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伊能忠敬と日本全図

 私は「地図」を見るのが好きだ。ずっと眺めていても飽きない。伊能忠敬たちが作成した地図は「大日本沿海輿地(よち)全図」と呼ばれている。「沿海」とあるように、海岸線を17年間も歩いて日本全国を測量し、地図を作製した(資料①)。「輿地」(よち)は「大地」の意味。

以下、渡辺一郎・鈴木純子著『図説伊能忠敬の地図をよむ』(改訂増補版)より引用する。
1.地球の大きさを測る
 伊能忠敬は「49歳で隠居」。50歳のとき「江戸に出て天文・暦学を志し、19歳年下の幕府天文方・高橋至時(よしとき)に入門する」。
 天文・暦学を学んでいた伊能忠敬が、「なぜ日本全土の測量をすることになったの」か。「至時に師事していた忠敬は、暦学上の解析のため地球の大きさが問題になっていることを知り、<自宅のある>深川<現、東京都江東区門前仲町>で地球の大きさを測ることを思いついた」。 忠敬は浅草の暦局(れききょく、幕府天文台の通称)と自宅のある深川黒江町の直線距離を測り、子午線上の緯度1分の距離を1631mと試算した。そしてこの値から地球の大きさを求めた(注①)。ところが「至時から『そんな短い距離でやってみても誤差が大きくて駄目だ。しかしもっと長い距離で行えば使えるかもしれない。考えてみよう』と言われ、蝦夷地(えぞち)測量の計画が練られ始めたという。高橋<至時>らは当時、地球が球体であることは分かっていたが、<正確には地球の>大きさは分からなかった……」。こうして、地球の大きさを求めるため、江戸から東北・北海道までの測量を始めることになった。「本当は、地球の大きさを知りたかった」ということ。

2.測量の旅
第1次測量隊の出発は寛政12年閏4月19日(西暦1800年6月11日)。早朝5時ころに江戸を出発。「蝦夷地の根室近くのニシベツ<現在の別海町>まで歩き、往復3200㎞の道を歩測により180日かかって測量した(注②)。また、各地で恒星の高度を測り、深川の自宅で観測した恒星表と比較して緯度を求めた。」ただこの地図では、「測量した蝦夷地の東南岸と奥州街道しか描かれて」いない(注③)。
 「忠敬たちは日本全国を10回に分けて測量……。前半の4回の測量で東日本を測り終え」た。「地図の正確さに感心した幕府は、後半の西日本測量はお金を出してくれ」たという(注④)。つまり、幕府直轄の測量事業になったということ(第5次測量より)。「伊豆七島を測量した第9次測量は、文化12(1815)年4月27日に江戸を出立して始ま」ったが、「遠距離の渡海をともなうので、高齢の忠相は参加をとりやめ」ている。また江戸を測る、最後の第10次測量も「ほとんど下役と弟子に任せたのではないかと考えられる。」(資料②)こうして10回に及ぶ測量で、「測量隊が歩いた距離は約40000キロ(地球一周分と同じ)に」なった(注④)。
 日本全国の測量を終え、地図作りが始められたが、忠敬は文政元年(1818年)に亡くなる。「地図作りは弟子たちによって続けられ3年後に地図が完成」した(注④)。

3.最終版伊能図の利用
 「最終版伊能図は、文政4(1821)年に幕府に提出された。正式な名称を大日本沿海輿地(よち)全図という。伊能図の最終版……は大図214枚、中図8枚、小図3枚の膨大なものであった。」(注⑤)
 「伊能小図をもとにした『官板実測日本図』が幕府開成所から刊行されたのは、慶応元(1865)年である。これは、伊能図が公刊された最初であるが、木版の高価な地図だったので、庶民が使うものではなかった。しかし、忠敬が幕府に上程した50年後の明治4(1871)年以降になると、一般市民を対象にした、伊能図を源流とする日本全図が続々と刊行されることになる。」その後「三角測量が進められ、一ブロックごとに新しい帝国図に置き換えられてい」き、最終的に伊能図が「姿を消したのは、昭和4(1929)年で、伊能図が幕府に提出されてからじつに108年後であった。こうして伊能図は幕府提出の50年後から本格的に使い始められ、部分的ではあるが108年後まで生きていたことになる。伊能図は、明治のために作られ用意されていたような感じである。」
 2018年は伊能忠敬没後200年。忠敬の地図作りの苦労を偲んでみた。

<注>
①緯度1分=緯度1度の60分の1。したがって緯度1分の距離を、60×360すれば、地球の大きさ(子午線の長さ)が求められる。「理科年表では35度付近の緯度1分の距離は1849.2mで」、忠敬の測定値には「約11.8%の誤差」があった。その後の第2回測量では1845.63mと試算し、「誤差は0.2%」となった。誤差が0.2%の場合、地球の大きさはおよそ3万9866kmとなる。
②忠敬が「歩測」で測ったのは第1次測量だけで、「……第2次測量からは徹底して間縄(けんなわ)を張って測っている。」「間縄」の縄は、「価格が安いが水分による伸縮があり、強度も弱く、強風に煽(あお)られるなどの問題もあり、鉄鎖(てっさ)とともに併用され」ていた(国土地理院「地図と測量の豆知識(伊能図)」より)。より詳しい測量の仕方については、下記の資料を参照して欲しい。
③奥州街道の最先端(津軽半島)である三厩(みんまや)まで歩き、北海道の渡島(おしま)半島へ渡る。吉岡(北海道福島町)、松前、箱館(のちの函館)、室蘭、苫小牧、襟裳岬、釧路、ニシベツ(別海町)を測量。
④「伊能忠敬記念館」パンフレットより
⑤北海道については、伊能忠敬は南東岸(南半分)しか測量していない(第1次測量)。そこで、「間宮海峡」で著名な間宮林蔵が「蝦夷全土を測量し、忠敬の大日本沿海輿地(よち)全図の北海道部分を完成させた……。」間宮林蔵が初めて伊能忠敬と出会ったのは蝦夷地で、寛政12年(1800年)のこと。その11年後の文化8年(1811年)5月8日から11月25日にかけて、林蔵は忠敬から本格的に測量を学ぶことになる。林蔵は「忠敬が測量することの出来なかった根室から反時計回りにオホーツク海を北上。稚内から日本海を南下し渡島半島までを測量し、更に忠敬が測量した東蝦夷地も再度測量して」いる。この項は資料④より引用させていただいた。
伊能忠敬たちが作成した、実際の地図は以下のサイトを参照して欲しい。
①NHK「大日本沿海輿地全図
②佐原市伊能忠敬記念館「正確な日本地図

<資料>
①漆原次郎「『地図作り』は科学技術のかたまり」(Z会「さぽナビ」より)
②渡辺一郎・鈴木純子『図説伊能忠敬の地図をよむ』(改訂増補版)2010年
③NHK歴史ヒストリア「あなたの先祖も手伝った!?伊能忠敬 究極の日本地図
NHK大阪放送局ブログ「日本地図にささげた情熱 伊能忠敬
④「伊能忠敬と間宮林蔵―北海道の歴史」(ブログdaydream、2012年8月29日)
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