日本国憲法と「理想」

1.憲法は崇高な「理想」?
満州事変から太平洋戦争までの「15年戦争」、軍国主義の時代を生きた人々にとって、日本国憲法はまさに「理想」そのものであったろう。1946(昭和21)年11月3日、日本国憲法は崇高な「理想」を掲げて公布され、翌1947(昭和22)年5月3日に施行された。本来、憲法に掲げられている「理想」は、法律や条例などで実現されるべきものである。憲法の前文にも「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」とある。ところが、その憲法の持つ「理想」と現実には、大きな乖離がある。このような乖離は、第9条「戦争の放棄」だけではない。たとえば、所得格差(第25条「生存権」)、教育格差(第26条「教育権」)、勤労格差(第27条「勤労権」)などが現に存在し、その格差は広がるばかりだ。「平等」からは程遠い(第14条「平等権」)。地方自治ははたして尊重されているのか(第92条「地方自治の基本原則」)。「地域に主権があるとはおぞましい」などと発言する国会議員もいる。国の政策をみると、政治家や官僚が「一部の奉仕者」であると思えることもある。憲法が掲げる「全体の奉仕者」(第15条第2項)にじゅうぶんなっていない。いつまでも憲法が「理想」や「目標」であってはならない。憲法を改正するより前に、「現実をより憲法に近づける努力」がなされてしかるべきだ。それでもなお国民が、「国民投票」(第96条)によって憲法の改正を望むならば、そのときやっと改正を俎上に載せる、という順番であろう。それまでは、内閣総理大臣ばかりでなく、大臣や国会議員、裁判官やその他の公務員も、日本国憲法を「尊重し擁護する義務」を負っている(第99条「憲法尊重擁護の義務」)。

2.第9条と「崇高な理想」
第9条「戦争の放棄」と関連して、憲法の前文にも「人間相互の関係を支配する崇高な理想」との表現が見られる。第9条に記されていない自衛隊の存在は大きな「乖離」のひとつだが、その存在を否定する人は少ないと思われる。「乖離」にもいろいろあるということ。「乖離」があるから憲法改正だと言うのなら、日本国憲法をすべて現実に整合するように変えなくてはならない。日本国憲法の各条文は目指すべき「理想」であり「目標」である。ただ、この「理想」や「目標」に少しでも近づけるように努力する必要がある。

3.「理想なき憲法が理想」?
東大教授の石川健治氏は朝日新聞に次のような寄稿をしている(2017年5月19日付朝刊)。見出しは「理想なき憲法が理想」。ぜひ全文を読んでもらいたいが、ここでは一部を引用してみる。「立憲主義的な憲法の定義のなかに、理想はない。特定の理想を書き込まないのが理想の憲法だ」まったくその通り。「特定の理想」を憲法に書き込んではならない。「仮に憲法が理想を掲げるとしても、……普遍的に適用する理想でなくてはならない」 問題は、「国民に特定の理想を押しつけ」ることだ。「時代錯誤な『美しい国』の理想が憲法に書き込まれることで、それを『美しい国』とは考えない日本人が、非国民として排除されるようなことになっては困る。憲法改正手続きを通じて、国民は分断され、少数派が抑圧される。それは最悪のシナリオである」 日本国憲法は与えられたものでもなく、押しつけられたものでもなく、勝ち取ったものである。もちろん勝ち取ったものは守らなくてはならない。「五日市憲法草案」などの私擬憲法で掲げられた人権などは、戦後の「日本国憲法」でようやく実現したと思える。

<参考>日本国憲法はだれがつくったのか
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東京都内、多摩地方、近県でカメラを持って散策しています。旅行・歴史・地理・文学・音楽などから最近気になったことまで、何でもとりあげています。写真なしの場合もあります。上の写真はマレーシアのクアラルンプール駅。2007年撮影。

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