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東日本大震災からの復興(1)~東松島市と石巻市

1.震災復興伝承館(宮城県東松島市)
①被災直後のJR仙石線野蒜(のびる)駅
下の写真は東日本大震災の津波で被災した旧野蒜駅(震災復興伝承館のパネルより)。駅のプラットホームは震災遺構として保存され、駅の一部は「東松島市震災復興伝承館」としてリニューアルオープンした。
東松島市震災復興伝承館
②現在(2017年9月)の旧野蒜駅
駅の後背地にはまだ数件の民家が残る。さまざまな事情で「自宅」に残った被災住民は、じゅうぶんな支援を受けられない(注)。旧野蒜駅周辺は「震災復興メモリアルパーク」の予定地で、写真のプラットフォームを含む。現在、その工事がするめられている。(注)場所は異なるが、岡田広行著『被災弱者』(2015年)に詳しい。
旧野蒜駅
③新野蒜駅 駅前団地
野蒜駅は海抜22mの高台に移設され、すぐ駅前に、山林を切り開いて造成した住宅地(野蒜ケ丘団地=集団移転団地)が広がる。高台にあるため、車がなくては生活は成り立たない。
野蒜が丘団地
<地図>JR新旧野蒜駅(宮城県東松島市)
地図東松島市

2.日和山(ひよりやま)公園から見た旧北上川河口
日和山(宮城県石巻市)は旧北上川河口の近くに位置する丘陵地で、石巻市内を一望できる。下の写真は日和大橋方面を写した写真。写真右下に、被災する前の河口付近を写した写真が見える。ここ(日和山公園)に来ていた数人の市民が河口付近を見て被害の大きさを確認していた。
日和山公園
<地図>日和山公園 旧北上川河口(宮城県石巻市)
地図石巻市

<参考>
旧北上川河口域の津波被害状況
写真で見る被災地 宮城県石巻市
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コメント

石巻の近況

こんばんは。
ご訪問、ありがとうございます。
震災の年に、2度ほど青森から福島|茨城まで車で見て歩きました。沿岸部の小さな集落はほとんどが壊滅状態で、土台もほとんど残っていないような場所もあり、驚くを通り越して言葉を失いました。
仮設住宅が、海のすぐ側の砂地に建てられているところもあり、大きな余震が来たら、この方たちはどうなるんだろうと心配になる場所もありました。
東京は建設ラッシュのようですが、被災地はあらゆる面で取り残されていますね。。。

Re: 石巻の近況

コメント、ありがとうございました。
東日本大震災の記事も読ませてもらいました。膨大なので、時間をかけて読むことにします。「被災地はあらゆる面で取り残されていますね。」……その通りですね。
阪神淡路大震災のとき、私の両親が京都南部に住んでいたこともあり、震災後10日ほどで、兵庫県の西宮と三宮へ行きました。交通も寸断されており、公園で焚火にあたるたくさんの被災者を見かけました。
震災があろうとなかろうと、日本は土建国家ですね。こうして国民に借金だけ後世に残しています。

ありがとうございます!

こんばんは。
しっかりご覧になっていただきありがとうございます!
阪神淡路大震災時に公園で焚き火に当たる被災者のお話しですが、森友学園へ払下げになった国有地、本来は被災時に避難場所となる公園にされる予定であったと一帯に住んでおられた元地権者の方々が立腹されてました。
みなさん、そういう話ならばと引っ越す決断をされたそうです。
加計学園の今治市の獣医学部プロジェクトは予定どおり4月開学になると話題になっていますが、なんともお寒い政権です。

月日はたつが

おはようございます。
この震災にはつらい思い出があります。
いつものように東北海辺の旅に出かけました
震災前の3か月・12月です。
銚子漁港を皮切りに釜石まで綺麗な海の景色を撮影しながらいつかもう一度撮影に期待と思いながらの旅でしたが、震災が起きてその当時の綺麗な景色が夢のように消えて行きました。私は写真も撮りますが、いいところは全て頭の中に記憶して自分で楽しんでいますが、これはショックが大きくて出向いてボランティアもできない状態でした。そのため何ができるかで始めたのが「写真の修復」PHOTOSHOPでコツコツ3年間、何枚かなぁ約15000枚近くしたかもしれません。悲しい現実の中で残った写真の修復は悲しいものでした。特にお子さんを亡くしたお母さんの悲しみは悲痛でした。形あるものはいつか壊れますが、これから成長していく子供の無は計り知れないものです。二度ともとに戻すことができないからですね。そして一段落した後に日本海から周って太平洋側を下りたのですが、撮った写真はもう過去のもので寂しかったですね。生きることはそう簡単ではないこともわかりますが、やはり何でも前向きに生きることをと祈るばかりでした。見守ることもかなり辛いものがありますね。

Re: 月日はたつが

コメント、ありがとうございます。
大槌町の「語り部ガイド」の方が私に、次のようなことを言っておられました。「後ろは見ない。前を見て生きる」と。さいわい家族の命は助かりましたが、家と家財のすべてを失われたそうです。津波のときは、町内会長として、近隣の方々を急坂の上の避難地へ誘導されていたそうです。私たちは、せめて気持ちのうえでつながっていたいと思います。
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