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恵比寿(東京都渋谷区)②

<写真>
 恵比寿(東京都渋谷区)②
⇓恵比寿ガーデンプレイス
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⇓東京都写真美術館(右)
 2006年開催「VIET NAM そこは、戦場だった」をここで見た
恵比寿ガーデンプレイス2019072305
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私の「お気に入り」の映画②

 ②アジアと日本の映画
 小学校低学年のころ、夏休みの夜に「校庭で」映画鑑賞があった。東映の時代劇を観ていたと思う。女優嵯峨美智子(女優山田五十鈴の娘)が出演していた映画はいまも忘れられない。家の近くに、「太秦(うずまさ)東映撮影所」(京都市右京区)があり、時代劇の撮影が近隣の寺院の境内などでよく行われていた。小学生高学年(たぶん)になると「映画館で」映画鑑賞があり、このときに観た「黒いオルフェ」(ポルトガル版、1959年)も忘れられない。このころ住んでいた家の近くにある下鴨神社(京都市左京区)の参道(糺[ただす]の森)でもよく時代劇の撮影をしていた。
 子どものころに観た映画のお気に入りは「宮本武蔵」(5部作、1961年~1965年)。調べてみると、監督は内田吐夢、出演は中村錦之助、入江若葉、木村功、高倉健、浪花千栄子らであった。テレビドラマでも「宮本武蔵」は放映されていたが、いつごろで、誰が出演していたのか覚えていない。父が吉川英治『宮本武蔵』(小説)が好きであった影響であろう。
 たくさんの時代劇を観ていたが、子どものころなので作品名を思い出せない。俳優でいうと片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、東千代之介、月形龍之介、大友柳太郎、大川橋蔵らで、いずれも東映の時代劇スター。長谷川一夫と市川雷蔵は大映のスター。美空ひばりも、このころたくさんの時代劇に出ていた。当時の俳優の芸名は、歌舞伎役者の名前の影響を受けているという(資料①)。もう少し後に三船敏郎や仲代達矢(いずれも東宝)が登場する。三船敏郎主演の「椿三十郎」(1962年)の「殺陣」(たて)には驚いたが、ストーリーとしては仲代達也主演の「切腹」(1962年)のほうがお気に入り。日活では石原裕次郎、小林旭、宍戸錠らがスターであった。

 1960年ころまでが戦後日本映画界の黄金期であった。「日本映画は1960年に547本を製作し、産業として栄光の頂点に立った。……だがこれを頂点として、映画産業は急速な衰退を見せることになった。」「原因は、……TVの急速な普及だった」(資料①)。私もテレビに夢中になり、すっかり日本映画熱も覚めてしまった。代わってアメリカの西部劇などをよく観るようになっていた。

 東京へ来てから、神田神保町(東京都千代田区)の岩波ホールでインド映画を観る機会があった。このとき初めてアジアの映画を観る。この映画はサタジット・レイ監督の「大地のうた」(1955年)。インド・ベンガル地方の農村に住む家族を描いた、この映画にひどく衝撃を受けた。カンヌ国際映画祭ヒューマンドキュメント賞など世界中の賞を受賞。音楽はシタール奏者ラビ・シャンカール。「大地のうた」(1955年)、「大河のうた」(1956年)、「大樹のうた」(1958年)はサタジット・レイ監督の「大地のうた三部作」。この映画で演奏されている「シタール」という楽器を聴いてから、世界各国の民族音楽に関心を寄せるようになった。

 1988年から2002年にかけてNHK教育テレビで放映されていた「アジア映画劇場」という番組で、インドだけではなく、ベトナム、イラン、中国など、多くのアジアの国々の映画を観る機会があった。案内・解説は佐藤忠男氏。インド映画では「遠い雷鳴」(サタジット・レイ監督、1973年)、中国映画では「初恋の来た道」(チャン・イーモウ監督、1990年)、ベトナム映画では「青いパパイヤの香り」(1993年)が特に印象に残る。このころ、中国の楽器「二胡」を演奏している音楽をよく聴いていたが、結局、中国映画はチャン・イーモウ監督の作品しか観ていない。

