FC2ブログ

美しい北海道と「囚人道路」

 北海道の「囚人」道路のことは、たぶん1980年代に、NHKのテレビ番組で知った。詳しくは覚えていないが、戦慄を覚える内容?であった。数年前、吉村昭著『赤い人』(注①)を読んで、この囚人道路に再び関心を抱くようになった。いろいろ調べたが、昨年の新聞記事(注②)が、やはり簡潔にまとめられているので、以下、自由に引用することにした。なお、「/」は改行箇所を示す。

 「『囚人道路』は明治期の北海道で服役中の受刑者らによって造られた道路の総称で、その全長は700㌔以上に及ぶとされる。現在はこのうち、網走~旭川を結ぶ、いわゆる「中央道路」の一部、網走~北見峠間が、主としてこの名称で呼ばれている。/ 工事には、1891(明治24)年当時、釧路集治監網走分監(のちの網走刑務所、注③)に収監されていた約1200人のほとんどが従事。同分監はこの道路建設のために設置されたといわれる。」
 網走分監の受刑者「1115人が4組に分かれ13の工区で夜も、かがり火をたきながらスコップを振るった。/ 日露戦争の開戦前夜で、国際的な緊張が高まり、北方防衛と開拓は明治政府の大きな課題だった。入植を容易にするためにも陸路の大動脈開削が急務となり、受刑者の動員は国策として決まった。」
 「工事は過酷だった。……工期は同年4月から約8か月。12月に入ると、雪で工事が難しくなるため、期日厳守が叫ばれた。/ ……受刑者は逃亡防止のため、両足に『鉄丸』(てつまる)という鉄の球をつけられ、ペアとなる受刑者とも鎖でつながれた。『鉄丸』は一つ4㌔、両足で8㌔。鎖の重さが加わると、10㌔を超えた……。/ 毎日、網走まで帰れないため、工区ごとに設けられた小屋「休泊所」(写真②)で寝泊まりした。満足な防寒具もなく、寝る時も布団1枚。長い丸太を幾人かで枕に使い、朝はその丸太を木槌(きづち)で連打されて、文字通り、たたき起こされた。」
 「最も差し迫った問題は食糧だった。/ ……記録によれば、……栄養失調や過酷な労働で命を落とした受刑者は211人。道路建設の労役に従事した人の2割近くに及び、監視する看守も6人がなくなった。遺体は、多くが道路周辺に埋められ、脇で工事が進められた。/「囚人道路」のあちこちに、彼らを悼む慰霊碑がある(注④)。」
 「……最も多い年で国家予算の1割近くが北海道開拓に費やされたため、明治政府は『開発に囚人を使えば費用は抑えられ、苦役で死んだとしても監獄の費用が浮くので一石二鳥』と、鉱山労働などにも受刑者を投入した。結果、北海道全体で約2500人の受刑者が服役中の作業で亡くなったという。北海道の道と産業は、受刑者の血肉によって培(つちか)われたともいえる。」

 「囚人」たちは、道路建設ばかりでなく、農地の開墾、水道・鉄道建設、鉱山開発、電話線敷設、河川・波止場・橋梁の整備などにも使役された。このうち、北見道路(囚人道路)にたずさわった集治監受刑者の惨状は、安部譲二著『囚人道路』(注⑤)に描かれている。また吉村昭著『赤い人』は、北海道の集治監(おもに樺戸集治監)の歴史や、受刑者の「過酷な労働」状況などが描かれている。

 小池喜孝著『鎖塚-自由民権と囚人労働の記録』(注⑥)には、「中央道路ができて、屯田兵村が設置されたのではなく、屯田兵村を設置するために、中央道路ができたのである」と記されている。当然のことだが、「北見道路」の建設は1891年(明治24年)、屯田兵や移民団の北見入植は1897年(明治30年)であった(屯田兵は1898年にも入植)。「北海道の集治監は開拓のために設置され、囚人は拘禁労働として“強制連行”された。」(巻末の、色川大吉氏による解説) 

 囚人たちによる道路建設、その後の屯田兵やその家族、その他の多くの入植者たちによる開拓……。今ある美しい北海道の風景は、こうして準備された。もちろん、亘理(わたり)伊達氏など、戊辰戦争で敗れた諸藩の武士たちが、維新直後に北海道に移り住み、開拓にあたったことも忘れてはならない。また、佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、西南戦争など、維新政府に反乱(不平士族の反乱)をおこした士族たち、あるいは秩父事件などの、自由民権運動の激化事件で捕らえられた「自由民権の国事犯」(注⑦)たちも、北海道の集治監へ送られてきた。まさに、こうした人たちを「収容する場所」として、政府は北海道に集治監を創設したのだった(注①)。

 小池喜孝著『鎖塚』には、次のようにも記されている。
 「大量の囚人が出来るような社会状況をつくっておいて、その囚人を日本近代化の最底辺の犠牲者にした」(本多光栄氏の「便り」)と。
 江戸幕府を倒した西南雄藩の武士たちが、維新後、新政府に反乱を起こさざるを得なかったのは、なんとも皮肉ではないか。北海道開拓使官有物払い下げ事件(1881年、明治14年)は、倒幕の中心勢力であった薩摩、長州の出身者たちによる権力闘争であっ たことも忘れてはならない。
 北海道命名150年であるが、明治維新150年でもある。「明治維新」とはなんであったのか、再考の余地があると思われる。

<写真>
①博物館網走監獄
⇓旧網走刑務所正門
網走監獄2018090521
⇓舎房(囚人が居住する建物)
北海道2019090622
⇓監獄歴史館
網走監獄2018090523
②工区ごとに設けられた小屋「休泊所」(仮監)、囚人たちの「赤い」服
⇓休泊所内部、囚人たちの服は「赤い」(オレンジ色)
網走監獄2018090524
<注>
①吉村昭『赤い人』(小説)1977年…書名の「赤い人」は、「当時の囚人服が赤(オレンジ色)だったことにちなむ」(注②、写真②)。
②朝日新聞、2017年10月21日
③「集治監」は「しゅうじかん」または「しゅうちかん」と読む。内務省の管轄で、重罪人や国事犯(注⑦)を収容した。集治監(1879年)→監獄(1903年)→刑務所(1922年)と名称を変更(一部経過を省略)。現在の「刑事施設」という名称は、刑務所、少年刑務所、拘置所の総称。
④「[オホーツク管内]中央道路開削工事慰霊碑」は、網走から北見峠までの間に、「鎖塚供養碑」を含めて7か所の慰霊碑を紹介している。なお、鎖塚供養碑の「鎖塚」とは、「当時の囚人たちが、死亡した囚人仲間を弔うために、……死んだ囚人工夫の上に土をかぶせてできた土饅頭(どまんじゅう)の塚のこと」。「鎖でつながれたままの白骨も発見されている。」「これらの土饅頭の塚には、墓標の目印として置かれた鎖や、鎖のついた人骨が入植者らによって見つけられたことから鎖塚の名で呼ばれるようになった。かつては道路脇に多くの土饅頭が見られたが、屯田兵の開拓とともに減少した。」(Wikipedia「鎖塚」「囚人道路」より)
⑤安部譲二『囚人道路』(小説)1993年
⑥小池喜孝『鎖塚-自由民権と囚人労働の記録』1977年。2018年に岩波現代文庫に収録。
⑦「国事犯」とは、「国の政治上の秩序を侵害する犯罪。内乱罪や政治的騒乱罪など」(デジタル大辞泉)の、いわば思想犯的な犯罪者。
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント