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能取湖 サロマ湖

1.能取(のとろ)湖
 網走市にある能取湖はオホーツク海に面し、この湖の北東に能取岬がある。以前は、海水流入部の湖口(ここう、こぐち)が季節ごとに、自然に開閉する汽水湖(注①)であったが、1973年(昭和48年)に護岸工事が行われて湖口が固定され、現在は完全な海水の湖となった。湖ではおもにホタテやサケ、北海しまえび(ホッカイエビ)、カレイなどが獲れるという。(注②)

2.サロマ湖
 サロマ湖は、北見市、佐呂間町、湧別町の3つの自治体にまたがる湖。面積約152km2、周囲91kmで、日本で3番目大きく、北海道では最大。オホーツク海とつながる汽水湖だが、湖水の塩分濃度は海水に近い。汽水湖としては日本最大。オホーツク海とサロマ湖を隔てる砂州は長さ25km、幅200~700m。北見市常呂(ところ)町側の砂州にはワッカ原生花園がある。現在、湖の水質改善や漁船の出入りを目的として開削された、2つの湖口がある。(注③)

<写真>
⇓能取岬灯台。右に小さく知床連山が見える
能取岬2018082914
⇓サロマ湖。サロマ湖展望台より
サロマ湖2018082915
<地図>いずれもGoogleマップによる
①能取湖 能取岬
サロマ湖2018082912
②サロマ湖
サロマ湖2018082911
3.海跡(かいせき)湖
 網走市北浜地区(白鳥公園内)にある「濤沸(とうふつ)湖水鳥・湿地センター」のWebサイトには、「海跡湖」のことがおおよそ次のように書かれいる。
 サロマ湖、能取(のとろ)湖、濤沸(とうふつ)湖などの湖は、もともと海の一部であった。7000~3000年前、海面は現在より最大2~3mも高く、これらの湖は大きな入り江(湾)になっていた。3000~1200年前頃になると、海水面が現在の高さまで低下。沿岸流によって運ばれた砂が湾の入り口に堆積してできた砂州(さす)などが、海の一部であった湾を閉ざし、湖になった。
 このように、海の作用で堆積した土砂により砂州などが発達し、湾など海の一部が区切られてできた湖を「海跡湖」という。(注④)

<注>
①海水と淡水が入り交じっている塩水湖(淡水湖ではない湖沼)を汽水湖(きすいこ)という。浜名湖、宍道湖など。汽水湖は開水路を通じて海水と交流がある場合がほとんどだが、開水路がなく地下水を通じて海水と交流がある場合もある。(Wikipedia「湖沼」より)
②Wikipedea「能取湖」より
③Wikipedea「サロマ湖」より
④濤沸(とうふつ)湖水鳥・湿地センター「海跡湖」を参考にした。このほか、林正久「日本の潟湖の分布と宍道湖=中海(なかうみ)低地帯の地形形成」(PDF)や、ブリタニカ国際国際大百科事典「海跡湖」などを参照した。
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北海道命名150年 (3)北見市 ハッカ記念館 野付牛公園

 私は2018年7月、はじめて北海道北見市を訪れた。それまでは、JR石北本線北見駅は列車で通過するだけだった。私の北見市のイメージといえば「ハッカ」、最近では「カーリング」であろうか。カーリングチームの「ロコ・ソラーレ」(LS北見)が拠点としている北見市常呂(ところ)町(自治区)はオホーツク海に面した町。北見市の北北東にあり、JR北見駅からずいぶん離れている。この常呂町は、網走からサロマ湖へレンタカーで行く途中、通過した。
 JR北見駅で下車するとまず初めに北見ハッカ記念館を訪れる。ついでJR美幌(びほろ)駅からバスで端野町歴史民俗資料館(北見市端野町)を訪れた。バスの窓から農村風景などをじっくりと眺める。グーグルマップで確認し、一番近いと思われるバス停「屯田の杜公園」で下車。この資料館への来訪者はとても少なく、残念だ。再びバスに乗り、野付牛公園内にある北網(ほくもう)圏北見文化センターへ。「北網」とは、北見・網走の略だろう。野付牛公園内の「ボート池」周辺や「イチイの森」を散策したあと、JR北見駅までバスで戻り、ここで1泊する。

