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野付半島 北方領土

1.野付半島と砂嘴(さし)
 野付半島は、「全長約26kmの日本最大の砂の半島、砂嘴」(注①)で、「海に突き出た針状」の形をしている。この半島には、「立ち枯れの風景」である「トドワラ」や「ナラワラ」といった景勝地がある。また、平成17年(2005年)にはラムサール条約(水鳥湿地保全条約)の登録湿地となった。
 この半島の中ほどにネイチャーセンターがあり、ここから遊歩道を歩いてトドワラ(海水に浸食され、立ち枯れたトドマツ林の跡)へ行くことができる。私は1973年に、対岸の尾岱沼(おだいとう)から船に乗ってトドワラを訪れたことがある。ネイチャーセンターからさらに車で進むと、野付半島の竜神崎にある野付崎灯台近くへ至る。ここから先へは、車では進めない。

<地図>
①野付半島~Googleマップより
野津半島マップ2018092801

<写真>
①野付崎灯台
野付崎2018092603
②野付半島
⇓野付半島~ネイチャーセンターの掲示写真より
野付崎2018092604
⇓トドワラ~ネイチャーセンターの掲示写真より
野付崎2018092605
⇓国後島~ネイチャーセンター近くから
  国後島はかすかに見えるだけだった。写真では、「かすみ」を補正(除去)して、国後島を見やすくした
野付崎2018092606

③別海北方展望台から
⇓国後島~手前は野付半島、その向こうにかすかに国後島が見える。「かすみ」を補正
野付崎2018092607
⇓野付半島から戻る途中に出会った鹿
野付崎2018092608
<写真>
②北方領土~Googleマップより
野付崎2018092602
2.北方領土問題
 納沙布岬の北方館などで配布されているパンレットから「北方領土問題」を紹介する。
「北方領土は、北海道本島の北東洋上に位置する、歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島及び択捉(えとろふ)島の四島です。/ 北方領土は、日本がロシアより早くその存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航し、生活をし、父祖伝来の地として受け継いできたものです。/ 今から160年以上前の1855年2月7日、日本とロシアは日魯(にちろ)通好条約(注②③)を結び、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認しました。それ以降も北方四島が外国の領土となったことはありません。/ しかし、1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領しました。/ そして、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、当時四島全体に約1万7千人住んでいたすべての日本人を強制退去させました。/ それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる法的根拠のない占拠が続いており、北方領土問題が存在するため、日露間では、いまだ平和条約が締結されていません。」(北方領土問題対策協会のパンフレット「北方領土 声届け 開けよう扉 四島(しま)返還」より。「/」は改行を示す)

 『われらの北方領土』(2017年版、外務省)には、「政府がロシアとの交渉を強力に推進するためには、国民の一人一人の理解と協力が不可欠です」と、記されている。日本は、日魯通好条約(1855年)などにもとづき、旧ソ連、そして現在のロシアに北方領土返還を求めてきた。詳しくはこの資料(注④)などを読んでもらいたいが、一度戦争で失った領土を取り戻すのはいかに困難なことであるか、思い知らされる。もちろん、他国の領土を植民地化するなども、許されるはずがない。

 2018年9月12日、ロシアのプーチン大統領は年内に「無条件」で「平和条約」を締結することを提案した。日本とソ連は、1956年の「共同宣言」で国交を回復したが、この宣言では「平和条約」の締結後に歯舞群島と色丹島を引き渡すと明記している(注⑤)。四島ではないことも問題だが、プーチン大統領の提案は、領土問題の実質的な棚上げになりかねない。しかし、ロシア側の真意を探ることも必要だろう。
 ロシアは、極東での、産業やインフラの整備を進めたいという思惑がある。その極東での開発には巨額の資金が必要だ。事実、ロシアは「日本の出方次第では、第三国の企業を誘致し、開発を加速する可能性も示唆し」ている(注⑥)。日本が望む領土返還と、ロシアが望む極東の巨大開発を、同時に解決できないものだろうか。日本も巨額の財政赤字を抱えている。領土の返還なしに巨額の開発資金を出したり、北方領土の「共同経済活動」だけを行うことは、もちろんできない。いずれにしても、領土問題の解決は容易なことではない。簡単なことではないから、日本がサンフランシスコ平和条約(1951年調印、翌52年発効)でアメリカの占領を解かれてから70年近くになるのに解決できないでいるのだろう。

