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「原始林の中の日本人」

<写真>
①海外移住資料館(JICA横浜)
海外移住資料館2018101801
⇓数か所のみ写真撮影が許可されている。遠景写真は自由
海外移住資料館2018101803
海外移住資料館2018101804
②JICA横浜交差点のサークルウォーク 
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③「ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル」
⇓「ヨットの帆を思わせる」ホテル。手前の橋は国際橋、その向こうに横浜港。
海外移住資料館2018101805
 私は1970年代の後半に、若槻泰雄著『原始林の中の日本人 南米移住地のその後』(1973年)を読んだことがある。この著書に衝撃を受けた私は、自分のまわりの人たちに、「こと」の深刻さを伝えていた記憶がある。そして今も、この「こと」をできるだけ多くの人に知ってもらいたい。

 筆者の若槻泰雄氏は、1954年(昭和29年)に設立されたばかりの海外協会連合会(現、国際協力機構=JICA)に勤め、移民の送り出しや、現地における移民援護などの仕事に携わっていた。その年の12月末に神戸を出港した「ぶらじる丸」に乗船し、翌1955年1月にアマゾンに入植する400人の人たちとともにブラジルのベレン港に入港した。さらにパラグアイの移住地にも移民の人たちを引率。それから数年後、ボリビアのサンファンで3年間、入植者たちと生活を共にする(注①)。1963年に退職(注②)。その10年後の1973年に、本書『原始林の中の日本人 南米移住地のその後』を著した。

 この本の帯には次のように記されている。
 「新天地に人生の夢を託し南米へ渡った移民は戦後約6万人。だがその現実はどうだったか。荒れ果てた土地、みつからない適作物、あまりにも遠い市場。現在、約1万人の人が原始林の中にとり残されている。自殺した人、土人化した人(注③)――それは海の向こうに棄てられた民である。著者はアマゾン奥地からパラグアイ、ボリビアにまで分け入り、これらの人々のなまな声を克明に収録した。本書は戦後移民二十年目の一つの決算書である。」

 さらに本文から引用しよう。
 移民たちは、「自国の政府が調査も研究もほとんど行うことなく、……自分たちを外国の辺境に送りこもうなどとは夢にも考えなかったであろう。原始林のなかに一本の道路もつけないで、または何を植えていいかも分からないのに、移住を奨励するなどとは考え及ばなかったに違いない。」入植地には、学校も病院もないところがある。「アマゾンでは医者一人当りの人口は、56661人(1960年)で、……これを面積でいうと、日本全体の広さに医者が36人しかいないことになる。」入植地での開拓を断念して都会へ移るにしても、手持ちの資金を使い果たしてしまった人たちはどうすればよいのか。道路も通じていない入植地が多く、広大なアマゾンの原始林では船や飛行機に乗らないと移動できない。教育を受けられず、ポルトガル語(またはスペイン語)も日本語も満足でない子どもたちは、両親が亡くなれば「原始林」に消えていくしかなかった。「原始林の中で同化するということは土人化するということと同じ」である(注③)。
 「若干の例外があるにしても(注④)、……大部分の人びとが、貧窮にあえぎ困苦に悩むとき、そこに入植させた者の責任が問われるのは当然のことであろう。」もし政府が彼らにじゅうぶんな対応をしていないとすれば、「原始時代さながらの生活を送っている日本移民」たちが、自らの国に「棄てられた」と考えても仕方ないであろう(注⑤)。以上、資料①より。
 
 南米移民は、「日本政府が奨励・支援した『国策移民』」であった(資料③)。ところで若槻氏は、移民を南米に「送り出す側」の人間であった。だからこそ、若槻氏はこの本を著して政府を告発したかったのであろう。しかし、政府はどうして「原始林」に移民を送り込んだのか。また移民たちはなぜ「原始林」に入植してしまったのか。
 受け入れ国政府は、戦前から続く日本人排斥や、連合国として日本と戦ったという事情から、自国民と接触のない「原始林」が国内開発のためにも好都合だったのだろう。日本国内では「人口過剰、農村救済」というが、南米移民が本格化する1955年頃には高度経済成長が始まっていた。それなのになぜ、世界の最貧国(注⑥)の、さらに現地人も行かない「原始林」に送り込む必要があったのか。そして、なぜ送り続けたのか。これには、当時の日本の政治状況も関係があるようだ(注⑦)。