<写真>
①北見駅周辺
北見市は、市町村の面積ランキングで北海道(北方領土を除く)1位、全国でも4位。人口は道内8位(2017年)。玉ねぎと、煮豆や甘納豆の原料になる白花豆(しろはなまめ)の生産が日本1位。
北見2018082301
②北見ハッカ記念館、薄荷蒸溜館
⇓北見ハッカ記念館。1983年に閉鎖した北見薄荷工場の旧事務所を記念館とする
北見2018082302
北見2018082304
⇓薄荷蒸溜館。ハッカ農家が薄荷油を取る工程を再現し、歴代の蒸溜機器や道具を展示
北見2018082305
北見2018082306
③端野町歴史民俗資料館(北見市)
⇓北海道では、どの市町村でも、郷土の歴史を伝えることに熱心だ
北見2018082307
④北網(ほくもう)圏北見文化センター
⇓野付牛公園内にある。博物館・科学館・美術館・プラネタリウムの4つの機能を持つ複合施設
北見2018082308
⑤野付牛公園(北見市)
⇓公園内にある「ボート池」。市制(北見市)施行までの町名(「野付牛」町)が公園名になっている
北見2018082309
⇓公園内にある「イチイの森」。「イチイ」は常緑針葉樹
北見2018082311

北見市とハッカ

 北見市は、かつてハッカの世界的な生産地であった。この伝統を、今も守ろうと奮闘している企業がある。ところで、私は、ハーブ、ミント、ハッカなどの違いもよく分からない。そこで、このことを少し調べてみた。 
 1897年(明治30年)、北見地方に屯田兵や開拓移民団が入植すると、やがてこの地方で薄荷栽培が急速に普及。1934年(昭和9年)、北聯野付牛(現北見)薄荷工場が落成したことで、北見ハッカは世界のハッカ市場の7割を占めることになった。ところが戦後、ブラジルや中国などから輸入が急増、さらに輸入が自由化され、合成ハッカも台頭。1983年(昭和58年)、世界に誇った「北見ハッカ工場」が閉鎖に追い込まれ、北見のハッカ産業は衰退した。
北見地方の発展に大きな役割を果たした北見ハッカの歴史的・文化的遺産として、北見市は1986年(昭和61年)、旧ホクレン北見薄荷工場の事務所を改修し、北見ハッカ記念館を開設。なお、「ハッカの灯を消してはいけない」と、工場閉鎖の翌年(1984年)、「北見ハッカ通商」が発足。この会社(現在は株式会社)は、創業から四半世紀を迎え、地場原料の需要拡大と製品開発を活性化させている。現在、ハッカ栽培の面積は増反(ぞうたん)速度を一層早めている、という。

 ハーブは、ローズマリーやラベンダー、ユーカリなどの「木本類」と、バジルやミント、サフランなどの「草本類」に大きく分類(大分類)されるという。草本類に分類されているミント(中分類)だが、英語では「ミント」、中国語では「薄荷」。「ハッカ」はミントの和名だが、「ニホンハッカ」(和種ハッカ)を意味することもある。なお、「薄荷」は今から2000年以上前に中国から日本に伝わったという。
ミントは紀元前より世界中でさまざまな品種が栽培され、草や、抽出されたエキスは、私たちの生活にはかり知れない役割を果たしてきた。現在も、ハッカは、食品類や医薬品、香水、化粧品ばかりでなく、芳香剤やアロマ関連などの加工品にも利用されている。

<写真>
⇓北見ハッカ記念館
北見2018082303
⇓カーリーミント。和名は「縮緬薄荷」(ちりめんはっか)。ハーブティーや料理用スパイスとして利用されている。北見ハッカ記念館のまわりはハーブガーデンになっていて、さまざまな種類のハーブを見ることができる。
北見2018082310
<北見ハッカの歴史>
1901年(明治34年)このころから、北見地方などで薄荷栽培が活発になる
1934年(昭和09年)北見に薄荷工場が落成
1939年(昭和14年)このころ、北見薄荷が世界市場の7割を占める
1969年(昭和44年)このころ、合成薄荷脳(メントールの結晶)が天然薄荷を圧倒
1983年(昭和58年)ホクレン北見薄荷工場閉鎖
1984年(昭和59年)北見ハッカ通商が創業
1986年(昭和61年)北見ハッカ記念館が開館
2002年(平成14年)ハッカ記念館の敷地内に薄荷蒸溜館を併設