<注>
①砂嘴(さし)は、沿岸を流れている海流によって運搬された砂礫(されき)が、半島の先端や岬、湾の入口などに堆積し、水面にあらわれた細長い州のこと。鳥の嘴(くちばし)のような形をしていることから砂嘴と呼ばれている。この砂嘴が発達して対岸近くまで至り、入り江や湾などを閉じるように伸びると、「砂州」(さす)と呼ぶ。野付半島の砂嘴は日本最大。(二宮書店「最新地理小辞典」などより)
②日魯(にちろ)通好条約の「魯」を「露」とし、日露通好条約と記すのが一般的だと思われるが、外務省の文書では「魯」を用いている(注③)。もちろん「魯」も「露」もロシアの意味。教科書では「日露和親条約」とするのがふうつ。日米和親条約(1854年)と、大きな違いはない。この日魯通好条約では、択捉島とウルップ島の間を国境とし、樺太(からふと)は国境を分けずに従来通り(両国人雑居の地)と規定した(山川出版社「日本史広辞典」などをもとに記す)。日本がロシアに求めている北方領土とは、この条約で定めた択捉島以南の島をさす。
③日魯通好条約の正式名称は「日本国魯西亜国通好条約」。当時はロシアを魯西亜と記していた。外務省のWebサイト「北方領土」では、日「魯」通好条約、日「露」戦争などと使い分けている。これは、ロシアを最初は「魯西亜」、のちに「露西亜」と記すことになったことによる。(日経電子版「ロシアの漢字略称『魯』が『露』に変わったワケ」より)
④外務省『われらの北方領土』(2017年版)は、「望郷の館」で無料配布されている、120ページに及ぶ資料。下記の総理府のWebサイトも参考になる。
  内閣府「北方領土問題~今~
⑤日本経済新聞、2018年9月13日
⑥朝日新聞、2018年9月14日
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フォトムービー「道東より」

道東のフォト・ムービーです。北海道東部(道東)の自然をフォト・ムービーにしました。おもな撮影地は、能取(のとろ)湖、サロマ湖、天都(てんと)山展望台から見た知床連山、濤沸(とうふつ)湖、釧路湿原~細岡展望台、温根内、釧路市内の海霧などです。BGMは、フリーの音楽素材Music Material「ひだまり」よりダウンロードして利用。もちろん報告済みです。

<写真>
⇓手前から、小清水原生花園、JR原生花園駅、濤沸湖、遠くの藻琴(もこと)山
濤沸湖2018092301
⇓夕闇せまる濤沸湖
濤沸湖2018092302
⇓夕方、濤沸湖の向こうに見える斜里岳
濤沸湖2018092303
<動画>
⇓「道東」のフォト・ムービー。3分24秒
BGMはMusic Material「ひだまり」より

北海道命名150年 (7)納沙布岬 野付半島 根室市街

 根室では2日間滞在。ガイドブックには、根室~標津(しべつ)の案内はまずない。あっても納沙布(のさっぷ)岬ぐらい。しかし、意外と訪れたい場所は多い。納沙布岬は、離島を除けば日本の最東端。岬では、納沙布岬灯台をはじめ、北方館や望郷の家などを訪れ、改めて北方領土問題を考える。北方館などの施設では、「北方領土」に関する資料をいくつか配布している。

 1日目は、じっくり時間をかけて納沙布岬と根室市内を散策する。海霧のため、岬から4km先の貝殻島(歯舞<はぼまい>群島のひとつ)でさえ見えない。1973年にこの岬を訪れたときも見えなかった。根室市の主要産業は漁業・水産加工。おもな水産物は、サケ・マス・サンマ・タラ・カレイ・カニ・ウニのほか、貝類・コンブなど。市内でベトナムからの技能実習生をみかけた。彼らは水産加工工場で働いている。
 翌日は、海霧は発生せず。レンタカーを借り、風蓮(ふうれん)湖や野付半島、標津(しべつ)町を訪れた。レンタカーを借りないかぎり、この方面を訪れるのは難しい。別海北方展望台や、野付半島のネイチャーセンターから、かすかに国後島(くなしりとう)を望むことができた。
 標津町では、「ポー川史跡自然公園」を訪れる。この公園では、「開拓の村と歴史民俗資料館」および「標津湿原」などを見学・散策する。北海道ではどの市町村でも、郷土の歴史などを紹介することに熱心だ。

