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明治維新150年 「ある明治人の記録」

<写真>代々木公園けやき並木「青の洞窟」
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⇓右下にドコモタワー(緑色)が小さく見える。正式名称は「NTTドコモ代々木ビル」
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 1868年10月23日、元号が慶応から明治に改められた(注①)。したがって今年(2018年)は、明治改元から150年目、つまり明治維新150年にあたる。私はここ数年、幕末から昭和までの歴史に関する本を読んできた。そして、とくに明治「維新」以降の歴史を再考しなければならい、という思いが強くなってきた。

 石光真人(いしみつ・まひと)編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』から、引用してみたい。「ある明治人」とは、もちろん柴五郎のこと。編著者の石光真人(注②)の父と柴五郎とが「交友関係」にあったことから、柴五郎が「死の三年前に」、石光真人に自身の回想録を「貸与して校訂を依頼」した。本のタイトルには「遺書」とあるが、柴五郎の「少年期の記録」(回想録)である(注③)。なお、( )内はすべて私の注記。

 柴五郎は、会津の出身で、幕末の安政6年(1859年)に「上級武士の五男として生まれ」た。「祖母、母、姉妹は会津戦争(注④)の際自刃(じじん)、一族に多くの犠牲者を出している。落城後、俘虜(ふりょ=捕虜)として江戸に収容、後に下北(しもきた)半島の火山灰地に移封され、公表をはばかるほどの悲惨な飢餓生活を続けた。……(その後)脱走、下僕、流浪の生活を経て(幸運にも)軍界に入り、藩閥の外にありながら、陸軍大将、軍事参議官の栄誉を得た逸材であり、中国問題の権威として軍界に重きをなした人である。」
 そして、柴五郎は、昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争敗戦の日から数か月後の12月13日、数え年87歳で亡くなった。なお、この「少年期の記録」については、本書第1部「柴五郎の遺書」を読んで欲しい。

<年表>
1854年(安政元年) 日米和親条約
1858年(安政5年) 日米修好通商条約
1859年(安政6年) 柴五郎、会津若松に生まれる
1867年(慶応3年) 大政奉還、王政復古の大号令
1868年(明治元年) 戊辰戦争始まる、会津若松城落城。慶応4年9月8日、改元
1873年(明治6年) 柴五郎、陸軍幼年学校
1877年(明治10年) 西南戦争。柴五郎、陸軍士官学校
1945年(昭和20年) 柴五郎、数え年87歳で没

 以下、本書第2部「柴五郎翁(おう)とその時代」から引用(石光真人が書き下ろした部分)。
 「徳川幕府を支えていた最大の雄藩であった会津藩は、欧米列強による東洋植民地化の渦の中で、封建制度崩壊後の善後策に取り組まなければならなかった。しかも京都守護職という重い任務を負い、浪人の集まる京の治安に当りながら、一方においては、北海道北辺にロシアが侵入すれば兵を進め(注⑤)、長州反乱(禁門の変)すればこれを打ち、文字どおり東奔西走の連続であった。
 鎖国を解かんとすれば薩長の浪士、尊王攘夷を叫んで外人に狼藉し(生麦事件)、英艦隊に鹿児島を、米仏英蘭連合艦隊に下関を砲撃されれば、たちまち攘夷の旗を巻いて討幕を争乱の旗印とし、幼帝(明治天皇)を擁して真偽不明の詔勅を下し、(15代将軍、徳川)慶喜断罪、会津討伐を謀る。それに先立ちすでに大政奉還を奏上し、城下に謹慎しているにかかわらず薩藩(薩摩藩)の大久保利通……、西郷隆盛……は(公家の)岩倉具視(ともみ)に『王政復古の基礎を建つるは、ひとたび干戈(かんか。武力)を動かし天下の耳目を一新し、死中活を求むるにあり』と武装蜂起を進言し、混沌たる政情であった。
 公武合体か、各藩連合の連邦制か、絶対君主国家か、議論を尽くさぬまま武力革命へ暴走したのである。市民革命とは異なり、武士によるクーデターの形式をとった強引な明治維新は、いわば未熟児ともいうべき、ひ弱な新政体を生んだ。」
 「旧藩主、旧士族の新政府に対する危惧の念と反撥は根強かった。薩長少壮藩士の強引な討幕は、全国的に多くの惨禍を生み(戊辰戦争)、深刻な憎悪を招いたが、その規模の広大さと圧力の強さと専横さは、旧幕末の弾圧政策に勝るとも劣らなかったと思われる。」
 「明治維新は根源が深く錯雑(さつざつ、錯綜)しており、また変化の速度が激しかった。かつては『勝てば官軍』の立場から歴史が綴られ、薩長藩閥政府を正当化するために、ある部分は誇張され、ある部分は抹殺された。そして今日もまた、特殊な史観にこだわって、原則に添わない不都合な事実は気軽に棄捨してはばからないようである。」 
 「東北に西南に、深い傷痕を残した(注⑥)明治維新は、薩長藩閥政府、官僚独善体制を残して終わった。」そして、「この体制は今なお続いている」。(注⑦、以上資料①)
 