<参考>
「北見ハッカ記念館 薄荷蒸溜館」のパンフレット、②株式会社北見ハッカ通商のWebサイトなどを参考にした。ハーブの分類と、ミントはWikipediaによる。また、ハーブの分類については、「ハーブの種類、生育環境、育て方のまとめ」(ブログ「エルバスの日々」)も参考にした。なお、参考にした原文に従って「ハッカ」と「薄荷」を使い分けたが、それ以外は「ハッカ」で統一した。

北海道命名150年 (2)旭川市博物館 旭川兵村記念館 

1.旭川駅とその周辺
 1973年8月、私は旭川市をはじめて訪れた。たぶんユースホステルに泊ったのだと思う。2013年7月に再訪すると、旭川駅は近代的な駅に生まれ変わり、すぐ駅前にイオンモールが建設中であった。駅の北にまっすぐ伸びる商店街(「平和通買物公園」という)も2002年に全面的にリニューアルされていた(注①)。2018年7月、この商店街を通り、市の中心部に位置する常磐公園まで足を延ばす。この公園には、大小の、二つの池があるほか、図書館・美術館・公会堂などの施設が公園周辺にある。そして、すぐ北は石狩川。

2.旭川市博物館
 1993年(平成5年)、旭川市開基100周年記念事業として、JR旭川駅の南に大雪クリスタルホールが建設された。このホールは、国際会議場・音楽堂・博物館の3つからなる複合施設。このうち旭川市博物館は、「郷土の歴史と自然」を展示していた(注②)。2008年(平成20年)、この博物館は「アイヌ文化の紹介を中心にした展示にリニューアル」(注③)。1階展示室は「先住民のアイヌの歴史と文化」、地階展示室は「厳寒を生きぬく動植物と人」を紹介している。1度は訪れたいすぐれた博物館だ。

3.旭川兵村(へいそん)記念館
 1893年(明治26年)に建立された旭川神社の境内に旭川兵村記念館がある。この記念館には、「復元された屯田兵屋(へいおく)や、当時の生活用具などが展示されている」(注②)。なお、この記念館のある東旭川への入植は、1892年(明治25年)8月から開始された(注④)。

<写真>
①旭川駅とその周辺
⇓旭川駅南口駅舎
旭川20180801
⇓旭川平和通商店街
旭川20180802
②旭川市常磐公園
旭川20180803
旭川20180804
③旭川市博物館
旭川20180808
⇓アイヌ文化の紹介を中心にした展示
旭川20180809
④旭川兵村記念館
⇓この記念館は旭川神社の境内にある
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旭川20180806
旭川20180807
<注>
旭川平和通買物公園(旭川平和通商店街振興組合)
②『北海道の歴史散歩』2006年
③旭川市博物館パンフレットより
④旭川兵村記念館パンフレットより

 「昭和20年代に網走へ移民した女性たちの記録」

斜里女性史をつくる会編『語り継ぐ女の歴史』(第6巻、2001年)に、「昭和20年代に網走へ移民した女性たちの記録」(手記)が記されている。この手記から、「昭和時代でさえ、開拓民は縄文時代さながらの暮らしを強いられたことがわかる」。この本は現在、絶版(簡易印刷)であるため、以下の長い引用は「開拓の風景―明治の礎・北海道開拓―水土の礎」からの再録。なお、この手記はとてもよく知られており、あちこちで引用されている。