<写真>
①納沙布岬
⇓納沙布岬灯台
根室2018091801
⇓灯台の右側に本土最東端の民家が見える。家の隣りには、コンブ干し場がある。
根室2018091802
⇓灯台近くから「望郷の岬公園」方面を望む 
根室2018091803
②風蓮湖
⇓(右)道の駅「スワン44ねむろ」、(左)風蓮湖
根室2018091804
③野付半島
⇓野付半島~ネイチャーセンター内の掲示写真より
 この地形は砂嘴(さし)という
根室2018091805
⇓ナラワナ
※「海水に浸食され、風化したミズナラなどの木々が立ち枯れたまま林をつくっている」(根室振興局)。 「立ち枯れ」で有名なトドワラは、野付半島ネイチャーセンター近くにある
根室2018091806
⇓竜神崎近くからナラワナ方面を望む
根室2018091807
④標津(しべつ)湿原
根室2018091809
⑤根室市内
⇓「坂の町」根室。大正町1丁目の交差点より根室漁港方面を見る
根室2018091811
<地図>根室~標津(Googleマップより)
根室~標津マップ

北海道命名150年 (6)釧路湿原

 JR釧網(せんもう)本線浜小清水駅からJR釧路駅へ。釧路市内を散策したのち、バスに乗り、釧路市湿原展望台と温根内(おんねない)ビジターセンター(鶴居村)を訪れる。湿原展望台から遊歩道をしばらく歩くと「サテライト展望台」へ至る。ここは、釧路湿原西側の最高の眺望地。また、ビジターセンターを起点とする恩根内木道は、約1時間で1周できる。「ヨシ・スゲ湿原やミズゴケ湿原、ハンノキ林など様々な表情を持つ湿原をみることができ」る(注①)。

春から夏にかけて、釧路や根室では「海霧」(うみぎり、かいむ)と呼ばれる濃霧がよく発生し、200m先も見えないことがしばしばある(注②、写真③)。この日もそうであった。そこで、根室で2日間を過ごしたあと釧路に戻り、再び釧路湿原(東側)を訪れる。この日は多少水蒸気が残っていたが、晴れていた。JR釧路駅から「ノロッコ号」に乗り、JR釧路湿原駅と塘路(とうろ)駅で下車。JR釧路湿原駅では、細岡展望台を訪れる。この展望台から見た釧路湿原はすばらしい。JR塘路駅では、塘路湖と標茶(しべちゃ)町博物館を訪れる(サルボ展望台やコッタロ湿原はすでに5年前に訪れている)。

<写真>
①釧路湿原~細岡展望台
⇓JR釧路湿原駅
釧路2018091201
⇓細川展望台
釧路2018091202
⇓釧路湿原を流れる釧路川
釧路2018091203
②釧路市湿原展望台
⇓サテライト展望台から見た釧路湿原(この写真のみ2013年撮影)
釧路2018091204
③恩根内ビジターセンター
⇓温根内ビジターセンター。左側を進むと恩根内木道
釧路2018091205
⇓恩根内木道
釧路2018091206
⇓湿原は地表も地下も水で満たされており、湿原内の歩行は不可
釧路2018091207
④釧路市内~海霧
⇓幣舞(ぬさまい)橋付近から釧路川河口方面を見る
釧路2018091210
⇓幣舞橋
釧路2018091211
<注>
①釧路湿原国立公園連絡協議会「恩根内ビジターセンター」より
②「釧路では霧の発生日数が年間平均100日以上」にもなるという(環境省「釧路地方の霧発生の仕組み」)。地元の人たちは、この海霧を「じり」と呼んでいる。海から流れてくる霧のため夏でも気温が上がらず、日照時間も短い。冷涼な気候のため、稲作にも畑作にも適さない。このため、根室から釧路にかけて広がる根釧(こんせん)台地では、大規模な酪農が盛んになった。
 環境省のWebサイトのほか、「日本のロンドンと呼ばれる霧の町『釧路』」(北海道マガジン)にも、「霧が発生する仕組み」などが説明されている。