 政府は戦後、北海道にも開拓民を送り出していた。そして南米の入植地と同じような「こと」がおきていることを、私は北海道の開拓に関する本を読んで知った。日本国内でも、同様の悲劇がほぼ同時期に繰り広げられていたことになる。政府の責任は重大である。人の人生、ときには命にも関わることなのだから(注⑧)。「自国民をこのような条件の下に移住させた国の政府というものは、世界の如何なる国の政府よりも無知にして非情な政府である」と、若槻氏は綴っている(資料②)。少なくとも、もっと正確な「現地の情報」が得られていれば、南米へ渡る日本移民はずっと少なかったに違いない(注⑨)。

<おもな資料(1)>
①若槻泰雄『原始林の中の日本人 南米移住地のその後』1973年
②若槻泰雄『外務省が消した日本人 南米移民の半世紀』2001年
③遠藤十亜希(とあけ)『南米「棄民」政策の実像』2016年
 著者は、新聞のインタビューで、「日系人の功績」を知って欲しいと述べると同時に、「日本政府の移民政策は『棄民』のそしりを免れないと語る。『地上の楽園』と勧めて送り出した国民の多くに『生き地獄』を体験させたからだ」という(注⑩)。(朝日新聞、2016年7月24日、「著者に会いたい」より)。著者は、「戦前・戦後の日本の移民政策は『単なる』棄民政策ではなかったと考えている」。どういう意味かは、本書の第9章、第10章を読んで欲しい。ただ、日本国内の事情がどうであれ、「原始林」の中をさまよったあげく、日本への帰国がかなわなかった日本人たちは、故国に「棄てられた」と思っていたに違いない。
<注>
①若槻氏は、ボリビアのサンファンで、絶望的な状況の下で入植した移民たちのために尽力した。「『法律に反するとも人道に背くべからず』――ともすればくじけそうになる私は、口の中でいつもそう唱えて自分を励ました」という(資料①)。東京の役人には、「既存文化圏にいれる移民も、無人地帯にいれる移民の区別さえついていない」し、「理解しえないことであった」。若槻氏の、サンファンでの奮闘ぶりは、本書(資料①)の、「ボリビアでの記録」の章に記されている。
②正確には「退職を命じられた」のであった。詳しくは、若槻泰雄著『外務省が消した日本人 南米移民の半世紀』(2001年)に述べられている。
③文中の「土人」ということばに「カボクロ」というルビが振られている。スペイン系やポルトガル系の移民とインディオとの混血をメスチソ、メスチゾ、メスチーソ(スペイン語でmestizo)などと呼ぶ。「ブラジルではカボクロcabocloと呼ばれる地方農民もメスチソである」という。若槻氏は、日本人の「カボクロ化」といいたかったのだろう。(コトバンク「メスティソ」「カボクロ」などを参照)
④「若干の例外」、つまり「南米で成功した日本人」は、農業ではない仕事に従事して成功した人も多い、という。もちろん、彼らとて、たやすく成功したのでないことは想像に難くない。
⑤ボリビアのサンファンで、移民たちは、「入植以来この大原始林に挑んで、精魂打ち込んで働いてきた」。彼らは、そもそも「サンファンは人間が住めないところです」と口をそろえて訴えている(どんな状況にあったのかは、本書を読んで欲しい)。しかし、彼らは、「ウクライナに次ぐ世界第二の肥沃な土地」と書かれている「移住者募集要項」を見て入植して来たのだった(以上、資料②)。ブラジルのベラビスタに住む、熊本県出身の若い夫婦は、「みんなをこの地獄の中に引きこんでやりたい」と若槻氏に訴えた。「私らはどうせ駄目だから……くににうんといいことを言ってやって、みんなをこの地獄の中に引きこんでやろうかなんて思うんですよ」という(資料①)。若槻氏は、赴任先のサンファンで日本人移民のために「東京」と「格闘」していくことになる。
⑥「世界の最貧国」……ちなみに、下の表で、日本と南米3か国の「国内総生産」(GDP)を比較した。比較する以外、他意はまったくない。転居のたびに古い本を処分してきたので、とりあえず手元にある本(『世界国勢図会』2005/2006)から表にしてみた。ブラジルは、1960年代ころから経済発展を遂げ、NICs(新興工業国)の一員となる(のち、NIES=新興工業経済地域と呼ばれる)。2000年代にはいるとBRICs、ついでBRICSのことばも登場。BRICsの小文字のsは複数国の意味。BRICSとは、Bブラジル、Rロシア、Iインド、C中国、S南アフリカ共和国の各国のこと。
国内総生産2018101800