「開墾は、それはもう厳しいものでした。木の根があり、石があり、支給された鍬は、すぐ歯がボロボロになり何の役にも立ちません。まず木を切り倒し、薪にして売りに出します。その後、根を掘り起こし、大きな根は火薬抜根(注①)でおこしていきます(注②)。樹齢100年以上と思われる桂の木や、楢の木が何のためらいもなく次々と薪にされていったのです。やっとの思いで拓(ひら)いた土地に、麦、トウキビ、イナキビ(注③)等を植えましたが、斜里岳下ろしの強風にあおられ、なかなか収入には結びつきません。(中略)お風呂は下駄をはいて入るドラム缶、外には、熊、きつね、たぬき、へび等がこちらの動きを伺っています。(中略)卵を得るために飼ったニワトリは寒さのため卵を生まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、(中略)1間しかない掘っ立て小屋は、真ん中に炉が切ってあり、薪を燃やして暖をとり、夜はおき火に灰をかけ、四方から足を入れ炬燵(こたつ)にして休みます。朝起きると、布団の衿が凍っていたり、ふぶきの日には、布団の上にも雪が白く積もっています。もう少しましな家が欲しい、と皆さんに手伝ってもらい、柱を建て終わったところで、強風のため吹き飛ばされてしまったのです。この時に、開墾をあきらめて山を下りる(注④)決心をしました。」
「家といっても、小さな拝小屋(おがみごや、注⑤)でした。板、柾(注⑥)、釘等何もないので、やちだも(注⑦)の木の皮をむき、ぶどう蔓でゆわえて屋根にし、熊笹とか松の枝をぶどう蔓で巻いて壁にし、床は土間でした。真ん中に炉が切ってあり、大きな丸太んぼを常時くべ、火種を絶やさないようにしていました。くべる木は、なら、いたや、しころ等で、おんこ(注⑧)や松ははねるので使いませんでした。何しろ、寝るところが笹の葉をしきつめ、ムシロをしていましたので、火がはねると大変なのです。(中略)海水は命の水でした。浜へ遊びに行く時は、それぞれが一升びんやがんがん(注⑨)を持って行き、帰りには必ず海水をいっぱい入れて帰って来ました。塩、味噌、正油<醤油>が手に入るまでは、この海水が唯一の調味料でした。」
「ストーブもなく、川辺に石を積み、かまどを作って天気の良い日には外で食事、雨天はやむなく家の中で、煙突もない、かまどなので煙が家の中にたちこもり、天窓はありましたが開けられず、飯川さんの仏像(注⑩)が燻製になるのではと思いました。雨もりにも悩まされ、濡れては困るものを抱えて、一晩中逃げ回ったこともたびたびでした。ランプもなく、作業用ガス燈が一つだけでしたから、海岸でトッカリ(アザラシ)を捕り、その油を貝殻に入れて灯しました。肉も大切な栄養源でした。初めは、浜から拾った貝殻を食器替わりにしていました。」

<注>
下の注記は、私が分かる範囲で調べたものです。このため、追加情報や誤りがある場合はご指摘くださればさいわいです。
①昭和20年代のはじめ、開拓者たちは、巨木を切り倒した跡に残る根株(切り株)の除去に苦しんでいた。昭和21年(1946年)4月、「寺崎清治が石狩支庁の委嘱を受け、爆薬抜根ニ関する研究(調査)報告を提出したときから」火薬抜根の具体化が始まった(江別創造舎「火薬抜根」)。
②明治初めには、大きな根株は残しておくしかなかった。まさに人力だけで開墾をせざるを得なかった。下の写真のとおり、水田のあちこちに根株が残されていた。
⇓「明治40年代の旭川兵村の水田風景」(旭川兵村記念館より)
旭川20180810
③トウキビ、イナキビ…「トウキビ」はトウモロコシのことだろう。「イナキビ」は、北海道や東北地方で呼ばれている「モチキビ」のことで、餅や団子をつくる、キビの一品種だろう。
④「『山を下りる』の山とは、現在美しい田園風景が広がる丘陵地、豊里地区(斜里町)のこと」(網走開発建設部)。知床半島の北半が斜里町だが、豊里地区は斜里岳の北の麓。
⑤「『拝み小屋』は5坪ほどで、『掘っ立て小屋』よりも簡素で、丸太を斜めに立て掛けた屋根と壁を兼ねたもの。両手を合わせたように見えることから、こう呼ばれた。開拓民はまず『拝み小屋』で生活をはじめ、農作物が収獲できるようになると、『掘っ立て小屋』に建て替えた。」「『掘っ立て小屋』は約12坪ほどの丸太で建てられたもの。屋根をアシやササなどで覆い、床は板やアシなどを敷いて、ムシロで仕切り、一方は寝室、もう一方は中央に炉(ろ)を設けた茶の間兼台所であった。(札幌開発建設部「開拓初期-暮らし・社会1 治水100年」)
⑥「柾」(まさ、まさき)とは、屋根を葺く板のことか。「柾葺き」(まさぶき)とは、屋根の葺き方の一種だという。
⑦「やちだも」の漢字は「谷地梻」か。もしそうなら、「やちだも」は落葉広葉樹。
⑧いたや、しころ、おんこ…「いたや」とは「イタヤカエデ」(エゾイタヤカエデ)のことか。落葉高木で、日本では北海道と秋田県に自生する。「しころ」とは「キハダ」(黄肌)のことか。落葉広葉樹で、流通する多くは「シコロ」の名で北海道産。「おんこ」は「イチイ」(常緑針葉樹)のことで、北海道や北東北の方言では「オンコ」と呼ばれている。
⑨「がんがん」とは「缶」のことだろう。もしそうなら北海道の方言か。
⑩この「飯川さんの仏像」のことは、よく分からない。「飯川」とは地名だろうか。そういえば、この地名は宮城県にも石川県にもあるのだが……。そして、この両県は北海道移民の、かなり上位を占めている。