釧路湿原 塘路湖 旧標茶町郷土館

1.釧路湿原~細岡展望台
 JR釧路湿原駅で降りると、急斜面の木の階段を上り、さらに700mくらい歩くと細岡展望台に至る。この展望台からは「蛇行する釧路川」がすぐ目の前に広がる。湿原の背後には「雄・雌阿寒岳」も遠くに眺めることができる。釧路湿原の展望台のなかでは、ここ細岡展望台が、私の、最もお気に入りの場所だ。展望台近くの細岡ビジターズラウンジで少し休憩をしてから釧路湿原駅に戻る。
 釧路湿原は、1980年に「ラムサール条約」(水鳥湿地保全条約)の登録湿地となり、1987年には日本で28番目の国立公園に指定された。こうして、釧路湿原はかつての「不毛の大地」から「ラムサール湿地」、そして「国立公園」へと「羽ばたいた」(注①)。
 私は1973年と1975年の、いずれも夏、列車とバスでこの釧路湿原を通過し、釧路駅を経由して根室に向かった。「恐ろしい」くらいの自然を残したこの湿原が、いまや大観光地になるとは、夢にも思わなかった。

2.塘路(とうろ)湖と旧標茶(しべちゃ)町郷土館
 塘路湖は、釧路湿原国立公園最大の湖。湖水はアレキナイ川を経て、やがて釧路川本流に注ぐ。湖畔には塘路湖エコミュージアムセンターや標茶町博物館などがある。
 休館中であった標茶町「郷土」館は2018年(平成30年)7月、隣接地に標茶町「博物」館として新たに開館した。旧郷土館の建物は、もともと「明治18年(1885年)設置の旧釧路集治監本館として新築されたが(注②)、昭和44年(1969年)現在地に移転復元したもの」(「森と湖のとうろウォーキングマップ」より)。なお現在、この「集治監」(旧郷土館)の内部は見学できない(注③)。

<写真>
①釧路湿原~細岡展望台
⇓細岡展望台
釧路2018091212
⇓釧路湿原を流れる釧路川
釧路2018091213
②塘路湖
釧路2018091208
③旧標茶町郷土館
⇓この建物は、もともとは明治18年(1885年)設置の釧路集治監本館
釧路2018091209
釧路2018091214
<注>
①釧路市地域史料室編『新版 釧路湿原』2008年
②釧路集治監は、現在の北海道標茶高等学校のあたりに開設された。高校には今も集治監時代の建物(「書庫」)が残されている。現在、この建物は高校の記念館として利用されている。
ブログ函館深信「釧路集治監跡-釧路集治監を訪ねる旅3」に詳しい
旧標茶町郷土館「展示室」
また、旧郷土館館内の様子などは、ブログ「もののふ紀行」にも詳しい。

北海道命名150年(5)オホーツク流氷館 濤沸湖 網走監獄

 網走では、博物館網走監獄(財団法人)、次いで北方民族博物館(北海道立)、オホーツク流氷館(網走市立)を訪れる。翌日、能取(のとろ)岬、ワッカネイチャーセンター(ワッカ原生花園の入口にある)、サロマ湖展望台へレンタカーで行く。JR網走駅に戻り、鉄道でJR原生花園駅(臨時駅)へ。小清水原生花園から知床連山を眺めたあと、濤沸(とうふつ)湖のほとりをゆっくり散策して、小清水はなことりの宿ユースホステルへ。ここで1泊。

