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浅草 下町七夕まつり

孫たちといっしょに浅草、下町七夕まつりへ出かけた。
 「上野と浅草を結ぶかっぱ橋本通りを色鮮やかな七夕飾りや提灯飾りが彩」り、通り全体が歩行者天国になる(7月7日と8日のみ)。距離は約1.2km。「短冊へ願い事を書いて、通りの各所に設置されている竹に自由に結わえることができる。」「七夕というより下町の風情がある祭りという感じで、ゆかたを着てでかけるのにぴったり……。」もちろん孫も浴衣を着て出かけた。期間は7月5日から9日までだが、7日と8日は、メインイベントが催され、「パレードやストリートパフォーマンスなどが行われる」。例年の人出は約46万人。屋台・露店数は約130店。もちろん地元商店も出店している。
 東京メトロ銀座線「浅草駅」からも、JR山手線「上野駅」からも行けるが、少し歩かなければならない。そこで私たちは、つくばエクスプレスを利用し、「浅草駅」で下車。駅を出るとすぐ、合羽橋本通り商店街。

<写真>
下町七夕まつり20180701
下町七夕まつり20180702
下町七夕まつり20180703
下町七夕まつり20180704
下町七夕まつり20180705
下町七夕まつり20180706
下町七夕まつり20180707
⇓中央にスカイツリーが見える
下町七夕まつり20180708
<参考>
以下のサイトを参考にしました。
①「下町七夕まつり」(台東区ホームページ)
②「第31回下町七夕まつり」(レッツエンジョイ東京)
③「浅草~上野 下町七夕まつり2018年の日程とアクセス」(【調べてみた】ブログ)
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クロスケの家 トトロの森 八国山緑地

1.クロスケの家
 「公益財団法人トトロのふるさと基金」のパンフレットから「クロスケの家」(注①)を紹介する。なお、この「家」は埼玉県所沢市三ヶ島にある。
 「映画『となりのトトロ』の舞台のモデルになったといわれる狭山丘陵(注②)。クロスケの家はこの丘陵の北麓にあります。狭山丘陵の里山の景観は、自然と人とが共生する人々の暮らしの中で育まれたものでした。」
 1990年に始まった「『トトロのふるさと基金』は2004年、この地で築100年を超える古民家を取得し、『クロスケの家』と名付けました。失われようとしているトトロの景色を守ろうと市民により始められた『トトロのふるさと基金』。クロスケの家はこの活動の拠点施設です。会費・寄付の受付、森の管理のほか、さまざまな活動の基地となっています。」

2.トトロの森 八国山緑地
 八国山(はちこくやま)緑地は、東京都東村山市にある都立公園。すぐ北は、埼玉県所沢市。この八国山緑地は、「なだらかに広がる狭山丘陵の東端に位置し」、この丘陵の「全体がコナラ、クヌギ等の雑木林になって」いる。標高はおよそ90mだが、頂上らしきものはない。「八国山緑地の名は、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)、安房(あわ)、相模(さがみ)、駿河、信濃、甲斐の八カ国の山々が眺望できたことに由来する、と言われてい」る。ただ現在は、雑木林に囲まれているため展望はできない。(注③④)
 映画『となりのトトロ』の舞台は、この八国山のある狭山丘陵らしい。また、主人公のサツキとメイの母が入院している『七国山病院』のモデルは、新山手病院(または、すぐ隣にある東京白十字病院)だとされていて、この緑地のすぐ近くにある。(注④)
 私自身は、宮崎駿監督(注⑤)の初期の作品を子どもたちといっしょに見たくらいで、とくに詳しいというわけではない。個人的には、『魔女の宅急便』が好みで、音楽もすばらしい。『耳をすませば』にも少し惹かれる。

<写真>
①クロスケの家
クロスケ20180701
クロスケ20180702
クロスケ20180703
クロスケ20180704
②八国山緑地
八国山20180705
八国山20180706
八国山20180707
⇓林の向こうは北山公園
八国山20180708
④新山手病院…「七国山病院」のモデル?
八国山20180709

<注>
①公益財団法人トトロのふるさと基金「クロスケの家
②東京都と埼玉県にまたがる狭山丘陵には、多摩湖や狭山湖周辺の水源保護林を中心に、狭山公園・八国山緑地などの公園がある。映画『となりのトトロ』の舞台のモデルになったといわれる狭山丘陵は、「トトロの森」に象徴される里山がいたるところに残っている。(Go Tokyo「狭山丘陵」より)
③狭山丘陵の都立公園へきてみて!「八国山緑地
④Wikipedia「八国山緑地
⑤ジブリグッズ大百科「宮崎駿監督がトトロ緑の地・所沢に住むワケとは

