、ちらほら枝さきに、/にほひもきよく咲きそめた/明るく白い梅の花。」
この文部省唱歌(旧仮名遣いで表記)は、昭和17年(1942年)発行の『初等科音楽(一)』に採録されているという(注②)。私は戦後生まれだが、確かにこの歌を小学校で習った記憶がある。
毎年3月のはじめになると、(東京都多摩地区にかぎると)府中市の「郷土の森」(府中市郷土の森博物館)へ梅の花を見に行く。「梅園」(梅林)はよく整備されていて、訪れる人も多い。青梅市の「梅の公園」(吉野梅郷の中にある)は梅の名所として知られている。ところが、「平成21年(2009年)に市内に日本ではじめてウメ輪紋ウィルス(PPV)の感染が確認され、国による緊急防除対策が行われた結果、市内全域で3万6千本を超える梅樹等が伐採され」た。「平成27年(2015年)から青梅市が主体となって、……ウメ輪紋ウィルスに対する強化対策に取り組んだ結果、平成28年(2016年)10月に一部の区域での梅の再植栽が可能とな」った(青梅市、注③)。
 このような事情のため「高尾梅郷梅まつり」に行く人も多いと思う。「旧甲州街道沿い約4.5キロメートル区間に点在する、関所梅林、天神梅林、湯の花梅林、木下沢(こけさわ)梅林、そして小仏(こぼとけ)川沿いの遊歩道梅林を中心に、約10,000本の紅白の梅が咲き誇」る(八王子市、注④)。

<写真>
①府中市「郷土の森」(梅園)
郷土の森201801
郷土の森201802
郷土の森201803
郷土の森201804
⇓サンシュユ(山茱萸)…ミズキ科の落葉小高木
郷土の森201805
⇓ネコヤナギ…ヤナギ科の落葉低木
郷土の森201806
②青梅市「吉野梅郷」(梅の公園)2014年撮影
吉野梅郷201801
吉野梅郷201802
③八王子市「高尾梅郷」(木下沢梅林)2016年撮影
木下沢梅林201801

<注>
①「思わず誰かに話したい!お花見の歴史とルーツ
②「唱歌梅の花
楽譜はこのサイトを見てください。
③青梅市「梅の再生情報
④八王子市「高尾梅郷梅まつり

JR新宿駅新南口から西口(都庁舎)へ

JR新宿駅南口でのこと。駅の改札へ向かう途中、すれ違った年配女性たちの会話の一部が耳に入ってきた。「私の知っている新宿はもうない」という趣旨の会話だった。確かにその通り。新宿駅周辺で、私の学生時代に記憶にあるものは、東口の新宿ステーションビル(現ルミネエスト新宿)や西口の小田急百貨店、京王百貨店くらいのものだろう。とくに西口から新宿中央公園にかけては激変した。当時の西口には東京都水道局の淀橋浄水場があり、超高層ビルはひとつもなかった。その後、1971年建設の京王プラザホテルを皮切りに次々と超高層ビルができ、1991年には東京都庁舎が日比谷から西口に移転してきた。バブル景気真最中のころだが、こんなに立派な建物が必要なのか、と思ったものだ。そこで、昨年完成したJR新宿駅の「新南口」から「西口」にある都庁舎・中央公園付近を散策してきた。
<写真>
①JR新宿駅新南口
⇓手前の道路は甲州街道、左上はミライナタワー、右上はNTTドコモ代々木ビル(俗称、ドコモタワー)
新宿駅新南口
②東京都議会議事堂(議事堂通り)
都議会1
③東京都議会議事堂(都庁都民広場より)
都議会2
④東京都庁第一本庁舎(新宿中央公園前より)
都庁第一庁舎1
⑤東京都庁第二本庁舎(都庁通りより)
都庁第二庁舎
⑥東京都庁第二(左手前)・第一(第二の隣)本庁舎(都庁通りより)
都庁第一第二庁舎
⑦新宿中央公園
⇓左は第一本庁舎、⇓右は第二本庁舎
新宿中央公園
⑧中央通り(JR新宿駅方面、右は見えないが都議会議事堂)
新宿中央通り
⑨新宿NSビル30階天井(1階ロビーから)
⇓真ん中に見えるのは29階「空中ブリッジ」
新宿NSビル天井