<参考>
下記の、北海道開拓や屯田兵関連の資料は、私が参考にした、おもなもの。
①「大地を拓(ひら)く―開拓の始まり」(「北海道博物館 赤レンガサテライト」)には、「開拓の始まり」や屯田兵について簡潔に記されている。
②開高健『ロビンソンの末裔』1973年
戦前戦後、北海道開拓団に参加人たちは、まるで無人島に漂着した「ロビンソン(クルーソー)の末裔」のようだ、と言いたいのだろう。開高健は、この小説を書くために「大雪山の麓にある開拓村へ季節ごとに取材へ行き長期滞在した」という(小説を旅をする第4回「打ち捨てられた開拓民の悲哀」)。
③札幌市教育委員会編『屯田兵』(さっぽろ文庫33)1985年
④金倉義慧(ぎけい)著『はるかなる屯田兵 もう一つの北海道民衆史』1992年
⑤若林滋『新たなる北へ 会津屯田兵の物語』2008年
⑥北国諒星『歴史探訪 北海道移民史を知る』2016年
⑦永井秀夫、大庭幸生編『北海道の百年』(県民100年史、1999年)など、北海道の歴史を扱った書物に、開拓の歴史が記されている。

北海道命名150年 (1)北海道開拓の村 北海道博物館 

 2013年7月、北海道上川郡標茶(しべちゃ)町にある標茶町郷土館(現、標茶町博物館)を訪れた。この郷土館で、明治はじめ、この地を開拓し、ここで暮らしている人びとの写真を見る。それらの写真は私にとって衝撃的であった。以来私は、北海道の開拓に関心を寄せるようになった。北海道の歴史などを事前に調べたうえ、2018年7月下旬に北海道を旅行。1973年8月以来、今回で6度目になる。

 明治のはじめ、北海道を開拓した人たちの苦難と努力がなければ、今の北海道はない(注①)。かつて北海道は「蝦夷地」などと呼ばれていた。1869年(明治2年)8月、松浦武四郎がこの地を「北海道」と命名。2018年(平成30年)、北海道命名150年を迎えた。

 私は、明治はじめの北海道の開拓の歴史などを学ぶため、北海道で博物館や資料館などを数多く訪れた。私はまず、札幌市厚別(あつべつ)区にある屋外博物館「北海道開拓の村」を訪れる。「1983(昭和58)年に開設した開拓の村は、約54haの敷地に、明治~昭和時代初期にかけて建造された北海道の歴史的建築物が、移築または再現されている。……市街地群・漁村群・農村群・山村群の4つのエリアに、合計63棟の建物が展示されている」(注②)。
 次いで、ここから歩いて10分ほどのところにある北海道博物館を訪れる。この博物館は北海道百年記念事業のひとつとして1971年(昭和46年)に開館した北海道開拓記念館を前身としている(注③)。今回は、特別展「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎」をおもにみる(注④)。

<写真>
以下の写真は、「開拓の村」で私が巡った建物の一部にすぎない。「野外博物館 北海道開拓の村」などを参考にした。
①北海道開拓の村
開拓の村20180801
⇑正面の建物は旧札幌停車場(停車場とは駅のこと)。「開拓の村」の正面玄関。