<地図>クロスケの家、八国山緑地
クロスケ八国山地図20180710

「安い服 しわ寄せ働く人に」

 ある新聞に次のような記事(注①)があった。見出しは次のようである。
 「安い服 しわ寄せ働く人に」
 「低コスト・大量生産が支え
  低賃金・長時間労働強いる」
 ……読むとすぐ、論壇時評「観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」(注②)の記事を思い出した。

 この記事の前文(リード)は次の通り。
「多くの新品の服が売れ残り、廃棄されている(注③)。背景には、流行を追いかけ、より安く大量に供給する衣料市場の現状がある。その影響は、国内の製造現場で働く人の暮らしも脅かしている。」
 以下もこの記事からの引用である。
 「経済産業省が<2018年>6月に公表した資料(注④)によると、国内の衣料品の供給量はバブル期の約20億点から20年で約40億点に倍増した。一方、家計の衣料品の購入単価は約6割に減った。競争が激しくなり、メーカーは費用を抑えようと人件費の安いバングラデシュなどに発注するようになった。」
 「国内を代表するアパレル産地の愛知・岐阜両県にまたがる名岐(めいぎ)地区では、生産の海外化のあおりで縫製業者が激減した。いま、残る工場の主な働き手となっているのは中国や東南アジア出身の技能実習生だ。」「服の価格が安くなり、メーカーが要求する加工賃では低賃金の実習生でないと立ち行かない」という。
 3年前に来日したベトナム出身の実習生の女性(32)は、「……連日、朝8時前から夜10時過ぎまで残業して働いた。休みは月に2、3日しかなかった」と泣きながら語っている。彼女の凄惨な労働環境は、この記事を読んで欲しい。
 「名岐地区で縫製業を営む男性は工場経営の厳しさを明かす。昨年(2017年)、労働基準監督署から最低賃金違反を指摘された。当時、実習生に払っていた賃金は時給換算で約400円。繁忙期には残業は月200時間に及んだ。」残業が月200時間!これでは、いつ過労死してもおかしくない。「男性の工場は、『振り屋』と呼ばれる中間業者から衣料品メーカーの下請けとして受注していたが、メーカーが海外に発注するようになって仕事が激減した。『メーカーも消費者も、ものつくりにどれだけのコストがかかるのか考えてほしい。服の値段が安くなる陰で、誰かが泣いている』」と。
 「『ファッション・ビジネス』という言葉を日本に紹介した尾原蓉子(おはらようこ)さんは『安い商品を大量に作り、大量廃棄する手法をいつまでも続けることはできない……』」と指摘している。

 賃金の安い国と「同じ土俵」で戦うことは、日本ではもうできなくなっている。私たちの身の回りの製品は、近隣諸国だけでなく、東南アジアや南アジアで生産されているものばかりだ。日本国内ではすでに、いろいろなモノを生産しなくなっている(つくることができなくなっている)。産業構造の転換はたやすくはなく、企業も生き残るのに必死だ。
バブル崩壊以降、日本企業の海外進出は加速し、本来あるはずの国内の雇用を減らした。いっぽう日本に残った企業は、政府のいう「多様な働き方」「働き方改革」の推進と相俟って、国内で「安い」商品をつくるため、技能実習生の雇用や日本人の非正規雇用を増大させた(注⑤)。「安い服」の「しわ寄せ」は、「働く人に向かい」、「低賃金と長時間労働を強いる」。品質もよく、価格も安い商品を買うのは当然のことだ。ただ時には、商品の「適正な価格」とは何か、ということも考えてみたいものだ。

 法政大学総長田中優子氏は、「江戸時代には、新品の着物を呉服屋で仕立てるのは富裕層だけ」だった、という。「古着市場が大きく、古着店から行商まで、いろんなタイプの古着屋がいました。購入された古着は何十年にもわたって、さまざまな用途に使いまわされ」ていた。「今後の日本がめざすべき循環型社会のモデルが、江戸の着物社会にあるように思っていたのですが、実は若い人の間でそうした動きが始まっている……。メルカリで売買し、お直して着ることにも慣れている人が増えている」のだという(注⑥)。
 「服が安く買える社会」は、私たちの生活や商品生産のありようも問うている。