⑦詳しくは、資料③(第7章から10章)を読んで欲しい。
⑧日本は現在、外国人を「技能実習生」などと称して日本に受け入れている。まずは、働くことをあきらめた「ミッシングワーカー」や失業中の人たちの雇用を確保するのが先であろう。正規雇用採用をあきらめ、非正規雇用として働いている人たちの雇用環境もじゅうぶんに整える必要がある。そのうえので、人権や労働条件などにじゅうぶん配慮して実習生を受け入れるかどうか判断すべきであろう。日本へやって来た実習生を、たんに格安の「低賃金労働者」として重宝するのはやめるべきだ。いずれ日本人労働者と対立が始まるに違いない。北海道の根室市でみかけたベトナム実習生たちは、定時で仕事を終え、楽しく帰宅していた(ように見えた)。日本にも良心的な企業がないわけではないと思いたい。
⑨私は学生時代(1970年代のはじめ)、「発展途上国経済」を学んでいたが、1990年頃になって「ようやく」日本の経済「協力」に懐疑的になっていた。
⑩ブラジル移民の間で歌われている小唄に、「聞いて極楽 来てみりゃ地獄」という箇所がある。移民たちは「地上の楽園」という政府のことばを信じて来たのに、実際には「生き地獄」さながらであった。(資料③)

<おもな資料(2)>
④高橋幸春『日系人の歴史を知ろう』2008年。ジュニア新書。「帰ってきた日系人」についても触れられている。「現在の日系ブラジル人の人口はおよそ150万人といわれ、そのうち2割が日本に入国しています。日系ブラジル人はなぜ日本に還流しているのでしょうか。彼らは日本にどのように受け入れられ、どんな暮らしをしているのでしょうか」とある。
 また、同じ筆者の著書に『日系ブラジル移民史』1993年や、『蒼氓(そうぼう)の大地』1990年(ノンフィクション)などもある。戦前の移民の多くは出稼ぎ移民であった。しかし、彼らの多くが日本の土を再び踏むことはなかった。「自分のルーツをつきつめようとする(日系人で、著者の)妻に促されて、私(著者)も野村家四代の歴史をたどってみることにした。妻の容貌は日本人とまったく変わりはないが、思考方法や意識はブラジル人そのものである。甥や姪にあたる混血四世に至っては日本人の面影さえもとどめていない者もいる。日本人が四代もかけて身も心も外国人になったのである」(『蒼氓の大地』より)。 戦前にブラジルへ渡った家族の暮らしや、日本への断ちがたい思いなどが綴られている。そしてブラジルに永住することになった人たちの、日本に残された家族への、熱い思いを知った。
⑤岡部牧夫『海を渡った日本人』2002年。リブレット(ブックレット)。「敗戦までの日本人の移民活動の全体を素描」している。
⑥藤崎康夫「サンパウロ市の生存者」(北上次郎選『海を渡った日本人』所収、1993年)
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コメント

No title

こんにちわ。アチコチの国で「国策移民」の人たちは辛く悲しい人生を送っていますよね。私の住む北海道でも寒さや飢え、病で亡くなった人は相当数いますが、あまり表にはでませんね。日本人は昔からお役人を信じてしまう傾向が強いですね。そのお役人はいいことばかり言ってくる諸外国の誘致話をそのまま鵜呑みにしたのでしょう。お隣の国の北朝鮮でさえ詳細を調べもせずに送り出したのですからね。今の政府もそうですが「あとのことは知りません」の状態ですね。その時その時の政治家が思いつきで人の命をも、弄ぶような政策を行ってきたのは事実です。
その根幹は今も変わっていませんね、年金問題や福祉・医療・エネルギー等々、その場凌ぎで処置し禍根を残しています。誰も責任を採らない「お役所」のやり方はこの先も続くでしょうね。あまりにも国民が政治に無関心だからかな...と個人的には思います。。。

こんばんは。

コメント、ありがとうございました。

ご指摘の通りだと思います
たとえば、「あまりにも国民が政治に無関心だから・・・」、「日本人は昔からお役人を信じてしまう傾向が強い・・・」など、です。難しいことでなくてもいい、まず自分に身近なことから、政治や社会に関心を持ってほしいですね。

それから、自分の権利だけでなく、他人の権利も、もっと尊重する世の中になって欲しいですね。とくに「上に立つ人たち」です。人権を大切にする社会が実現すれば、世の中の問題のいくつかは改善するはずです。そして、移民の悲劇も防げたでしょう。
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