②旧札幌停車場
開拓の村20180802
⇑入口広場側から撮影。この建物は、1908年(明治41年)に建てられた札幌停車場(札幌駅)を縮小再現したもの。1882年(明治15年)に札幌駅が今の場所にできてから、3代目の駅。現在、「開拓の村」の管理棟。

③旧開拓使札幌本庁舎
開拓の村20180803
⇑この建物は、1873年(明治6年)に建てられた開拓使札幌本庁舎を再現したのも。アーリー・アメリカン様式。現在、この建物は、総合案内などがあるビジターセンターになっている。

④市街地群
開拓の村20180804
⇑「開拓の村」の中心に位置する市街地群には、官庁街、商店街、住宅街、職人街などがあり、中央の通りには馬車鉄道が走る。

⑤旧札幌農学校寄宿舎
開拓の村20180805
開拓の村20180806
⇑「開拓使仮学校に始まる札幌農学校(現北海道大学)は、明治9年(1876)現在の時計台付近に開学した。明治36年に現在の大学の位置へと移転して寄宿舎も新築され、同40年に“恵迪(けいてき)寮”と命名された。当時は玄関棟と2棟36室および厨房棟があったが、ここでは玄関棟と2棟12室を復元した。」

⑥旧納内(おさむない)屯田兵屋(とんでんへいおく)
開拓の村20180807
開拓の村20180808
開拓の村20180810
⇑「納内に屯田兵が入地したのは、明治28・29年である。明治8年(1875)に始まった北海道の屯田兵は、家族とともに兵村(へいそん)で暮し、北辺の警備と農業開拓に従事した。当初は士族を募集したが、明治23年からは主力を平民に移し、空知(そらち)・上川(かみかわ)・北見地方など北方内陸部に屯田兵村が作られていった。」(注⑤)

⑦開拓小屋
開拓の村20180811
開拓の村20180812
⇑「開拓小屋は開墾小屋とも称し、移住者が最初に建てた住居である。丸太を埋め立てて柱とし、桁や梁・垂木をわたし、笹や茅(かや)などで屋根や壁を葺き、出入り口・窓にはムシロを下げた。屋内は一部が土間で、他は笹や枯草を重ねた上にムシロを敷いて居間とし、炉を設けた。明治期のものを再現した」。

<注>
①現在、北海道の人口は537万人(2017年)。北海道の農業産出額は全国1位(2016年)。米の収穫量は全国2位(1位は新潟県)。野菜と畜産は全国1位である。北海道が本格的に開拓されておよそ150年。よくここまで開拓されたものだ。このほか、木材の産出額も1位(2015年)。海面および内水面漁業の漁獲高も1位(2016年。養殖収獲量を除く)。工業製品の出荷額(製造品)でも、全国47都道府県中15位(2015年)。「食料品」(飲料・たばこ・飼料を含む)は全国1位、「パルプ・紙・紙加工品」も全国4位(2015年)。以上のデータは『地理データファイル2018年度版』(帝国書院)による。
②『北海道の歴史散歩』2006年
③北海道博物館「北海道博物館について」より
④「北海道の名付け親」と呼ばれている松浦武四郎(1818~1888年)は、「伊勢国(現三重県松坂市)で生まれ、幕末期にロシアとの国境問題で揺れた北海道を6回踏査し、アイヌ民族の生活状況などを克明に記録し」ている(北海道博物館のパンフレットより)。
⑤「開拓の風景―明治の礎・北海道開拓―水土の礎」には、開拓の苦労が次のように記さている。「開拓移民が5町歩<約5ha>を開墾して、自作農として独立するためには3、4年かかるのが普通でしたが、その間の苦労は想像を絶するものでした。……開墾は、原生林との格闘から始まりました。巨木の原生林と、鉄の網のように密生する熊笹。それをマサカリとノコギリ、鍬だけで片付けていかねばなりません。」
 また、明治28年(1895年)に屯田兵とその家族(柴田家)が北海道へ移住したときの様子を、金倉義慧(ぎけい)著『はるかなる屯田兵 もう一つの北海道民衆史』(1992年)は、次のように記している。柴田太蔵は、「妻に、こんなところへ連れてきて、と毎日のようにこぼされたこと、また故郷に向けて、とてもひどい所だ、まあ来る所でないと思う、と手紙をだしてい」る。このような例をあげればきりがない。北海道の開拓は、このようにして始められた。