<注>
①朝日新聞、2018年7月3日
②朝日新聞、2018年5月31日
③「捨てられる新品の服」は「年10億点」にもなる(注①より)。食品の場合はどうか。「いま、日本では、食べられるのに捨てられてしまっている食品(食品ロス)が、年間で642万トンもあります。これは、国連が食糧難に苦しむ国々に援助している総量(320万トン)のおよそ2倍です。背景には、『必要な量』よりも多くの食品を生産することが当たり前になってしまっているという実態があります。スーパーなどの小売店は、棚に並んだ食品を切らさないように、こまめに卸売やメーカーに注文しています。その注文にきちんと応えるために、卸売やメーカーでは常に余裕をもって在庫を抱えていることが多いのです。その結果、賞味期限が近づいて、廃棄されてしまう食品が多くあることがわかっています。」(経済産業省「642万トンの食品が廃棄」より)
④資料とは、経済産業省「繊維産業の課題と経済産業省の取組」(平成30年6月)のこと。
⑤日本の非正規雇用(役員を除く)の割合は4割近くにも達している(2017年)。男女では37%、男性で28%、女性で55%になる。また、「正社員で働く機会がなく、非正規雇用で働いている者(不本意非正規)の割合は、非正規雇用労働者全体の14.3%(平成29年平均)となってい」る。25歳から34歳で見ると、およそ57万人、22.4%になる(厚労省「非正規雇用の現状と課題」平成29年度能力開発基本調査より)。だが、この数値(「不本意非正規」の割合)は現状を正しく反映しているのだろうか。人出不足というが、必要なのは非正規雇用労働者と外国人の技能実習生ばかりであろう。
⑥朝日新聞、耕論「服が安く買える社会で」(2018年7月5日)より。

石神井公園 善福寺公園

 都立石神井(しゃくじい)公園と都立善福寺公園は、東京都区内にある公園なのに自然がよく残されている。私は、同じ日にこの2つの公園を訪れた。西武池袋線石神井公園駅で下車し、歩いて5分くらいで石神井公園に到着する。この公園をゆっくり散策すると元の駅へ戻り、ここからバスでJR中央線荻窪駅へ向かう。この駅からバスで10分ほどで善福寺公園に到着する。この公園でも、池の周囲をゆっくり散策する。

 石神井公園は、東京都練馬区にあり、三宝寺池と石神井池の2つの池を中心とした公園。休日にボートで賑わうのが石神井池、木々に囲まれ静寂な趣きがするのが三宝寺池。この三宝寺池には沼や沢などに生える植物の群落があり、カキツバタをはじめ、多くの水生植物が繁茂する。また、室町時代にこのあたりを領有していた豊島氏の居城跡が、三宝寺池の南側台地にある。
 善福寺公園は東京都杉並区にある。ここも自然がよく残されている。この公園内にある善福寺池は上の池(北)と下の池(南)の2つに分かれ、アシ、スイレン、ハスなどの水生植物が繁茂する。善福寺池は、三宝寺池(石神井公園)と井の頭池(井の頭公園)と並んで、武蔵野三大遊水池のひとつとして知られている。

<写真>
①石神井公園
⇓石神井池
石神井20180701
⇓三宝寺池
石神井20180702
石神井20180703
②善福寺公園
⇓善福寺池(下の池)
善福寺20180704
善福寺20180705
善福寺20180707
善福寺20180708
<参考>
①東京都公園協会「石神井公園」より
②東京都公園協会「善福寺公園」より
③花と緑の公園愛好会『散歩にでかける公園・庭園図鑑』(首都圏版)

佐原の町並み 伊能忠敬旧宅・記念館

 2018年は伊能忠敬(いのうただたか)の没後200年にあたる。そこで、伊能忠敬が17歳から50歳まで過ごした佐原(さわら)へ行くことにした(注①)。ここには、伊能忠敬の旧宅と伊能忠敬記念館がある。
 忠敬は、上総国(かずさのくに)山辺郡小関村(現、千葉県九十九里町小関)に生まれ、17歳のとき、佐原村(現、千葉県香取市佐原)の伊能家に婿養子に入る。伊能家はこの佐原村で酒造業などを営んでいた。49歳で隠居し、翌寛政7年(1795年)、50歳のとき幕府天文方高橋至時(よしとき)に入門する。寛政12年(1800年)、55歳のときから日本全国を測量して歩き、日本最初の実測(注②)日本地図(通称「伊能図」)をつくりあげた(注③)。伊能忠敬記念館では、忠敬の人生を年代順に追い、「伊能図をあますところなく紹介」している。
 佐原は、江戸時代から利根川水運の中継地として発展し、商人の町として栄えた。伊能忠敬旧宅の近辺には、江戸・明治・大正・昭和期の町家・土蔵・レンガ造りなどの情緒漂う建物が数多く残っているため、関東で初めて国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。
以上は、「伊能忠敬記念館」のパンフレットから適宜引用。また、渡辺一郎・鈴木純子著『図説伊能忠敬の地図をよむ』(改訂増補版)も参考にした。