 2011年から2013年まで、NHK BSプレミアムで放映されていた「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本」(解説山本晋也氏)で、日本の「古典的な」映画をたくさん観ている。「人情紙風船」(1937年)や「安城家の舞踏会」(1947年)、「羅生門」(1950年)、「雨月物語」(1953年)、「にごりえ」(1953年)、「幕末太陽傳」(1957年)などの作品は、この番組でなければ観ることはなかったと思われる。もちろん、これ以外の作品も数多く観た。
 当時の日本映画は、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎、林光、武満徹などクラシック音楽の作曲家が音楽を担当することが多かった。最近でも多くのすぐれた作曲家が映画やテレビの音楽を担当しているが、私はなかでも佐藤直紀氏の作品が「お気に入り」。

 ごく最近、佐藤忠男著『わが映画批評の50年』(2003年)を読んだ。佐藤忠男氏は戦前(1930年)生まれで、私は戦後生まれ。年齢はそうとう異なる。しかし、この本を読んで、なぜ私が、アメリカ映画ではなく、ヨーロッパやアジアの映画をたくさん観るようになったのか、に気づいた。以下、この本より自由に引用。

 佐藤忠男氏は子どものころ、「まずアメリカ映画に夢中になり……多くのことを学んだが、……敗戦国日本の貧しくみじめな現実とはあまりにも違う夢のように豊かな世界を、ただもう、憧れの目でうっとり見上げていたにすぎない……。」
 「1930年代頃のヨーロッパ映画がまた、この時期<終戦後>に盛んにリバイバルされた。主にフランス映画とドイツやオーストリアの映画である。」これらのヨーロッパの映画は「……ままならぬ人生の辛さ悲しさを描いていた。どうやらアメリカ映画よりもフランスやドイツ、オーストリアの映画のほうが大人の映画なんだと思うようになった。」そして、イタリアの映画は、「なによりも現実離れのした甘いロマンティックなものを求めていた私にとっては、その正反対の現実直視の傾向のもので」あった。「ぜいたくさや優美さとは逆に、貧しいもの、悲惨なものを観る映画である。」(資料③)<>内は引用者。

<資料>
①四方田犬彦(よもた・いぬひこ)『日本映画史110年』2014年
②双葉十三郎『日本映画ぼくの300本』2004年
③佐藤忠男『わが映画批評の50年 佐藤忠男評論選』2003年
④佐藤忠男『決定版! 日本映画200選』2004年
⑤キネマ旬報社(編)『知っておきたい映画監督100』2009年私が気になる映画<日本>2020032708

恵比寿(東京都渋谷区)①

 ルネ・クレール監督(フランス)の映画「巴里祭」(1932年)と「リラの門」(1957年)を観るため、「恵比寿ガーデンプレイス」内にある「YEBISU GARDEN CINEMA」を訪れた。もちろんここはエビスビールの発祥地。JR山手線「恵比寿駅」東口から5分程度で着く。これらの映画は、4Kデジタル・リマスター版で、ここまで美しく修復できているとは思わなかった。

<写真>恵比寿ガーデンプレイス
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⇓YEBISU GARDEN CINEMA
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私の「お気に入り」の映画①

 ①アメリカの映画からヨーロッパの映画へ
 私は古い映画を見るのが好きだ。1930(昭和5)年ころから1960(昭和35)年ころまでの外国の映画をよく観る。日本が敗戦した1945(昭和20)年の前後15年、合わせて30年ほどの期間。日本映画でも、戦後から1965(昭和40)年ころまでの映画をよく観る。

 以下は、私の「お気に入り」の映画の一部である。
 私は戦後生まれなので、戦前の映画も戦後直後の映画も「リアルタイム」で観たことはない。子どものころに観た映画は当然、アメリカの映画であった。たくさんの西部劇を観たが、正確な題名を思い出せない。西部劇ではないが、「アラビアのロレンス」(1962年)や「北京の55日」(1963年)などは「劇場」(映画館)で観た記憶がある。テレビで放映されていた「ローハイド」(1959年~1965年)や「ララミー牧場」(淀川長治解説、1960年~1963年)、「逃亡者」(1964年~1967年)などもよく観ていた。両親といっしょにテレビで観た「カサブランカ」(1942年)は思い出深い。
 意外にも、「風と共に去りぬ」(1939年)や、「エデンの東」(1955年)などジェームズ・ディーンが出演している映画などは、大人になってから観た。