結愛ちゃんの死を悼む

 結愛ちゃんの「事件」は社会に大きな衝撃を与えた。その衝撃は、結愛ちゃんが書いた、いわゆる「反省文」にあるに違いない。私もこの「反省文」を読んだとき、胸が締めつけられる思いだった。そして今読んでも、そうだ。多くのブロガーも、自分の思いをブログに綴っている。

以下は新聞記事(注①)からの引用。なお、「/」は原文の改行箇所。
 「ひらがなはやさしい文字である。易しいうえに優しく、つづる言葉は角がとれて丸くなる。そのひらがなを、これほど痛ましく読んだ経験はかつてない。/ 船戸結愛(ゆあ)さん(5)は、覚えたばかりのひらがなの文をノートに残して息絶えた。親から悲惨な虐待を受け、まともな食事も与えられなかったという。
 『……もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします……』……虐待されながらも親の愛情をただ求める、幼い必死な言葉が私たちを打ちのめす。」
 あまりにも悲しい「反省文」ではないか。同時に怒りがこみあげてくる。
 「これまでも児童相談所や警察が虐待を認識しながら、命を救えなかったケースは繰り返されてきた。」 児童相談所の「職員の疲弊は深い。しかしながら脅かされる命の最後の守り手である。/ ……「国も自治体も財布は苦しいが、増える虐待から子を守る体制拡充への十分な投資を、惜しむときではない。」
 「子育てという大仕事、もっと敬意を払われていい。見守る。手を差しのべる。……子どもという総体を社会で肩車(注②)できれば素晴らしい。」

 予算の使途を一部変更すれば、「増える虐待から子を守る体制拡充」を行うことはできる。だがそれでも完全に虐待を防ぐことは難しい。それと同時に、社会全体が、子どもを「見守る。手を差しのべる」ことが必要であろう。
 虐待の問題とともに深刻なのは「子どもの貧困」。内閣府によると、「子どもの相対的貧困率は1990年代半ば頃からおおむね上昇傾向にあり、平成24(2012)年には16.3%となっている。」これはほぼ6人に1人の子どもが貧困状態にあることを示している。「OECD<経済協力開発機構>によると、我が国の子どもの相対的貧困率はOECD加盟国34か国中10番目に高く、OECD平均を上回っている。子どもがいる現役世帯のうち大人が1人の世帯の相対的貧困率はOECD加盟国中最も高い」(2010年)という(注③)。

 結愛ちゃんの「生きた」5年間を無駄にしてはならない。このような事態を防ぐために、私たちひとりひとりは何ができるのか、考えてみたい。結愛ちゃんの死を悼む、だけではもう済まされない。とはいえ、私たちには何ができるのだろうか。……。

<注>
①朝日新聞2018年7月22日「肩車の『凱旋将軍』見守りたい」より。
②この記事(「日曜に思う」)は、「加藤<剛>さんが幼いわが子を肩車する随筆」から書き始められている。加藤剛さんといえば、私は、加藤さんが栗原小巻さんと主演した映画『忍ぶ川』(1972年公開)を思い出す。加藤さんは、この2018年6月に亡くなった。ご冥福をお祈りする。
③内閣府『子ども・若者白書(全体版)』の「子どもの貧困」より(平成26年および27年版)。子どもを支援する動きは広がりつつあるが、もちろんじゅうぶんではない。なお、OECDの加盟国は2018年現在、36か国で、多くの先進国が加盟している。

多摩湖 狭山湖 

1.値上続く水道料金
 全国で水道料金の値上がりが続いているという。水道事業は、原則として市町村が経営、しかも独立採算制。ところが、市町村ごとの水道料金の格差は大きい。最大10倍ある、との記事もある。値上げの背景には、(1)利用者の減少による水の使用量の減少、(2)施設の老朽化などがある。たとえば水道管の耐用年数は40年ほどだが、更新が必要な水道管が年々増えている(注①)。水をもっと大切に使わなければならない、と考えさせられる(注②)。
 東京都の水源の約2割が多摩川水系(東京都水道局)。そこで、村山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)を訪れることにした。