<写真>
①忠敬橋から伊能忠敬旧宅方面を見る
佐原20180701
②伊能忠敬旧宅
佐原20180702
⇓右の建物が伊能忠敬旧宅
佐原20180703
③小野川沿いの商家「東海」
佐原20180704
佐原20180705
④小野川、両側に商家が並ぶ
佐原20180706
⑤現在も営業を続けている商家
⇓暖簾と虫よけネット
佐原20180707
⇓いろいろな商家
佐原20180708
佐原20180709

<注>
①忠敬の年齢などについては「伊能忠敬記念館」のパンフレットなどを参考にした。以下、同様。
②江戸時代には「厳密な実測図は必要なかった……。おおよその距離と徒歩交通に必要な情報を書き入れた絵図があれば、充分であった。」「ところが、幕末になって西洋文明が急速に流入」すると、「実測図でなければ、もやは地図とは呼べないことになる。そしてこの時、実測図を作るための原資料は、伊能図<大日本沿海輿地(よち)全図>しか存在していなかった」(前掲書より)。
③伊能忠敬が作成した地図は、幕府に提出(1821年)されてから50年後の明治に、ようやく本格的に使い始められる。さらに108年後の昭和4年(1929年)まで部分的に使い続けられた。(前掲書より)

伊能忠敬と日本全図

 私は「地図」を見るのが好きだ。ずっと眺めていても飽きない。伊能忠敬たちが作成した地図は「大日本沿海輿地(よち)全図」と呼ばれている。「沿海」とあるように、海岸線を17年間も歩いて日本全国を測量し、地図を作製した(資料①)。「輿地」(よち)は「大地」の意味。

以下、渡辺一郎・鈴木純子著『図説伊能忠敬の地図をよむ』(改訂増補版)より引用する。
1.地球の大きさを測る
 伊能忠敬は「49歳で隠居」。50歳のとき「江戸に出て天文・暦学を志し、19歳年下の幕府天文方・高橋至時(よしとき)に入門する」。
 天文・暦学を学んでいた伊能忠敬が、「なぜ日本全土の測量をすることになったの」か。「至時に師事していた忠敬は、暦学上の解析のため地球の大きさが問題になっていることを知り、<自宅のある>深川<現、東京都江東区門前仲町>で地球の大きさを測ることを思いついた」。 忠敬は浅草の暦局(れききょく、幕府天文台の通称)と自宅のある深川黒江町の直線距離を測り、子午線上の緯度1分の距離を1631mと試算した。そしてこの値から地球の大きさを求めた(注①)。ところが「至時から『そんな短い距離でやってみても誤差が大きくて駄目だ。しかしもっと長い距離で行えば使えるかもしれない。考えてみよう』と言われ、蝦夷地(えぞち)測量の計画が練られ始めたという。高橋<至時>らは当時、地球が球体であることは分かっていたが、<正確には地球の>大きさは分からなかった……」。こうして、地球の大きさを求めるため、江戸から東北・北海道までの測量を始めることになった。「本当は、地球の大きさを知りたかった」ということ。

2.測量の旅
第1次測量隊の出発は寛政12年閏4月19日(西暦1800年6月11日)。早朝5時ころに江戸を出発。「蝦夷地の根室近くのニシベツ<現在の別海町>まで歩き、往復3200㎞の道を歩測により180日かかって測量した(注②)。また、各地で恒星の高度を測り、深川の自宅で観測した恒星表と比較して緯度を求めた。」ただこの地図では、「測量した蝦夷地の東南岸と奥州街道しか描かれて」いない(注③)。
 「忠敬たちは日本全国を10回に分けて測量……。前半の4回の測量で東日本を測り終え」た。「地図の正確さに感心した幕府は、後半の西日本測量はお金を出してくれ」たという(注④)。つまり、幕府直轄の測量事業になったということ(第5次測量より)。「伊豆七島を測量した第9次測量は、文化12(1815)年4月27日に江戸を出立して始ま」ったが、「遠距離の渡海をともなうので、高齢の忠相は参加をとりやめ」ている。また江戸を測る、最後の第10次測量も「ほとんど下役と弟子に任せたのではないかと考えられる。」(資料②)こうして10回に及ぶ測量で、「測量隊が歩いた距離は約40000キロ(地球一周分と同じ)に」なった(注④)。
 日本全国の測量を終え、地図作りが始められたが、忠敬は文政元年(1818年)に亡くなる。「地図作りは弟子たちによって続けられ3年後に地図が完成」した(注④)。

