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東京駅 丸の内イルミネーション

 東京駅は「明治41年(1908年)3月に着工し、大正3年(1914年)12月20日に開業」した。大正12年(1923年)9月の関東大震災では「建物の被害はほとんどなかった」が、昭和20年(1945年)の「空襲による火災で屋根等が消失」した。昭和22年(1947年)、もともと「3階建ての駅舎が2階建ての駅舎として」再建された。平成24年(2012年)、「国指定重要文化財である丸の内駅舎は創建当時の姿に復元され」た(焼け残った2階建てに、3階部分を付け加えた)。「2階以下は既存の構造レンガと、外壁の化粧レンガ等、創建時の意匠材料が大切に保存され」ている。復元された「3階部分の躯体は鉄筋コンクリートで作り、外壁には化粧レンガを貼ってい」る。(東京ステーションシティ運営協議会のパンフレット「東京駅の見どころ」などより)

 上野駅が東の玄関口(注)であるように、関西出身の私の玄関口は東京駅であった。私がはじめて東京駅に降り立ったのは、中学3年生の修学旅行の時。東海道新幹線が1964年に東京駅~新大阪駅間に開業したため、2回目以降は新幹線を利用することになった。それでも、東京駅は西の玄関口のままである。いまも東京駅は新宿駅とならんで、私の思い出深い駅に変わりはない。
<注>昭和57年(1982年)、東北・上越新幹線(大宮~盛岡、大宮~新潟)開業。昭和60年(1985年)、同新幹線上野駅開業。平成3年(1991年)、同新幹線東京駅開業。

<写真>撮影日はクリスマス当日
①東京駅
⇓夕方4時の東京駅(左)とJPタワーKITTE(右の高層ビル)
東京駅2018122704
東京駅2018122705
⇓新丸ビルの展望テラス(5階)から見た東京駅
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⇓KITTEホワイトツリー ライトアップ
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⇓丸の内イルミネーション(丸の内中通り)
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⇓丸の内ブリックスクエア(ガーデン)
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明治維新150年 「ある明治人の記録」

<写真>代々木公園けやき並木「青の洞窟」
青の洞窟2018122701
⇓右下にドコモタワー(緑色)が小さく見える。正式名称は「NTTドコモ代々木ビル」
青の洞窟2018122702
青の洞窟2018122703
 1868年10月23日、元号が慶応から明治に改められた(注①)。したがって今年(2018年)は、明治改元から150年目、つまり明治維新150年にあたる。私はここ数年、幕末から昭和までの歴史に関する本を読んできた。そして、とくに明治「維新」以降の歴史を再考しなければならい、という思いが強くなってきた。

 石光真人(いしみつ・まひと)編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』から、引用してみたい。「ある明治人」とは、もちろん柴五郎のこと。編著者の石光真人(注②)の父と柴五郎とが「交友関係」にあったことから、柴五郎が「死の三年前に」、石光真人に自身の回想録を「貸与して校訂を依頼」した。本のタイトルには「遺書」とあるが、柴五郎の「少年期の記録」(回想録)である(注③)。なお、( )内はすべて私の注記。

 柴五郎は、会津の出身で、幕末の安政6年(1859年)に「上級武士の五男として生まれ」た。「祖母、母、姉妹は会津戦争(注④)の際自刃(じじん)、一族に多くの犠牲者を出している。落城後、俘虜(ふりょ=捕虜)として江戸に収容、後に下北(しもきた)半島の火山灰地に移封され、公表をはばかるほどの悲惨な飢餓生活を続けた。……(その後)脱走、下僕、流浪の生活を経て(幸運にも)軍界に入り、藩閥の外にありながら、陸軍大将、軍事参議官の栄誉を得た逸材であり、中国問題の権威として軍界に重きをなした人である。」
 そして、柴五郎は、昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争敗戦の日から数か月後の12月13日、数え年87歳で亡くなった。なお、この「少年期の記録」については、本書第1部「柴五郎の遺書」を読んで欲しい。