<写真>
①オホーツク流氷館の展望台より
⇓遠くに見えるのは知床半島 知床連山。手前の市街地は網走市
網走2018090501
網走2018090502
⇓(左)海別岳、(右)斜里岳
網走2018090503
⇓(手前)網走湖、(右奥)能取(のとろ)湖
網走2018090504
②小清水原生花園、濤沸湖
⇓(左)JR原生花園駅、(右)斜里岳
網走2018090505
⇓小清水原生花園近くの浜辺から見た知床連山
網走2018090506
⇓(左)海別岳、(右)斜里岳
 見えないが国道244号線の左はオホーツク海、右は濤沸(とうふつ)湖
網走2018090507
⇓夕方近くの濤沸湖。湖のまわりを散策するのがいつもの楽しみ
網走2018090508
③博物館網走監獄
釧路集治監網走分監(のちの網走監獄、網走刑務所)は、網走~北見峠間の「北見道路」(囚人道路)の建設を囚人の労力でつくるためだった、といわれている。
⇓旧網走刑務所「正門」
網走2018090509
⇓舎房(「囚人」が居住する建物)
網走2018090510
網走2018090512
 オホーツク流氷館は「流氷とオホーツク海の生き物をテーマとした観光施設」。屋上の展望台からは、オホーツク海、網走湖、能取湖、濤沸湖、知床連山などの雄大な景色を眺めることができる。一度は訪れたい。
 北方民族博物館は、「グリーンランドから北欧まで、アイヌ文化を含めた北方民族の文化とオホーツク文化を紹介する、わが国唯一の博物館」(パンフレットより)。
 博物館網走監獄には、「移築復原、あるいは再現建築された旧網走刑務所の25の建物群」がある。「明治・大正期の歴史的建造物が物語る行刑建築<刑事施設>と北海道開拓の、歴史散歩を」することができる(博物館網走監獄散策マップ)。「舎房」(囚人が居住する建物)や「監獄歴史館」はとくに見ごたえがある。若い人を含め、多くの観光客が熱心に見学していた。私は1974年の夏に、現役の網走刑務所の「正門」(現、博物館網走監獄の「正門」)を訪れたことがある。
 「小清水原生花園は、北海道を代表する海浜公園で、オホーツク海と濤沸湖に挟まれた約8kmの細長い砂丘全体が天然の花畑になってい」る。「花は5月下旬から咲き始め6月の中旬から7月の上旬にかけてピークを迎え」る。駅に隣接するインフォメーションセンターに設置されている大型スクリーンでは、「原生花園に咲く花々の開花時期や特徴などを、映像で」見ることができる(小清水町観光ガイドマップより)。
 網走市にある濤沸湖は、2005年(平成17年)にラムサール条約(水鳥湿地保全条約)の登録湿地となった。夏は湖周辺の湿性草原に花(ヒオウギアヤメ)が咲き、湖のほとりには牛や馬が放牧されている。厳しい冬の前には、南へ渡るオオハクチョウやさまざまなカモなど50種類を超える渡り鳥がここに立ち寄るという(濤沸湖水鳥・湿地センターのWebサイトより)。私がこの濤沸湖のほとりを散策するのは、これで4度目。

美しい北海道と「囚人道路」

 北海道の「囚人」道路のことは、たぶん1980年代に、NHKのテレビ番組で知った。詳しくは覚えていないが、戦慄を覚える内容?であった。数年前、吉村昭著『赤い人』(注①)を読んで、この囚人道路に再び関心を抱くようになった。いろいろ調べたが、昨年の新聞記事(注②)が、やはり簡潔にまとめられているので、以下、自由に引用することにした。なお、「/」は改行箇所を示す。

