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明治の初め、三多摩は神奈川県であった 

武蔵国多摩郡はどこに帰属?(1) 明治の初め、三多摩は神奈川県であった 

 「大火の改新<645年>で国郡制がしかれ……実質的な武蔵国<むさしのくに>が誕生する」とされるが、その範囲は「現在の東京都のほぼ全域と、埼玉県および神奈川県の北東部であった」。「武蔵国は初め、……19郡からなり、のち……21郡となった。……武蔵国の政治の中心地である国府(注①)は多麻郡(注②)内におかれ」ている。
 江戸時代、多摩郡の多くの村が天領(幕府直轄領)や旗本領に属していた。慶応4年(1868年)、明治新政府は江戸を東京と改称し、東京府を置く(注③)。明治4年(1871年)の廃藩置県により、東京府は隣接の町村を合併して、新たな東京府となり、いっぽう多摩郡は神奈川県となった。明治11年(1878年)の郡区町村編制法により、多摩郡は東西南北の4郡に分割され、東多摩郡(現在の中野区と杉並区)は東京府に編入される(注④)。(以上、簡略に記したが、じっさいにはもっと複雑な変遷をたどる。資料①竹内誠他著『県史13 東京都の歴史』より自由に引用)

明治26年(1893年)に「三多摩<西南北の各多摩郡>は神奈川県から東京府に移管され」る(東京府移管問題)。ところが昭和18年(1943年)に東京都が成立すると、「三多摩も東京都に含まれることになった……。」(東京都制問題)(資料②梅田定弘著『なぜ多摩は東京都となったか』。以下もこの著書からの引用。)

<年表>
1868年(慶応 4年)…江戸を東京と改称し、東京府を設置
1871年(明治 4年)…廃藩置県。多摩郡は神奈川県となる
1878年(明治11年)…郡区町村編制法により、東多摩郡を東京府に編入
1893年(明治26年)…三多摩を神奈川県から東京府へ移管⇒東京府移管問題
1943年(昭和18年)…都制の施行、三多摩も東京都に帰属⇒東京都制問題

1993年には、「三多摩が東京都に移管されて100年、そして都制が施行されて50年になっ」た。「ところが……三多摩が神奈川県であったこと」を知る人は少ない。かつて「三多摩が神奈川県から東京府に移管された際、……三多摩では多くの町村が役場を閉じて、村ぐるみの猛烈な反対運動をくり広げ」た。ところがその後、三多摩は「都制への編入を求める『都制編入運動』を活発に展開……」。三多摩は、明治のはじめには東京「府」ではなく、神奈川県に帰属することを求め、その後は東京「都」に帰属することを求めた(神奈川県復帰反対運動)。この三多摩の各市町村の、正反対の対応はいったいどのような理由からであろうか。

 「三多摩は明治4年(1871)の廃藩置県の際、一度入間県(のちの埼玉県)への編入が決定された」にもかかわらず、当時の神奈川県知事であった「陸奥宗光(むつむねみつ)の強い要求によ」り、編入後まもなく、「神奈川県へ管轄が変更され」た。「三多摩が外国貿易開始以降、横浜とのつながりが強か」った「ことが理由となって神奈川に入ることにな」る。(注⑤)
 明治26年(1893年)、三多摩を神奈川県から「東京府へ移管しようという」法律案が帝国議会に提出される(わずか10日後に成立)。「政府は議会で、移管は東京の飲料水(玉川上水)を確保するために、その水源地である<神奈川県>三多摩を東京府の管轄下に置」くためであると説明した。しかし、この説明だけでは「どうして地元<神奈川県三多摩>の強い反対運動を押し切ってまでも移管を実現しようとしたのか、また水源とは直接に関係のない南多摩の移管まで求めたのか、などの疑問に答えられ」ない。「そこで、これまでは飲料水の確保というのは表むきの理由で、実は第2回総選挙<1892年>の際の選挙干渉をはげしく批判していた神奈川県自由党(注⑥)を分断して弱めるために、政府により、<三多摩の東京府移管が>強行されたのだ、と説明されてき」た。ところが「郡単位の移管」は、「1つの理由のみで実現できるような簡単なことでは」ない。著者は「移管を推進した四つの要因」を次のように説明している。

