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新田開発(1)三富新田 埼玉県

 角川書店の『新版日本史辞典』によると、「新田開発」とは次のようである。「新田開発」とは、「新たに田を開発する意だが、歴史的には近世に行われた屋敷地も含めた田畑の新たな開発をいう。……織豊期-江戸前期に盛んに行われ、中期にやや停滞し、後期に再び盛んに行われた……。また地域的には、全国各地で行われたが、畿内とその周辺地域では少ない。この結果、近世を通じて耕地は2倍に増加した。その方法としては、用水路や溜池(ためいけ)を築いて開発するもの、湖沼や低湿地・海岸を干拓して開発するものなどがあった」。
 三富新田は埼玉県の三芳町と所沢市にまたがる新田。今でも開拓当時の地割を見ることができる。この地域にある「三富開拓地割遺跡は、……江戸時代に行われた新田開拓の地割跡で、埼玉県の旧跡に指定されている」。ところで「開拓以前の三富地域(注①)」は、「広大な萱野原が広がっており、周辺の村々の入会地(注②)として、肥料を作る落葉や馬のエサとなる草、燃料にする薪(たきぎ)などを取るために共同で利用され、村の生活を支える大切な場所」であった。
 「元禄7年(1694年)、川越藩主となった柳沢吉保(よしやす)は、長年争いを続けてきた入会地が幕府によって川越藩領と認められたため」、現在の埼玉県三芳町上富(かみとめ)付近を中心とした「周辺地域の開発に着手し」た。「元禄9年(1696年)5月には開拓地の検地が行われ、上富・中富・下富の三村が誕生」する。(以上、資料①)「また、吉保は、入植者を求める一方で、開拓農民の心の拠り所とするため、菩提寺として多福寺を、祈願所として毘沙門社(別当寺 多聞院)の一寺一社を創建し」た(注③)。(以上、資料②)
 柳沢吉保は「野火止用水の例にならって、箱根ヶ崎(注④)の池から水をひこうと試み」たが、「結局失敗に終わった」。「そこで、三富全域で11か所の深井戸(約22メートル)が掘られ、数軒が共同で利用」していた(注⑤)。(資料③)

<注>
注①「三富」(さんとめ、さんとみ)は、埼玉県三芳町(上富)と所沢市(中富・下富)にまたがる地域の総称。
注②入会地(いりあいち)とは、一定地域の住民が、特定の山林や原野などを共同利用する土地。
注③菩提寺とは、先祖の遺骨を葬り、死者の冥福を祈るお寺。祈願所である毘沙門社(びしゃもんしゃ)は神社。この神社を管理する寺院を「別当寺」などと呼んでいる。ここでは多聞院(たもんいん)のこと。明治の神仏分離令によって、境内の西側は神社(神明社)、東側は寺院(多聞院)としてそれぞれ独立し、今日に至っている。
注④現在の東京都西多摩郡瑞穂町。
注⑤武蔵野「台地北半<三富新田など>の新田集落は……深井戸」によって、「台地南半<武蔵野新田など>の新田集落は多くが玉川上水およびそれにより分派する支流用水」によって水を得ていた(資料④)。

<資料>
①所沢市「三富開拓地割遺跡」(Webサイト)
②所沢市「多聞院毘沙門堂」(Webサイト)
③三芳町「三富新田の開拓」(三富町立歴史民俗資料館パンフレット)
④菊地利夫著『新田開発(改訂増補)』(1977年)
⑤三芳町立歴史民俗資料館編『三芳の歴史』
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