 「『囚人道路』は明治期の北海道で服役中の受刑者らによって造られた道路の総称で、その全長は700㌔以上に及ぶとされる。現在はこのうち、網走~旭川を結ぶ、いわゆる「中央道路」の一部、網走~北見峠間が、主としてこの名称で呼ばれている。/ 工事には、1891(明治24)年当時、釧路集治監網走分監(のちの網走刑務所、注③)に収監されていた約1200人のほとんどが従事。同分監はこの道路建設のために設置されたといわれる。」
 網走分監の受刑者「1115人が4組に分かれ13の工区で夜も、かがり火をたきながらスコップを振るった。/ 日露戦争の開戦前夜で、国際的な緊張が高まり、北方防衛と開拓は明治政府の大きな課題だった。入植を容易にするためにも陸路の大動脈開削が急務となり、受刑者の動員は国策として決まった。」
 「工事は過酷だった。……工期は同年4月から約8か月。12月に入ると、雪で工事が難しくなるため、期日厳守が叫ばれた。/ ……受刑者は逃亡防止のため、両足に『鉄丸』(てつまる)という鉄の球をつけられ、ペアとなる受刑者とも鎖でつながれた。『鉄丸』は一つ4㌔、両足で8㌔。鎖の重さが加わると、10㌔を超えた……。/ 毎日、網走まで帰れないため、工区ごとに設けられた小屋「休泊所」(写真②)で寝泊まりした。満足な防寒具もなく、寝る時も布団1枚。長い丸太を幾人かで枕に使い、朝はその丸太を木槌(きづち)で連打されて、文字通り、たたき起こされた。」
 「最も差し迫った問題は食糧だった。/ ……記録によれば、……栄養失調や過酷な労働で命を落とした受刑者は211人。道路建設の労役に従事した人の2割近くに及び、監視する看守も6人がなくなった。遺体は、多くが道路周辺に埋められ、脇で工事が進められた。/「囚人道路」のあちこちに、彼らを悼む慰霊碑がある(注④)。」
 「……最も多い年で国家予算の1割近くが北海道開拓に費やされたため、明治政府は『開発に囚人を使えば費用は抑えられ、苦役で死んだとしても監獄の費用が浮くので一石二鳥』と、鉱山労働などにも受刑者を投入した。結果、北海道全体で約2500人の受刑者が服役中の作業で亡くなったという。北海道の道と産業は、受刑者の血肉によって培(つちか)われたともいえる。」

 「囚人」たちは、道路建設ばかりでなく、農地の開墾、水道・鉄道建設、鉱山開発、電話線敷設、河川・波止場・橋梁の整備などにも使役された。このうち、北見道路(囚人道路)にたずさわった集治監受刑者の惨状は、安部譲二著『囚人道路』(注⑤)に描かれている。また吉村昭著『赤い人』は、北海道の集治監(おもに樺戸集治監)の歴史や、受刑者の「過酷な労働」状況などが描かれている。

 小池喜孝著『鎖塚-自由民権と囚人労働の記録』(注⑥)には、「中央道路ができて、屯田兵村が設置されたのではなく、屯田兵村を設置するために、中央道路ができたのである」と記されている。当然のことだが、「北見道路」の建設は1891年(明治24年)、屯田兵や移民団の北見入植は1897年(明治30年)であった(屯田兵は1898年にも入植)。「北海道の集治監は開拓のために設置され、囚人は拘禁労働として“強制連行”された。」(巻末の、色川大吉氏による解説) 

 囚人たちによる道路建設、その後の屯田兵やその家族、その他の多くの入植者たちによる開拓……。今ある美しい北海道の風景は、こうして準備された。もちろん、亘理(わたり)伊達氏など、戊辰戦争で敗れた諸藩の武士たちが、維新直後に北海道に移り住み、開拓にあたったことも忘れてはならない。また、佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、西南戦争など、維新政府に反乱(不平士族の反乱)をおこした士族たち、あるいは秩父事件などの、自由民権運動の激化事件で捕らえられた「自由民権の国事犯」(注⑦)たちも、北海道の集治監へ送られてきた。まさに、こうした人たちを「収容する場所」として、政府は北海道に集治監を創設したのだった(注①)。

 小池喜孝著『鎖塚』には、次のようにも記されている。
 「大量の囚人が出来るような社会状況をつくっておいて、その囚人を日本近代化の最底辺の犠牲者にした」(本多光栄氏の「便り」)と。
 江戸幕府を倒した西南雄藩の武士たちが、維新後、新政府に反乱を起こさざるを得なかったのは、なんとも皮肉ではないか。北海道開拓使官有物払い下げ事件(1881年、明治14年)は、倒幕の中心勢力であった薩摩、長州の出身者たちによる権力闘争であっ たことも忘れてはならない。
 北海道命名150年であるが、明治維新150年でもある。「明治維新」とはなんであったのか、再考の余地があると思われる。