<年表>
1854年(安政元年) 日米和親条約
1858年(安政5年) 日米修好通商条約
1859年(安政6年) 柴五郎、会津若松に生まれる
1867年(慶応3年) 大政奉還、王政復古の大号令
1868年(明治元年) 戊辰戦争始まる、会津若松城落城。慶応4年9月8日、改元
1873年(明治6年) 柴五郎、陸軍幼年学校
1877年(明治10年) 西南戦争。柴五郎、陸軍士官学校
1945年(昭和20年) 柴五郎、数え年87歳で没

 以下、本書第2部「柴五郎翁(おう)とその時代」から引用(石光真人が書き下ろした部分)。
 「徳川幕府を支えていた最大の雄藩であった会津藩は、欧米列強による東洋植民地化の渦の中で、封建制度崩壊後の善後策に取り組まなければならなかった。しかも京都守護職という重い任務を負い、浪人の集まる京の治安に当りながら、一方においては、北海道北辺にロシアが侵入すれば兵を進め(注⑤)、長州反乱(禁門の変)すればこれを打ち、文字どおり東奔西走の連続であった。
 鎖国を解かんとすれば薩長の浪士、尊王攘夷を叫んで外人に狼藉し(生麦事件)、英艦隊に鹿児島を、米仏英蘭連合艦隊に下関を砲撃されれば、たちまち攘夷の旗を巻いて討幕を争乱の旗印とし、幼帝(明治天皇)を擁して真偽不明の詔勅を下し、(15代将軍、徳川)慶喜断罪、会津討伐を謀る。それに先立ちすでに大政奉還を奏上し、城下に謹慎しているにかかわらず薩藩(薩摩藩)の大久保利通……、西郷隆盛……は(公家の)岩倉具視(ともみ)に『王政復古の基礎を建つるは、ひとたび干戈(かんか。武力)を動かし天下の耳目を一新し、死中活を求むるにあり』と武装蜂起を進言し、混沌たる政情であった。
 公武合体か、各藩連合の連邦制か、絶対君主国家か、議論を尽くさぬまま武力革命へ暴走したのである。市民革命とは異なり、武士によるクーデターの形式をとった強引な明治維新は、いわば未熟児ともいうべき、ひ弱な新政体を生んだ。」
 「旧藩主、旧士族の新政府に対する危惧の念と反撥は根強かった。薩長少壮藩士の強引な討幕は、全国的に多くの惨禍を生み(戊辰戦争)、深刻な憎悪を招いたが、その規模の広大さと圧力の強さと専横さは、旧幕末の弾圧政策に勝るとも劣らなかったと思われる。」
 「明治維新は根源が深く錯雑(さつざつ、錯綜)しており、また変化の速度が激しかった。かつては『勝てば官軍』の立場から歴史が綴られ、薩長藩閥政府を正当化するために、ある部分は誇張され、ある部分は抹殺された。そして今日もまた、特殊な史観にこだわって、原則に添わない不都合な事実は気軽に棄捨してはばからないようである。」 
 「東北に西南に、深い傷痕を残した(注⑥)明治維新は、薩長藩閥政府、官僚独善体制を残して終わった。」そして、「この体制は今なお続いている」。(注⑦、以上資料①)
 
 「明治維新にどこまで正当性があったのか。会津戊辰戦争は日本にとって必要で正しい戦争だったか。」(注⑧、資料②)もちろん歴史の叙述は「勝者の歴史」である。しかしさいわいにも、幕末以降の歴史には、敗者の史料が多く残されている。私は、勝者だけではなく、敗者の言い分にも耳を傾け、明治「維新」以降の歴史を「正しく」評価したい。