 20歳前後になると、私の観る映画のほとんどがヨーロッパの映画になっていた。このころテレビで「パリの屋根の下」(1930年)や「枯葉 ~夜の門~」(1946年)などの名作を観た。わずかだがイギリスやドイツの映画も観ていたが、とくに戦前・戦後直後のフランスとイタリアの映画を観るのが好きだった。「1930年代のフランス映画をフランス人以上に愛し、評価したのは、日本人」で、「1930年代は日本におけるフランス映画の黄金時代」であった(資料①)。これらのフランス映画は戦後にも「リバイバル」で上映された。またこのころ、私はアジア映画にも関心を寄せるようになっていた。

 さらにその後、やはりリアルタイムではないが、「わが青春のフローレンス」(1970年)、「いちご白書」(1970年)、「アマデウス」(1984年)、「インドへの道」(1984年)、「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年)、「マレーナ」(2000年)などを観ていた。「ガンジー」(1982年、イギリス・インド合作)などは劇場で観た。
 「モロッコ」(1930年)、「外人部隊」(1933年)、「望郷」(1936年)に、すでに子どものころ観ていた「カサブランカ」(1942年)を加えると、いずれもアルジェリアやモロッコなど北アフリカを舞台にした映画である。偶然なのか、なにかの郷愁なのか、理由は分からないが、いずれも私の「お気に入り」の映画だ。

 私は、いわゆる「映画マニア」ではない。双葉十三郎著『外国映画ぼくの500本』(資料②)のリストをみると、あんまり観ていない。というより、観ていても題名を覚えていない。これまでに観た映画のほとんどが「偶然」。それで「よい」と思っている。たぶん多くの人がそうであるように、私も「気になる」映画だけを観ることにしている。
 「お気に入り」の映画リストを作成してみると、外国映画、日本映画を問わず、私は「文芸」作品の映画を好む傾向にあるようだ。このことが、私が「古い」映画を好む理由なのかもしれない。私が気になる映画<外国>2020032709<資料>
①中条省平『フランス映画史の誘惑』2003年
②双葉十三郎『外国映画ぼくの500本』2003年
③『週刊20世紀シネマ館(各年次)』2004年
④『淀川長治』(文藝別冊)1999年
⑤猪俣勝人『世界映画名作全史』(戦前編)1974年

都電荒川線(東京都)

 東京都の路面電車には、都電荒川線(都電としては現在、唯一残る路線)のほかに、東京都世田谷区を走る東急世田谷線が存在する。とろこが、この世田谷線は道路上に敷設された軌道(併用軌道)を走行する箇所がない(交差点などは除く。注①)。そこで世田谷線の「三軒茶屋」駅から「下高井戸」駅まで、乗車だけすることにし、これまで全線を乗車したことのない都電荒川線の沿線を散策することにした。

 都電荒川線は、東京都荒川区にある「三ノ輪橋」駅(みのわばしえき)から新宿区にある「早稲田」駅まで走る。私は「三ノ輪橋」駅で乗車し、まず「荒川車庫前」駅で下車。再び電車に乗り、今度は「鬼子母神(きしぼじん)前」駅で下車。鬼子母神堂(注②)、千登世橋(注③)周辺を散策し、更にここから「学習院下」駅、「面影橋」駅、終点の「早稲田」駅まで歩いて行く。電車を撮影するときは、周囲の安全にじゅうぶん配慮したつもり。
 帰りは「早稲田」駅で乗車し、「鬼子母神前」駅で再び下車。これで都電荒川線の全線を乗車したことになる。ここから千登世橋を経由してJR山手線「目白」駅まで歩き、帰途に着く。
 なお、都営交通発行のリーフレット「小さな電車でおさんぽ日和」などを参考にした。

