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昭和記念公園チューリップ畑(東京都立川市)

 今日の写真は国営昭和記念公園だが、撮影は2014年4月中旬。
 昭和記念公園(有料区)は、非常事態宣言などで長らく休園中であったが、この4月5日から再開された。ただし、5月5日までは混雑状態によっては入園や遊具、日本庭園で人数制限が実施される。
 チューリップ畑は、すでに4月1日には「見頃」を迎えた。桜の花と同時に見ごろとなった。
 東京都では新規の感染者がほぼ毎日400人近くでている。第4波は現実のものとして到来した、と考えてよい。第4波が第3波以上の感染拡大にならないことを願う。無症状(無自覚)の感染者がいることを前提に行動するしかない。

<写真>写真撮影は2014年4月中旬
⇓昭和記念公園のチューリップ畑
 今年は、4月1日には桜ばかりでなく、チューリップも満開となった。
昭和記念公園2014040501
昭和記念公園2014040502
昭和記念公園2014040503
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昭和記念公園2014040505
昭和記念公園2014040506
昭和記念公園2014040507
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東南アジア旅行 ③マラッカとシンガポールの歴史

1.マラッカ(ムラカ)と植民地化
 1400年頃のマレー半島に成立したマラッカ王国は、マラッカ海峡に面した港市(こうし)国家(注①)として繁栄していた。のちにマラッカ王がイスラム教に改宗し、ムスリム(イスラム教徒)商人たちの活動が盛んになると、東南アジアの島嶼部全域でイスラム教が拡大した。
 大航海時代を迎えた1498年、ポルトガルのバスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到着。1510年、ポルトガルはインド西岸のゴアに拠点を築く。当時、東南アジアにおける国際的な商取引の中心地がマラッカ(現地読みでムラカ)であったことから、翌1511年、ポルトガルは武力でマラッカを占領。これが東南アジアにおける植民地化の始まりであった。ただし、ポルトガルのマラッカ支配は、支配領域の拡大より貿易拠点の確保に狙いがあったため、交易拠点でしかなかった。さらにポルトガルはマカオを拠点として、中国や日本との交易にも乗り出した
 ところが1641年、オランダがポルトガルの重要拠点であったマラッカを征服し、支配することになる。1795年、オランダ本国がフランスによって占領されると、翌1796年、マラッカはイギリスに奪われることになった。1824年、英蘭協約(英蘭条約)が締結され、マラッカ海峡を境として、東側をイギリス(ほぼ現在のマレーシアとシンガポール)、西側をオランダ(ほぼ現在のインドネシア)の勢力圏としたため、マラッカは正式にイギリスに帰属することになった(注②)。1826年、イギリスはマラッカとペナン、シンガポールを統合して海峡植民地とする(注③)。
 こうして、かつてマラッカ海峡を挟んだ文化圏であったマラッカ王国は、イギリスとオランダに分割されて植民地化され、こんにちのマレーシアとインドネシアの2国家による分断をもたらすことになった。

<写真>
⇓セントポール教会(廃墟)のある丘の上から遠くのマラッカ海峡が見える
 1974年の夏にもこの丘からマラッカ海峡を眺めた
マラッカ海峡2007040301
マラッカ海峡2007040302
<注>
①港市国家……港として発展した都市を港市(こうし)という。この港湾都市を拠点として海上貿易(中継交易)で繁栄した国家を港市国家といい、近代以前の東南アジアにおいて多く出現した。
②英蘭協約……ナポレオン戦争(1796年~1815年)後の、この地域の勢力範囲を、イギリスとオランダが確定した条約。
③海峡植民地……18世紀末、イギリスの東インド会社はオランダをマレー半島から駆逐し、1786年にペナン、1819年にシンガポール、1824年にマラッカを獲得。1826年にこれら3地域の名称を海峡植民地とした。はじめ東インド会社のベンガル管区管轄下の植民地であったが、1858年にイギリス東インド会社が解散すると、1867年、イギリス植民地省の管轄に移された(政府直轄植民地)。イギリスは1874年以降、海峡植民地の後背地をつぎつぎと本国直轄の植民地とする(イギリス領マラヤ)。第二次世界大戦後の1957年、イギリス連邦の一員として独立(マラヤ連邦)。1963年、シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ(現在のサバ)、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合してマレーシアとなった。1965年、シンガポールがマレーシアから分離独立。なお、イギリス東インド会社の「東インド」はアジア全体をさす。

<資料>
①世界史の窓「マラッカ王国、マラッカ」
②永積昭『オランダ東インド会社』1971年、文庫版2000年
③鶴見良行『マラッカ物語』1981年
④池端雪浦(いけはた・せつほ)編『東南アジア史Ⅱ』(新版世界各国史6)1999年
⑤羽田正『東インド会社とアジアの海』2007年、文庫版2017年
⑥Tony's Net and Melaka Guide「マラッカ(マレーシア)の歴史年表

2.セントポール教会の興亡(マラッカ)
 1511年、ポルトガルがマラッカ(ムラカ)を武力制圧すると、1521年、ポルトガルはマラッカ市内を流れるマラッカ川の河口付近にある小高い丘に小さな教会を建てた。