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都立水元公園

 12月中旬、東京都葛飾区にある都立水元公園を訪れた。
 江戸時代、三代将軍徳川家光のころ、ここ(小合村、現水元公園あたり)は古利根川の河川敷であった。この河川敷を江戸幕府の許可を得て、「水害防止、及び灌漑用水を調整する遊水池」として整備した。そしてここを小合溜(こあいだめ)とか小合溜井(こあいためい)と呼んでいた。この「小合溜井によって、東葛西(ひがしかさい)領の50あまりの町村を潤す水源となったため、ここを『水元』(みずもと)と呼ぶようになった」。(Wikipedia「水元公園」、「小合溜井」より)
 水元公園を訪れるのは、昨年に続いて2度目。今回は、前回訪れなかった、かわせみの里や水生植物園、さらに対岸の埼玉県立みさと公園(三郷市)も訪れた。もちろん今回も、「メタセコイアの森」を撮りに来た。
 JR中央線御茶ノ水駅で下車。東京メトロ千代田線の新御茶ノ水駅から地下鉄(我孫子行)に乗り換え、金町駅へ行く。ここからバスに乗り、水元五丁目で下車。少し歩くと水元公園へ着く。かわせみの里、水生植物園、メタセコイアの森、さらに対岸のみさと公園を順番に散策。帰りは、水元公園入口からバスに乗り、金町駅へ戻る。

<写真>
①都立水元公園
⇓水生植物園
水元公園2018122101
⇓メタセコイアの森
水元公園2018122102
水元公園2018122103
水元公園2018122104
水元公園2018122105
⇓右側が小合溜(こあいだめ)…準用河川(じゅんようかせん)、一級河川及び二級河川以外の「法定外河川」
水元公園2018122106
⇓埼玉県営みさと公園、左対岸が水元公園
みさと公園2018122107
みさと公園2018122108

大田黒公園

 東京都杉並区立大田黒公園は、「大田黒元雄氏の屋敷跡(の一部)を杉並区が日本庭園として整備し、昭和50年10月1日に開園したもの」。JR中央線荻窪駅南口から徒歩10分くらい。入場無料。
 「園内には樹齢100年を超えるイチョウ並木をはじめ、ケヤキ、クロマツ、アカマツ、シイノキなどの巨木がうっそうと茂ってい」る。大田黒氏の「仕事部屋であったベンガラ色」(暗い赤みを帯びた茶色)の記念館は、「昭和8年に建築されたもので当時としては珍しい西洋風の建築物」。音楽評論家でも知られる大田黒氏は、1910年(明治43年)生まれで、1979年(昭和54年)に亡くなった。戦後、NHKのラジオ番組「話の泉」(1946年3月から1964年3月まで)に出演していたことがある。(大田黒公園のパンフレットより)

<写真>
⇓正面(下、奥)は正門
大田黒公園2018121401
⇓正面(下、奥)は庭門
大田黒公園2018121402
大田黒公園2018121403
大田黒公園2018121404
⇓記念館(左)。昭和8年に建築された西洋風の建物
大田黒公園2018121405
大田黒公園2018121406
大田黒公園2018121407

秋川渓谷 広徳寺 

 11月下旬、東京都あきる野市にある秋川渓谷を散策した。ネットでは、秋川渓谷やバスの時刻表などの情報をじゅうぶんに得られない。そこで、JR五日市線武蔵五日市駅の構内にある案内所で、事前に各種のパンフレットや地図を手に入れておくとよい。
 武蔵五日市駅からバスで十里木(じゅうりぎ)まで行く。石舟橋を渡り、瀬音の湯、青木平橋を経て西青木平橋までゆっくり歩く。西青木平橋を渡ると、近くの畔荷田(くろにだ)で再びバスに乗り、沢戸橋まで戻る。紅葉・黄葉する木は意外と少ない。
 沢戸橋を渡り、岩瀬峡を経て広徳寺へ行く。ここで境内を散策したあと、桂月(かげつ)橋を経て、武蔵五日市駅まで歩いて戻る。なお、沢戸橋から桂月橋までの川沿いを歩く岩瀬峡の遊歩道はじゅうぶん整備されていない。このため、川の北側を歩くのが無難。
 広徳寺(こうとくじ)は、臨済宗建長寺派のお寺で、1373年に創建された。茅葺の山門や本堂は重厚で、イチョウの木が黄葉する時期には、多くの人がここを訪れる。武蔵五日市駅からこの寺まで徒歩25分くらい。