<写真>
⇓駅は荒川車庫前
都電荒川線2019071001
⇓駅は梶原
都電荒川線2019071002
⇓JR王子駅付近、上の高架橋がJR。道路上の軌道に路面電車が走ることが分かる
都電荒川線2019071003
⇓鬼子母神堂
鬼子母神堂2019071004
⇓境内にある駄菓子屋
鬼子母神堂境内2019071005
⇓千登世橋(正確には千登世小橋)の下を走る都電
都電荒川線2019071006
⇓駅は学習院下
都電荒川線2019071007
⇓高戸橋(学習院下駅と面影橋駅の中間地点)近くの「新目白通り」から都電を撮る
都電荒川線2019071008
<注>
①専用の線路敷をもつ狭義の「鉄道」と区別して、「路盤」(道路上)の軌道を走るのが「路面電車」だという(Wikipedia「路面電車」より)。
②「鬼子母神」の由来……「鬼子母神へようこそ」のHP「鬼子母神堂の由来と歴史
③「千登世橋と千登勢橋」については、私のブログに記事(2017年4月12日)がある。千登「世」橋は目白通りにある橋だが、千登「勢」橋は歌手西島三重子の歌(「千登勢橋」)にでてくる橋の名前。歌詞から考えて、この歌にでてくる千登「勢」橋は千登「世」橋のこと。なぜ「勢」の漢字を用いているのかは不明。

三浦哲郎『忍ぶ川』~平凡であることのしあわせ

 三浦哲郎(みうらてつお)の小説『忍ぶ川』は、1960(昭和35)年に芥川賞を受賞した。1972年には映画化もされている。三浦哲郎は1931年生まれ、2010年逝去。

 この小説の主人公の「私」が「志乃」とはじめて出会ったのは、JR山手線駒込駅から南へすぐの寿司割烹「思い川」。「私」とは三浦哲郎のこと。小説では、この店の名を「忍ぶ川」という。ところが、この店は2011年に閉店。その後、同じ場所に食事・甘味処「思い川茶房」という店名で営業してたが、この店もやがて閉店した。(ブログ「三浦哲郎文学を読む会」より)
 
 「志乃」は、東京深川の洲崎(すさき)で生まれ、この地に11歳まで住んでいた。彼女の両親はここで射的屋を営んでいた。いっぽう「私」の次兄も深川の木場(きば)で働いていた(やがて「逐電」する)。
 そこで私は、「私」にも「志乃」にもかかわりのある「洲崎」(現在の「東陽」)と「木場」へ行くことにした。ともに東京都江東区にある。「東陽」からさらに「新木場」方面へ行き、散策を続けた。2017年に次いで2度目の散策。
(注)「東陽」……Wikipediaの「東陽(江東区)」によると、およそ次のように書かれている。1967年(昭和42年)の住居表示実施以前は「深川東陽町」であった。その後、2度の再編を経て、江東区「東陽」一丁目~七丁目(大横川西側一帯)となった。

<写真>
①木場公園
⇓木場公園大橋、スカイツリーがすぐ近くに見える
木場公園2019070201
⇓木場公園「ふれあい広場」
木場公園2019070202
②東陽町(洲崎)
⇓「東陽三丁目」交差点。この交差点を南へ行くと東陽一丁目
江東区東陽2019020703
⇓洲崎橋緑道公園、かつてこの下に小さな川が流れていた
江東区東陽2019070204
⇓洲崎橋跡地
 (左)「洲崎橋」、(右)「すさきはし」、(下)「橋撤去にともない旧橋名板を残す」
江東区東陽2019070205
⇓「大門」近くにある飲み屋。戦後、まもなく建てられたのだろうか。
江東区東陽2019070206
⇓かつてこのあたりに「大門」があった。南北に走る道路は「大門通り」
江東区東陽2019070207
⇓東陽弁天商店会
江東区東陽2019070208
⇓空き家の建物。ここに飲み屋があったようだ
江東区東陽2019070209
③夢の島熱帯植物館(JR京葉線「新木場」駅下車)
夢の島熱帯植物館2019070210
⇓モウセンゴケ
 「この仲間は、歯の表面にびっしりと毛が生えており、その数は1葉で200本前後になる。感覚があって、虫を捕らえると葉で獲物を巻いて消化する」(同植物館説明文より)
夢の島熱帯植物館2019070211
⇓江東区東陽周辺地図
江東区東陽地図2019070312b
 東京メトロ東西線「木場」駅で下車。以下、散策した場所を順に記す。
 木場公園→東陽公園(東西線「東陽町」駅近く)→洲崎川緑道公園→洲崎神社(洲崎弁天)→洲崎橋跡地→洲崎大門→東陽一丁目第二公園(ここに「洲崎遊郭開始以来先亡者追善供養碑」がある)。「東陽」では一丁目を中心に、戦後直後からあったと思われる建物を探して歩く。ネットなどで紹介されている建物のほとんどは姿を消していた。
 「東陽」からJR京葉線潮見駅まで歩き、ここから隣りの新木場駅まで電車に乗る。新木場駅で下車すると、最終目的地の「夢の島熱帯植物館」を訪れた。