 この教会の観光案内パネルにはだいたい次のように書かれている。
 教会はもともとポルトガル人船長Duatro Coelhoによって1521年に建てられた小さな礼拝堂であった。礼拝堂は1548年にイエズス会へ移譲され、1556年には増築された。ポルトガルは、1世紀以上におよぶマラッカとアチェ(現在のインドネシア、スマトラ島北部)のスルタン軍(イスラム軍)による攻撃を防ぐため、小さな教会のあるマラッカの丘を取り囲むように、要塞(城塞)を築いた。これをサンチャゴ砦(Porta de Santiago)とか ファモサ要塞(A’Famosa)などという。現在もこの要塞跡にサンチャゴ門(4か所の通用門のうちのひとつ)が残っている。
 1641年、オランダ人がポルトガルからマラッカを奪い取ると、オランダ人は、ポルトガル人が建てた小さな教会をセントポール教会(St. Paul’s Church)と改名した。この教会は、1753年に丘の麓にムラカ・キリスト教会(Christ Church Melaka)が建つまでの112年間も使用された。その後支配したイギリス人は、礼拝には用いず、弾薬庫などに使用した。セントポール教会は破壊され、今は礼拝堂の壁跡だけが残る廃墟となった。教会の跡地内から古い墓石が発見されたが、それらはポルトガル人やオランダ人のものであった。
※以上の引用は、資料①からの要約、一部改変。資料②も参考にした。

<写真>
⇓マラッカ市内。この道を歩いてセントポール教会へ行く。1974年にもこの道を歩いた
マラッカ市内2007040304
⇓廃墟のセントポール教会。礼拝堂の壁跡だけが残る
 1521年、ポルトガルがマラッカ川の河口付近にある小高い丘に小さな教会を建てた。
 右端にフランシスコ・ザビエルの像が見える。1545年、ザビエルはここから日本へ向かった
セントポール教会2007040305

⇓小さな丘の上にある、廃墟のセントポール教会
セントポール教会2007040306
セントポール教会2007040307
⇓中央の小さな建物が当時の、サンチャゴ砦の門
 イスラム軍による攻撃を防ぐため、小さな教会のある丘を取り囲むように、要塞(城塞)がつくられた
セントポール教会2007040308
<資料>
①中内清文「マラッカ/セント・ポール教会の墓石に刻まれた帆船」(「海洋総合辞典」)。
②Tony’s Net and Melaka Guide「セントポール教会礼拝堂史跡」

3.ラッフルズとシンガポール
 トーマス・スタンフォード・ビングレイ・ラッフルズ(Sir Thomas Stamford Bingley Raffles)は、イギリスの植民地行政官。1781年に生まれ、1826年に亡くなった。
 ラッフルズは14歳でイギリス東インド会社の職員として働き始め、1805年にはマレー半島のペナンへ、1811年にはジャワへ、1816年にいったんイギリスへ帰国後、1818年にスマトラ島のベンクーレン(現地語でベンクルまたはブンクル)に赴任する。
 1806年、フランスがオランダ本国を占領すると、1811年にイギリスはオランダ領ジャワを占拠。ついで1819年、イギリスはマレー半島の最南端にあるジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。翌1820年、ラッフルズはシンガポールを自由貿易港の拠点と定めた。1824年3月に英蘭協約(英蘭条約)が締結され、シンガポールの帰属が確定すると、翌4月、ラッフルズはイギリスへの帰国の途についた。そして1826年、ロンドンで死去。
 なお1824年の英蘭協約により、マラッカ海峡の東側はイギリス領(ほぼ現在のマレーシアとシンガポール)、西側はオランダ領(ほぼ現在のインドネシア)となる。1826年、イギリスはペナン、マラッカ、シンガポールを海峡植民地とする。海峡植民地は、初めはイギリス東インド会社ベンガル管区管轄下の植民地であったが、1867年には本国(植民地省)の直轄植民地となった。政庁はシンガポールに置かれた。
 1858年にイギリス東インド会社が解散すると、イギリスは1874年以降、海峡植民地の後背地をつぎつぎと本国直轄の植民地としていった(イギリス領マラヤ)。イギリスは、王と宗教と慣習に関する権限を残す一方、イギリス人行政官を派遣して実権を握る「間接統治」の体制をとった。
 19世紀、イギリスは海軍力を背景に東アジア・東南アジアの国々に「開国」を迫った。これは、世界で初めて産業革命を起こし、自由貿易が優位な立場にあったためである。シンガポールとホンコンは、これらの地域を支配する拠点となった。日本も、1854年には和親条約によって開国し、1858年には通商条約を結ばざるをえなくなった。

<写真>
⇓マーライオン・パーク(シンガポール)。中央に小さくマーライオンの像が見える
シンガポール2007040309
⇓ラッフルズの像(左下)とビクトリア・メモリアル・ホール
VICTORIA MEMORIAL HALL2007040310
⇓ラッフルズホテル。1887年に創業、ラッフルズにちなんで名付けられた。世界各国のVIPが訪れる
ラッフルズホテル2007040311
<マレー半島の歴史>
マレー半島の歴史2021040312
<資料>
①坪井祐司『ラッフルズ 海の東南アジア世界と「近代」』2019年
②信夫清三郎(しんぶ・せいざぶろう)『ラッフルズ伝 イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』1968年。本書は1943年に出版されたが、発売1週間で内務省(当時)から発禁処分を受けた。1968年に復刻版として再び出版されることになる。
③羽田正『東インド会社とアジアの海』2007年、文庫版2017年
④Wikipedia「ラッフルズ」