 「明治維新にどこまで正当性があったのか。会津戊辰戦争は日本にとって必要で正しい戦争だったか。」(注⑧、資料②)もちろん歴史の叙述は「勝者の歴史」である。しかしさいわいにも、幕末以降の歴史には、敗者の史料が多く残されている。私は、勝者だけではなく、敗者の言い分にも耳を傾け、明治「維新」以降の歴史を「正しく」評価したい。
<おもな資料>
※『明治維新』(中央公論社、「日本の歴史」第20巻)のような一般的な歴史書は省略
①石光真人編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』1971年、改版2017年
②星亮一『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』2008年
③森田健司『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』2016年
④藤田覚『幕末の天皇』1994年
⑤安藤優一郎著『幕末維新消された歴史 武士の言い分江戸っ子の言い分』2009年
⑥東洋経済ONLINE『150年目、「明治維新」が問い直される根本理由 保坂正康氏が語る「賊軍」側からの見直し』(2018年1月9日)

<注>
①慶応4年9月8日(1868年10月23日)、明治と改元されたが、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡り、この日を明治元年1月1日と定めた。これ以降、明治の世となる。
②編著者の石光真人は1904年(明治37年)東京生まれ。1975年(昭和50年)逝去。
③この「少年期の記録」は、柴五郎が会津で生まれたとき(安政6年、1859年)から始まり、陸軍士官学校に在学中(明治11年、1878年)までの回想録。したがって柴五郎が生きた少年期とは、幕末から西南戦争のころまでの時代であった。この時代の背景は、星亮一著『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』に詳しい。この著書には柴五郎についても触れられており、石光真人編著『ある明治人の記録』を読むのに役立つ。
④会津戦争……戊辰戦争後半の、新政府軍と会津藩との戦争。戦闘は1868年(慶応4年)8月21日開始。同年9月22日、会津藩降伏。
⑤江戸幕府が1807年(文化4年)、「秋田藩・弘前藩・仙台藩などに蝦夷地への出兵と防備を命じた」のは、ロシアが「樺太や北海道の漁村で略奪を行った」ため。翌1808年(文化5年)から翌年にかけて、会津藩兵(総勢1558名)が宗谷岬や利尻島、樺太に派遣された(Wikipedia「会津藩の北方警備」)。1859年(安政6年)、「東北6藩による、蝦夷地分割統治が始ま」り、「現在の別海町西別から紋別までの領域が、会津藩領となった」(標津町歴史文化研究会『北辺の会津藩旗-幕末会津藩史外伝』)。
⑥「東北に西南に、深い傷痕を残した」とは、戊辰戦争(おもに東北)とその後の士族反乱(西南)のこと。
⑦「終わった」とは、いつのことか。この点については、資料⑥を読んで欲しい。また、半藤一利・保坂正康『賊軍の昭和史』(2015年)のプロローグも参考になる。さらに、「今なお続いている」の「今」とはいつのことか。著者の石光真人が亡くなったのは1975年(昭和50年)のこと。
⑧「会津戊辰戦争は……正しい戦争だったか」……「重い年貢と、固定された身分による差別。悪しき封建制度によって、生まれながらの権利を奪われていた庶民たちが、ついに解放される時が来た。それこそが『明治維新』である。日本は、新たに確立された先進的な明治政府の導きによって、西洋列強と同じ、『近代』という輝かしい時代に突入することになったのだ-……。/ ……概(おおむ)ねこのような内容の『明治維新=近代を招来する革命』観は、明治初年からほんの少し前まで、大きな批判を受けることもなく、普通にまかり通っていた。そして、それは明治の世を称揚すると同時に、江戸時代を徹底的に糾弾するものだった。『旧(ふる)き悪しき江戸時代を克服して、希望にあふれる明治の世になった』という見方である。/ しかし、このような歴史観は、正しいとみてよいのだろうか。」(資料②より引用)
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