<写真>
①秋川渓谷
⇓石舟橋
秋川渓谷2018120801
⇓新矢柄橋付近
秋川渓谷2018120802
②広徳寺
⇓茅葺の山門(山門の向こうは本堂)…惣門側から山門を撮る
広徳寺2018120803
⇓山門(山門の向こうは惣門)…本堂側から山門を撮る。山門の両側はイチョウの古木
広徳寺2018120804
⇓茅葺の本堂。江戸時代の建物
広徳寺2018120805
⇓本堂脇の庭園
広徳寺2018120807

働き方改革 ③「働き方改革」と「働かせ方改革」

<写真> 高幡不動尊金剛寺(東京都日野市)
高幡不動2018120811
高幡不動2018120812
 久原穏(くはらやすし)氏は、「働き方改革」とは名ばかりで、実際は「働かせ方改革」である、と指摘している。「労働時間に縛られずに自由に働ける」、「柔軟な働き方」などは、じゅうぶんに注意をすべきことばだ。

 久原氏の著書(資料①)からほんの一部分であるが、自由に引用してみる。
 2018年6月に働き方改革関連法が成立したが、「裁量労働制(注①)の対象範囲をめぐって紛糾し」、ついに「『裁量労働制の拡大』を働き方改革関連法案から削除せざるを得なくなった」。
 この法律は、「一見すると『長時間労働の是正』や『同一労働同一賃金の導入』など、働く人にとってメリットが多となる内容のように思える。だが、子細に目を凝らしてみれば、実態は必ずしもそうでない……」。「『残業代ゼロ制度』などといわれる高度プロフェッショナル制度(高プロ)の創設(注②)や裁量労働制の対象拡大」などは、「長時間労働是正とは明らかにベクトルが逆である」。政府や経済界の主張は「意図的な印象操作」であり、「働く人よりも働かせる側の論理でつくられた……『働かせ方改革』」である。

 政府や経済界は次のように主張する。裁量労働制は「『働く人が自らの裁量で労働時間や仕事の進め方を決めることができる柔軟な働き方だ』と。しかし、……仕事の進め方の裁量はあっても、仕事の分量を決める裁量は会社側にある。残業代を支払わなくてもいいので、いくら長時間労働させても会社の懐は痛まない。結果、みなし労働時間(注①)を超えても終わらないほどの仕事が与えられ、長時間労働が常態化し、過労死が増える恐れがある。」「裁量労働制では残業代が発生しないため、労働時間を十分管理していない場合が多い。過労死となっても、証明が難しいということだ。」(以上、資料①より)
 労働時間の規制をなくす「働き方改革」は、「過重労働を一層深刻なものとし、過労死・過労自殺を防止するどころか、促進することになる。」(資料②)裁量労働とは、結局「残業代対策」にほかならない(資料③)
 これまでの「時短」(注③)の取り組みは、かえってサービス残業を増加させてきた。「長時間労働を是正するには、割増し率の引き上げよりも、『サービス残業』とよばれる賃金不払残業を解消することが先決である。」「裁量労働制」の導入は、賃金不払いのサービス残業をますます増やすことにならないだろうか。(資料②)

 「政府がなすべきことは、『働き方改革』を名目として雇用制度を無理やりにつくり変えることではない。なすべきは、衰退産業から成長産業への誘導策であり、労働者が痛みを伴わない形で移動できるセーフティネットづくりである。失業中も所得を保障しながら教育訓練を受けられる公的な仕組みは、まだまだ不十分である。/ 基本的な労働者保護の仕組みも整備せずに、雇用を流動化させる方策ばかり急ぐのは、きわめて危険」である。(資料①)