JR新宿駅西口 淀橋浄水場と都庁舎

①新宿新都心と淀橋浄水場
以下、「東建月報」2000年2月号(注1)に掲載された「新宿新都心と淀橋浄水場」より、新宿新都心(注2)の変遷を簡略に顧みることにする。
「明治32年<1899年>、……1日17万立方メートルの水を鉄管の水道網で都心部に供給する最新システムの淀橋浄水場が<現在のJR新宿駅西口に>完成した。」「その後、明治、大正、昭和と大震災や戦争を経て、67年間、東京の人々の生活を支えてきた淀橋浄水場も、昭和40年<1965年>3月31日、その歴史の幕を下ろすことになった。」「淀橋浄水場は東村山浄水場にその機能を移し、この跡地と周辺を含む96ヘクタールの区域に、道路や公園を整備し、官庁街、オフィス街、デパート、ホテル、商業施設等を有機的に配置する立体的で効率的な新宿新都心計画がスタートした。」計画の決定は昭和35年(1960年)のこと。「昭和42年<1967年>に西口駅ビル、西口広場および駐車場が完成、翌昭和43年<1968年>には新宿中央公園が竣工した。この間、駅周辺では百貨店や大型ビルの建設が相次いで進められ」る。「昭和46年<1971年>は新宿初の超高層ビル、京王プラザホテルが完成……、昭和49年<1974年>には住友ビル、KDDビル、三井ビルが竣工、51年<1976年>には安田火災本社ビルと次々に200メートル級のビルが完成し、本格的な超高層ビル時代へ突入していった。」「そして平成2年<1990年>、東京都庁舎が完成……。」平成28年(2016年)、JR新宿駅南口のさらに南側に「新南口」が誕生(なお、この「新南口」は旧「新南口」や旧「サザンクロス口」と同じエリアにある)。新南口の改札は、新南改札と甲州街道改札、ミライナタワー改札の3か所。

②東京都庁舎
ブログ「歴史ファイル東京編」(都庁舎概要)より、下記に一部を引用させていただいた。「丸の内の旧都庁舎は、1970年代には建物の老朽化、狭隘化、分散化といった問題が発生しており、解決が望まれていた。」「1985年9月に都議会で“東京都庁の位置を定める条例”が可決され新宿副都心に<新庁舎が>建設される」ことになる。「1991年4月1日に丸の内の旧庁舎から移転し、都庁としての業務をスタートした。第一本庁舎、第二本庁舎、都議会議事堂の3棟からな」る。
・東京都庁第一本庁舎…地上48階、地下3階。高さ243.4メートル
・東京都庁第二本庁舎…地上34階、地下3階。高さ163.3メートル
・東京都議会議事堂…地上7階、地下1階。高さ41.0メートル

(注1)「東建月報」は東京建設業協会の月間機関誌。2000年2月号の「シリーズ世紀を架ける-東京のインフラ整備」より引用。
(注2)新宿「新」都心は、新宿「副」都心ともいう。昭和31年(1956年)、首都圏整備法が公布。昭和33年(1958年)の首都圏整備計画により、新宿・渋谷・池袋が副都心と定められた。その後、昭和35年(1960年)に決定された新宿副都心計画により開発が進められる。

冬の公園(5)相模原公園 

神奈川県立相模原公園は「昭和48年<1973年>から座間小銃射撃場(注)跡地を中心に相模野の面影が残る樹林と桑畑を買収して整備」されてきた。昭和54年(1979年)に開園。「平成4年<1992年>の全国都市緑化フェアの開催を機に隣接する<相模原>市立相模原麻溝(あさみぞ)公園とともに全面的に再整備……。」「広々とした芝生広場、メタセコイア並木に囲まれたフランス風庭園、温室、花菖蒲園、雑木林などで緑と花と水で構成され自然探勝、花の観賞そして家族連れやグループでのびのびと楽しめる……。」(神奈川県立相模原公園概要より)
JR横浜線古淵駅から相模原公園へ行く場合は、「古04系統 麻溝台(あさみぞだい)一丁目経由女子美術大学行」に乗り、女子美術大学バス停で下車。JR古淵駅から約20分。車で行く場合は282台を収容する有料駐車場がある。
(注)1937年(昭和12年)に開設された「陸軍士官学校練兵所」の小銃射撃試験場が米軍に接収され、「在日米軍厚木小銃射撃場」、後に「座間小銃射撃場」(改称)となった。1969年(昭和44年)に全面返還。その後、2年間の自衛隊の使用や公園の整備を経て、1979年(昭和54)年「神奈川県立相模原公園」が開園した。(神奈川県相模原「基地の街から政令指定都市へ」から自由に引用)。

<写真>
相模原公園1
相模原公園2
相模原公園3
相模原公園4