<写真>
①博物館網走監獄
⇓旧網走刑務所正門
網走監獄2018090521
⇓舎房(囚人が居住する建物)
北海道2019090622
⇓監獄歴史館
網走監獄2018090523
②工区ごとに設けられた小屋「休泊所」(仮監)、囚人たちの「赤い」服
⇓休泊所内部、囚人たちの服は「赤い」(オレンジ色)
網走監獄2018090524
<注>
①吉村昭『赤い人』(小説)1977年…書名の「赤い人」は、「当時の囚人服が赤(オレンジ色)だったことにちなむ」(注②、写真②)。
②朝日新聞、2017年10月21日
③「集治監」は「しゅうじかん」または「しゅうちかん」と読む。内務省の管轄で、重罪人や国事犯(注⑦)を収容した。集治監(1879年)→監獄(1903年)→刑務所(1922年)と名称を変更(一部経過を省略)。現在の「刑事施設」という名称は、刑務所、少年刑務所、拘置所の総称。
④「[オホーツク管内]中央道路開削工事慰霊碑」は、網走から北見峠までの間に、「鎖塚供養碑」を含めて7か所の慰霊碑を紹介している。なお、鎖塚供養碑の「鎖塚」とは、「当時の囚人たちが、死亡した囚人仲間を弔うために、……死んだ囚人工夫の上に土をかぶせてできた土饅頭(どまんじゅう)の塚のこと」。「鎖でつながれたままの白骨も発見されている。」「これらの土饅頭の塚には、墓標の目印として置かれた鎖や、鎖のついた人骨が入植者らによって見つけられたことから鎖塚の名で呼ばれるようになった。かつては道路脇に多くの土饅頭が見られたが、屯田兵の開拓とともに減少した。」(Wikipedia「鎖塚」「囚人道路」より)
⑤安部譲二『囚人道路』(小説)1993年
⑥小池喜孝『鎖塚-自由民権と囚人労働の記録』1977年。2018年に岩波現代文庫に収録。
⑦「国事犯」とは、「国の政治上の秩序を侵害する犯罪。内乱罪や政治的騒乱罪など」(デジタル大辞泉)の、いわば思想犯的な犯罪者。

北海道命名150年 (4)能取岬 サロマ湖

網走駅でレンタカーを借り、はじめに能取(のとろ)岬へ行く。ここから見える知床半島は美しい。ついで能取湖の周囲に沿って車で走り、サロマ湖の東端近くにあるサロマ湖ワッカネイチャーセンターへ。ワッカ原生花園はここにある。私が訪れたときは、「熊が出た」とのことで、センターのまわりしか散策できなかった。夕日が美しいと言われるセンターを後にし、今度はサロマ湖展望台へ向かう。サロマ湖は日本で3番目に大きい湖。幌岩(ほろいわ)山(標高376m)の麓から砂利道の林道を走り、展望台近くの駐車場へ。ここから山頂にある展望台まで歩く。展望台からはサロマ湖を一望でき、知床半島まで見渡すことができる。また、湖と海とを隔てている、東西25㎞の砂州や、2つある湖口(ここう)も確認できる。

<写真>
①能取岬 知床連山
⇓能取岬灯台 右に知床連山が見える
サロマ湖2018082901
サロマ湖2018082902
⇓遠くに知床連山が見える
サロマ湖2018082903
サロマ湖2018082904
②ワッカネイチャーセンター(右の建物)。ワッカ原生花園の入り口にある
サロマ湖2018082905
③サロマ湖
⇓サロマ湖全景~Googleマップより
サロマ湖2018082913
⇓サロマ湖 知床半島
サロマ湖2018082907
⇓サロマ湖 湖の中心部
サロマ湖2018082908
⇓サロマ湖 遠くに砂州が見える
サロマ湖2018082909
⇓サロマ湖 第1湖口が見える
サロマ湖2018082910
<動画>
①能取岬からみた知床半島(19秒)
②サロマ湖展望台からみたサロマ湖全景(32秒)