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三浦哲郎『忍ぶ川』

 三浦哲郎(みうらてつお)の小説『忍ぶ川』は、1960(昭和35)年に芥川賞を受賞した。1972年には映画化もされている。三浦哲郎は1931年生まれ。2010年に逝去した。

 この小説の主人公「私」が「志乃」とはじめて出会ったのは、JR山手線駒込駅から南へすぐの寿司割烹「思い川」。「私」とは、もちろん三浦哲郎のこと。「志乃」はこの「思い川」という料亭で働く娘。小説では、この店の名を「忍ぶ川」という。ところが、この店は2011年に閉店。その後、同じ場所に食事・甘味処「思い川茶房」という店名で営業しいてたが、この店もやがて閉店した。(ブログ「三浦哲郎文学を読む会」より)
 
 「志乃」は、東京深川の洲崎(すさき)で生まれ、この地に11歳まで住んでいた。彼女の両親はここで射的屋を営んでいた。いっぽう「私」の次兄も深川の木場(きば)で働いていた(次兄はその後「逐電」する)。(「木場」注①)

 以下に2つの引用(①②)をしてみる。
①小説『忍ぶ川』は、「昭和の名作のひとつとして、人びとにながく愛され、いつまでも繰り返し読みつがれて行く作品であろう。……青春文学のひとつとして……読まれ愛され続けるに違いない」(新潮文庫版『忍ぶ川』の解説より)。

②「『忍ぶ川』は極めて叙情的な恋愛小説である。私小説でもある。……小説では、不幸な血を持つ『私』と、これまた幸薄い『志乃』が結ばれる。これを読んだ私は『忍ぶ川』が虚構よりも事実に近い私小説であることに驚いた。「(ブログ「分け入つても分け入つても本の山」より。原文は1文ごとに改行)
 
 私はこの小説(『忍ぶ川』1960年)を読んで、あるいは映画『忍ぶ川』(1972年)を観て、「平凡であることのしあわせ」を思わずにはいられなかった。「私」(この小説の主人公)と「志乃」のふたりが新婚旅行で温泉に出かける列車のなかから、志乃が「自分たちの家」をみつける場面(エンディング)に、そのことを強く感じる。なお、三浦哲郎は青森県八戸市生まれだが、このころ両親と姉は岩手県一戸町に住んでいた。

 次は、この小説のからの引用。

 町の駅を出てから、まもなくであった。
 あ、と志乃はさけんで、目をみはった。
 「見える、見える。」
 志乃はいきなり、私の膝を両手でつかんで、ゆさぶった。
 「ごらんなさい、見えるわ、見えるわ。」
 指さす窓の外には、屋根に雪の降り積んだ低い町がひろがっていた。凍った川、橋、火の見櫓(やぐら)、お寺の屋根、その背後に流れている北上山地のひくい山なみ。
 「なんだ。なにが見えるんだ?」
 「うち! あたしの、うち!」
 見ると、凍った川の崖ぶちに、私の家がちいさく、朝日の色に染まった白壁を雪のなかからうき出させていた。
 「ああ。見える、見える。」
 「ね、見えるでしょう。あたしのうちが!」
 志乃は、なおも私の膝をはげしくゆさぶりつづけて、生まれて二十年、家らしい家に住んだことのない志乃の、やっと探しあてた<自分の家>を新婚旅行の汽車の窓から遠望し得たよろこびが、私にも決してわからぬわけではなかったけれども、……。