2.多摩湖(村山貯水池)
 多摩湖(人造湖)は、東京都東大和市にある狭山丘陵の渓谷に造られた村山貯水池の通称(注③)。1927年(昭和2年)完成。東京都水道局村山・山口貯水池管理事務所が管理している。ダム湖百選のひとつに選ばれている。この多摩湖の東側が都立狭山公園。
 この貯水池は1916年(大正5年)から1927年(昭和2年)まで10年の歳月をかけて建設された。当時、東京の人口増加に対応した水源確保のため、多摩川の水を羽村取水堰(東京都羽村市)で取り入れ、導水管にて村山貯水池(多摩湖)に導いて貯水していた。現在も東京都の上水道として供給されている。

3.狭山湖(山口貯水池)
狭山湖(人造湖)は、埼玉県所沢市と入間市にまたがる山口貯水池の通称。1934年(昭和9年)完成。ダム湖百選のひとつ。山口貯水池(狭山湖)は埼玉県にあるが、村山貯水池と同様、東京都水道局村山・山口貯水池管理事務所が管理している。この狭山湖周辺の狭山丘陵が埼玉県狭山自然公園(注④)。
 山口貯水池は、多摩川の小作(おざく)取水堰(東京都青梅市)および羽村取水堰からの導水を主な水源としている。この貯水池(狭山湖)の水は村山貯水池と同様、東村山浄水場(東京都東村山市)と境浄水場(東京都武蔵野市)へと導かれ、東京都の上水道として供給されている(埼玉県の上水道としては供給されていない)。

<写真>
①多摩湖(村山貯水池)
⇓丸い屋根の建物は給水塔
貯水池20180801
村山貯水池20180802
⇓白く光る丸いドーム状の屋根は、西武ライオンズの球場(本拠地、メットライフドーム)
村山貯水池20180803
村山貯水池20180804
⇓右は貯水池、左は都立狭山公園
村山貯水池20180805
②狭山湖(山口貯水池)
山口貯水池20180806
⇓貯水池のまわりの丘陵は、埼玉県狭山自然公園
山口貯水池20180807
山口貯水池20180808
山口貯水池20180809
<注>
①次の記事を参考にした。朝日新聞(2018年7月13日)、NHK生活情報ブログ「どこまであがる?水道料金」(2017年8月14日)、ライフル ホームズ プレス「水道料金は継続的な値上げも?水道事業を取り巻く状況」など。水道ばかりでなく、橋やトンネルなど、他のインフラでも今後の老朽化は深刻な状況にある。
②2018年7月、衆議院本会議で水道法改正案が可決された。水道事業の「広域化や民間企業の参入を促すことで経営を効率化し、水道管の老朽化対策を急ぐ」という(日本経済新聞、2018年7月4日)。ところが同月20日、改正案は継続審議(参議院本会議)となった。ところで現在、パリなど、世界の多くの都市で、水道事業の「民営化が失敗」したとして、「再公営化」がはかられている。「世界の都市や地域や国で、水道事業の経営権を公的部門に取り戻して事業の『再公営化』に踏み出す事例が増えている。その多くは、民間の水道事業者が約束を守らず、利益優先で地域社会のニーズを無視したことへの対応である。……この15年間で水道事業が再公営化された事例は35カ国の少なくとも180件にのぼり、欧州、米州地域、アジア、アフリカの有名な事例を含めてその範囲は先進国と途上国を問わない。」(「世界的趨勢になった水道事業の再公営化」gooブログ、for the best performance、2018年7月6日より)
③村山貯水池は、現在の武蔵「村山」市でも東「村山」市でもない東大和市にある。村山貯水池の「村山」は、この付近の旧地名である「村山郷」から来ているとのこと(資料①)。
④埼玉県「埼玉県の自然公園」より

<資料>
以下のサイトなどを参考にした。
①Wikipedia「村山貯水池」
②Wikipedia「山口貯水池」
③ダム湖百選「多摩湖」(水源地環境管理センター)
④ダム湖百選「狭山湖」(水源地環境管理センター)