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代々木公園

 JR山手線原宿駅を降りて神宮橋を渡るとすぐ明治神宮。もう少し歩くと都立代々木公園原宿門。今回はもう少し西へ歩き、渋谷門まで行く。この渋谷門の南側に代々木公園のイベント広場と野外ステージがある。さらに南へ歩くとケヤキ並木。この並木の左側は国立代々木競技場(第二体育館)、右側はNHK 放送センター。ここでもと来た道へ戻り、渋谷門から代々木公園中央広場へ向かう。昨年の同時期にもここへ来たが、今年は木々の黄葉の色づきが少し悪いようだ。公園内を時間をかけて散策したのち、参宮門橋から公園を出て、国立オリンピック記念青少年総合センターへ。若いころ、海外青年協力隊のサークルに所属していたこともあって、このセンターへ来たことはある。残念ながら、記憶に残る、当時の「風景」(建物など)はない(1991年から2001年にかけて老朽化した施設を建て替えた)。このあと近くの小田急小田原線参宮橋駅からJR新宿駅を経由して帰途につく。
<写真>
①代々木公園イベント広場
代々木公園2018120301
②ケヤキ並木通り
代々木公園2018120302
③代々木公園
⇓渋谷門から中央広場へ
代々木公園2018120303
⇓中央広場
代々木公園2018120305
代々木公園2018120306
代々木公園2018120307
④オリンピック記念青少年総合センター
代々木公園2018120308

働き方改革  ②「過労死をなくすために」

<写真>睡蓮 都立神代植物公園
スイレン2018120301
スイレン2018120302
  川人博氏は「長時間労働になるほど過労死や過労自殺の危険性がたかま」る(資料①)、森岡孝二氏は「過労死を生む長時間労働をなくすには残業の規制が必要である」(資料②)と指摘している。当然のことであろう。
 では具体的には、どのくらい過労死や過労自殺はあるのだろうか。下記の「過労死の職業別労災認定件数と比率」を見てみよう(注①)。
過労死過労自殺20181203
(注)死亡事案以外を含む。過労自殺は「過労死の一形態」。ホワイトカラーに過労自殺が多いのは、「精神的ストレスの多い職についている」からである。

 それでは、過労死や過労自殺をなくすためには、いかなることをすれば良いのであろうか。そのためには、日本の政治・経済・社会ばかりでなく、勤労者の意識も変えなければならない。

 川人博著『過労自殺』(第二版)の第4章「過労自殺をなくすために」には、次のような指摘がある。「失敗が許容される職場」、「義理を欠いてもよい職場」、「失業していもやっていける社会」(セーフティネットの充実)、「ワークルールを学ぶことの大切さ」、「“一生懸命”はやめよう」(注②)、「適切な医学的援助・治療」などをあげている(注③)。詳しくは、この著書を読んで欲しい。このほかにも、すべきことはたくさんあるであろう。

 いろいろな提案があるなかでも、私は「企業の実態を知らせることの大切さ」に注目した。以下は、上記の著書(第4章)からの引用。

 「多くの前途ある青年が過労自殺、過労死で亡くなっている事実を見るにつけ、私は、企業を疑い、十分な警戒心をもって入社していくことの大切さを痛感する。/ つぎの言葉は、大学の卒業後、損害保険会社に就職し25歳の若さで突然死した青年が、生前母親に語っていた内容である。」

 「タイムカードもなく、残業は給料締切日前日に自分で書いて提出。しかも1ヶ月30時間まで。あとはいくらやってもサービス残業。土曜日も午前中は仕事。たまの休日も、一人で出社している支社長にときおり呼び出される。会社訪問の説明会とは全く違うんだ。……いくら一生懸命やっても次にはかならずそれ以上を要求されるんだ。疲れたよ。……」

 いま、若者の過労死・過労自殺が増加・深刻化している。この青年が「こうした実態に関し予備知識をもち心の準備をして入社していれば、あるいは悲しい死に至らなかったかもしれない。」「企業が、採用の過程でうそをつくことはもちろん許されることではない。ただ、亡くなった彼には酷な言い方かもしれないが、日本の企業が本当のことをいわないのは、ある意味では常識である。/ 日本の学校教育では、こうした企業の実態を正確に学生に伝えることが、大変に弱い。……企業内部のどろどろとした実態をほとんど教えていない。……企業の負の部分に関してあまり触れない。」
 また、高校や専門学校、大学などで、労働法などの基本的知識を学ぶことも大切。「ワークルールを学ぶことは、労働者が自らのいのちと健康を守るために不可欠である。」(以上、資料①)ただし、「違法であっても耐えなければならない」など、「抽象的な働く義務や意識だけを高める」ことであってはならない。「労働に関する権利行使の仕方を具体的に教育する」のでなければならない(注④)(資料③)。

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