1. 東京府側の要因…明治政府の説明
 「玉川上水の水源確保、水源管理のために、移管を求めた」
2. 神奈川県側の要因…従来の説明
 「神奈川県知事が県議会でてこずっていた神奈川県自由党を分断するために、三多摩を神奈川県から分離することを考えた」
3. 地元三多摩側の要因…追加要因
 「甲武鉄道(現在の中央線)の開通などで東京との経済的な結びつきが強まり、地元でも移管推進派が増加し始めていた」
4. 自由党側の要因…追加要因
 「自由党員であった衆議院議長星亨が自由党を現実主義路線へと変え」ようとしており、「三多摩自由党もその星に近づきつつあった」(注⑦)

この「四つの要因」の詳細は本書を読んでもらいたい。「大きな流れで見れば、甲武鉄道計画が進みつつあった明治10年代後半から20年代後半にかけて……三多摩全体がそれまでの横浜指向から東京指向へと大きく転換し」ていた。つまり、①東京府の水資源確保や、②自由党の強い神奈川県から三多摩を分離したい、という思惑のほか、このころには三多摩が東京府と「経済的な結びつき」を強めていたことなどが、三多摩が東京府へ移管される要因であったという。

<注>
①国府…律令制のもと、地方支配の拠点として各国に設置された役所、またはその所在地。武蔵国の国府は現在の東京都府中市にあった。武蔵「国」といえども、律令制下の地方行政組織。朝廷から派遣された国司が治めていた。戦国時代以降、「国」(くに)の名称は行政区分としての機能を失い、たんなる地域区分(地理区分)となる。現在では、地域区分としても使われなくなっている。(資料④)
②多麻郡…「延喜式」には多「麻」郡と表記されている。その後、「吾妻鏡」などでは多「磨」郡や多「摩」郡と書かれるようになった。「延喜式」は律令法の施行細則を集大成した法典で、平安時代中期に完成。
③東京府…1868年(慶応4年)7月17日に東京府が設置される。「明治4年<1871年>11月、『廃藩置県』が実施され、……従来の東京府は一旦廃止……、11月14日あらたに『東京府』が設置されるという形式をと」った。(資料①)
④武蔵国多摩郡はかなり広域であるので、東西南北の4郡のうち、東多摩郡(現在の中野区と杉並区)は東京府へ、その他の西南北の多摩郡(三多摩)は神奈川県へ帰属することになる。じっさいの多摩郡の帰属は明治維新後、複雑な経緯をたどるので省略した。
⑤当時八王子などで生糸の生産が盛んで、横浜港から輸出されていた。
⑥神奈川自由党…町田市立自由民権資料館で自由民権運動の歴史を学ぶことができる。以下、この資料館のWebサイトから引用。「現在の町田市域をはじめとする多摩地区は、自由民権運動が盛んだった時期、神奈川県に属していました。神奈川県は武蔵国6郡と相模国9郡から成り立っていたために、『武相』とも呼ばれていました。武蔵と相模に分かれて活動していた運動を、一つにまとめようとしたのが町田市域の民権家で、1881(明治14)年に原町田では武相懇親会を開き、その後も武相の自由民権運動をリードしていきます。」
⑦「自由党を『壮士』中心の政党としようとした……大井健太郎」と、「『代議士』中心の政党に改革しようとした……星亨」との「戦いは、結局、星の勝利に終わり」、大井派であった三多摩自由党もやがて「星派へとくらがえを計った」。つまり「三多摩自由党が反政府<東京府移管反対>から親政府<移管賛成>へ転換した」ことによる。(資料②)

<資料>
①竹内誠他著『東京都の歴史』(県史13、1997年)
②梅田定弘著『なぜ多摩は東京都となったか』(けやきブックレット、1993年)。今ではこの本を書店で手に入れることはできないが、図書館で借りて読むことはできる。
③多摩百年史研究会編著『多摩百年のあゆみ』(1993年)
④「武蔵国や相模国などの国(令制国・旧国)が成立したのは7世紀頃と考えられています」を参照した。
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