 この小説を最初から読んでくると、この最後の場面の志乃の気持ちがよく理解できる。「平凡であることのしあわせ」を……。

 映画「忍ぶ川」(1972年)
  原作:三浦哲郎(てつお)
  監督:熊井啓
  音楽:松村禎三
  出演:加藤剛(私)、栗原小巻(志乃)、山口果林、滝花久子、井川比佐志、信欣三(しんきんぞう)

 私は、映画監督、熊井啓氏(1930年~2007年)の映画作品が好きだ。特に「帝銀事件 死刑因」(1964年)と「天平の甍(いらか)」(1980年。原作は井上靖)とこの映画「忍ぶ川」。「帝銀事件」の映画音楽は伊福部昭作曲。「天平の甍」の映画音楽は武満徹作曲。

 ところで「木場」と言えば、私は『忍ぶ川』を思い出す。小説の初めに、深川、洲崎、東陽町、木場などの地名がでてくる。映画でも、主人公の「私」の兄が働く「木場」の場面がある。「日付のない便り」というブログには、「…今も、どこかに志乃という女性が懸命に生きている気がするのだが。」と書かれていた(「忍ぶ川 栗原小巻または志乃」)。

 木場・東陽・新木場を散策した(2019年5月)。
 東京メトロ東西線「木場」駅で下車。以下、散策した場所を順に記す。
 木場公園→東陽公園(東西線「東陽町」駅近く)→洲崎川緑道公園→洲崎神社(洲崎弁天)→洲崎橋跡地→洲崎大門→東陽一丁目第二公園(ここに「洲崎遊郭開始以来先亡者追善供養碑」がある)。「東陽」では一丁目を中心に、戦後直後からあったと思われる建物を探して歩く。ネットなどで紹介されている建物のほとんどは姿を消していた。
 「東陽」からJR京葉線潮見駅まで歩き、ここから隣りのJR新木場駅まで電車に乗る。JR新木場駅で下車すると、歩いて新木場を散策する。1969(昭和44)年、貯木場が木場から新木場へ移転してきた。現在、ここ新木場にはほとんど丸太などは水中貯木されていない。ただ現在も、材木商や木材加工工場などはある。

<写真>
①東陽町(洲崎)。2019年5月撮影
⇓「東陽三丁目」交差点。この交差点を南へ行くと東陽一丁目
江東区東陽2019020703
⇓洲崎橋緑道公園、かつてこの下に小さな川が流れていた
江東区東陽2019070204
⇓洲崎橋跡地
 文字は次の通り。(左)「洲崎橋」、(右)「すさきはし」、(下)「橋撤去にともない旧橋名板を残す」
江東区東陽2019070205
⇓「大門」近くにある飲み屋。戦後、まもなく建てられたのだろうか。
江東区東陽2019070206
⇓かつてこのあたりに「大門」があった。南北に走る道路は「大門通り」
江東区東陽2019070207
②新木場
⇓新木場第二貯木場。この写真のみ2017年3月撮影
新木場2019070311
<注>
①「木場」(きば)とは、貯木場(ちょぼくじょう)のこと。陸上貯木場と水中貯木場とがある。「木場」の文字がつく地名は全国各地にあるが、隅田川の河口近くにつくられた「木場」は江戸深川にあった(江戸時代はこのあたりが海岸線)。紀州など地方から大量の丸太がここに運ばれてきた。明治に入り埋め立てが進むと、木場は「内陸」化。昭和44(1969)年、荒川の河口付近に移転してできたのが、現在の新木場(東京都江東区)。それまであった木場の貯木場は埋め立てられ、都立木場公園となった。その後、木材の陸送が盛んになったこと、丸太での輸入が減少したこと(製品形態での輸入が増加したこと)などにより、水中貯木場の数が減少した。JR京葉線新木場駅近くの新木場には今も貯木場があるが、ほとんど利用されていない(写真は新木場第二貯木場)。ただ、周辺には現在も材木商や木材加工工場などが多く存在する。
②「東陽」……Wikipediaの「東陽(江東区)」によると、およそ次のように書かれている。1967年(昭和42年)の住居表示実施以前は「深川東陽町」であった。その後、2度の再編を経て、江東区「東陽」一丁目~七丁目(大横川西側一帯)となった。