3.最終版伊能図の利用
 「最終版伊能図は、文政4(1821)年に幕府に提出された。正式な名称を大日本沿海輿地(よち)全図という。伊能図の最終版……は大図214枚、中図8枚、小図3枚の膨大なものであった。」(注⑤)
 「伊能小図をもとにした『官板実測日本図』が幕府開成所から刊行されたのは、慶応元(1865)年である。これは、伊能図が公刊された最初であるが、木版の高価な地図だったので、庶民が使うものではなかった。しかし、忠敬が幕府に上程した50年後の明治4(1871)年以降になると、一般市民を対象にした、伊能図を源流とする日本全図が続々と刊行されることになる。」その後「三角測量が進められ、一ブロックごとに新しい帝国図に置き換えられてい」き、最終的に伊能図が「姿を消したのは、昭和4(1929)年で、伊能図が幕府に提出されてからじつに108年後であった。こうして伊能図は幕府提出の50年後から本格的に使い始められ、部分的ではあるが108年後まで生きていたことになる。伊能図は、明治のために作られ用意されていたような感じである。」
 2018年は伊能忠敬没後200年。忠敬の地図作りの苦労を偲んでみた。

<注>
①緯度1分=緯度1度の60分の1。したがって緯度1分の距離を、60×360すれば、地球の大きさ(子午線の長さ)が求められる。「理科年表では35度付近の緯度1分の距離は1849.2mで」、忠敬の測定値には「約11.8%の誤差」があった。その後の第2回測量では1845.63mと試算し、「誤差は0.2%」となった。誤差が0.2%の場合、地球の大きさはおよそ3万9866kmとなる。
②忠敬が「歩測」で測ったのは第1次測量だけで、「……第2次測量からは徹底して間縄(けんなわ)を張って測っている。」「間縄」の縄は、「価格が安いが水分による伸縮があり、強度も弱く、強風に煽(あお)られるなどの問題もあり、鉄鎖(てっさ)とともに併用され」ていた(国土地理院「地図と測量の豆知識(伊能図)」より)。より詳しい測量の仕方については、下記の資料を参照して欲しい。
③奥州街道の最先端(津軽半島)である三厩(みんまや)まで歩き、北海道の渡島(おしま)半島へ渡る。吉岡(北海道福島町)、松前、箱館(のちの函館)、室蘭、苫小牧、襟裳岬、釧路、ニシベツ(別海町)を測量。
④「伊能忠敬記念館」パンフレットより
⑤北海道については、伊能忠敬は南東岸(南半分)しか測量していない(第1次測量)。そこで、「間宮海峡」で著名な間宮林蔵が「蝦夷全土を測量し、忠敬の大日本沿海輿地(よち)全図の北海道部分を完成させた……。」間宮林蔵が初めて伊能忠敬と出会ったのは蝦夷地で、寛政12年(1800年)のこと。その11年後の文化8年(1811年)5月8日から11月25日にかけて、林蔵は忠敬から本格的に測量を学ぶことになる。林蔵は「忠敬が測量することの出来なかった根室から反時計回りにオホーツク海を北上。稚内から日本海を南下し渡島半島までを測量し、更に忠敬が測量した東蝦夷地も再度測量して」いる。この項は資料④より引用させていただいた。
伊能忠敬たちが作成した、実際の地図は以下のサイトを参照して欲しい。
①NHK「大日本沿海輿地全図
②佐原市伊能忠敬記念館「正確な日本地図

<資料>
①漆原次郎「『地図作り』は科学技術のかたまり」(Z会「さぽナビ」より)
②渡辺一郎・鈴木純子『図説伊能忠敬の地図をよむ』(改訂増補版)2010年
③NHK歴史ヒストリア「あなたの先祖も手伝った!?伊能忠敬 究極の日本地図
NHK大阪放送局ブログ「日本地図にささげた情熱 伊能忠敬
④「伊能忠敬と間宮林蔵―北海道の歴史」(ブログdaydream、2012年8月29日)